第103話 帰ってきた教室
美羽が来たのは、私が目を覚ましてから何日か経った午後だった。
お母さんが椅子を空けると、美羽はそこへ座る前に、私の顔をしばらく見ていた。制服を着て、肩に通学用の鞄を掛けていた。その姿があまりに見覚えのあるものだったので、私はかえって、何を話せばいいのか分からなくなった。
「理恵」
「美羽」
名前を呼び合うと、美羽の顔が少し歪んだ。笑おうとしていたのに、目の方が先に濡れていた。
「ほんとに、起きたんだね」
私は頷いた。
美羽は椅子へ座り、鞄を膝に載せた。上についていた飾りが、私の覚えているものと同じだった。髪が少し伸びていたが、声も、私を見るときに首を傾ける癖も変わっていなかった。
私はその顔を見ながら、自分がどのくらいこの子と会っていなかったのか考えた。
お母さんは三か月と言った。
美羽にとっても、それだけの時間だった。
「怪我、まだ痛い?」
「動くと、少し」
「どこを怪我したのか、お母さんから聞いたけど……」
美羽は私の腕へ目を向け、それからすぐに顔へ戻した。
「聞いてもいいのかなって」
「私も、まだ全部は分かってない」
そう答えると、美羽は頷いた。無理に続きを尋ねず、鞄の中から薄い袋を出した。
「みんなから」
中には寄せ書きがあった。
名前を一つずつ読んだ。知っている名前だった。教室で話した子も、あまり話したことのない子も、早く戻ってきてと書いてくれていた。
私は紙の端を持ち、その厚さを指で確かめた。
*
「修学旅行、秋になったよ」
私は顔を上げた。
「秋?」
「うん。もともとの日程、理恵が入院してたでしょう。先生が学校に相談してくれたんだって」
美羽は鞄から予定の書かれた紙を出した。
「理恵も一緒に行けるようにって。ほかの都合も調整して、延期になったの」
私は差し出された紙を受け取った。
上の方に、沖縄、と書かれていた。
その文字を見た途端、胸元へ手を置きそうになった。途中で手を止め、紙を持ち直した。
「もちろん、体調を見てからだよ。先生も、お医者さんが大丈夫って言ったらって」
「……うん」
「一緒に行けたら、いいなと思って」
美羽の声に顔を上げると、こちらの返事を待っていた。
私は頷いた。
行きたいのか、行きたくないのか、自分でも分からなかった。
沖縄へ行けば、何か分かるかもしれない。食堂があった場所も、学校も、あの畑も、今はどうなっているのか。
けれど、千代の倒れた場所へもう一度立つことを考えると、紙を持つ指に力が入った。
美羽は私の手元を見て、話を変えた。
「授業のノートも持ってきたけど、今日は置いていくだけにするね」
私は、ありがとうと言った。
袋から出されたノートには、美羽の字で日付が並んでいた。私が知らない日の授業が、何ページも続いていた。
*
身体を起こす練習が始まると、眠っていた時間の長さが、少しずつ分かるようになった。
ベッドの端へ座るだけで疲れた。足を床へ下ろしても、すぐには体重をかけられなかった。支えてもらって立つと、膝が頼りなく揺れ、手すりを握る指へ力が入った。
私はもっと歩けると思っていた。
壕の通路を何度も往復した。担架を持ち、袋を肩へ掛け、夜の道を歩いた。最後には、畑を走った。
その身体の使い方を覚えているのに、今の脚は、廊下を少し進んだだけで重くなった。
「今日は、ここまでにしましょう」
言われると、まだできると答えたくなった。
けれど、椅子へ座った途端に息が上がり、自分が疲れていることに気づいた。
お母さんは、急がなくていいと言った。
私は頷いた。
急がなくても置いていかれない場所にいることを、何度も確かめなければならなかった。
*
退院した日、お母さんは玄関で私より先に靴を脱ぎ、手を貸してくれた。
家の中は、覚えていた通りだった。
廊下の端に置かれた棚も、居間の時計も、台所から見える食卓も同じだった。自分の部屋へ入ると、机の上には事故の前に使っていたものが残っていた。
開きかけのノートがあった。
椅子を引き、その前へ座った。自分の字で書かれた歴史の年号を見ていると、隠していた日記を思い出した。
あの日記は、おばちゃんに渡した。
ここにはなかった。
私は引き出しを開け、意味もなく中を見た。使いかけの消しゴム、予備の鉛筆、小さな封筒が入っていた。針と糸を入れていた包みは、どこにもなかった。
お母さんが部屋の入口へ来た。
「疲れたら、横になってね」
私は引き出しを閉めた。
「うん」
その晩、枕元へ水を置いた。
喉が渇いたら飲めるように、手を伸ばせば届くところへ置いた。夜中に車の音で目を覚まし、布団の中で身体を丸めたあとも、水はそこにあった。
蓋を開け、少し飲んだ。
全部飲んでも、台所へ行けばまた水を入れられた。
*
学校へ戻った日、美羽が校門のそばで待っていた。
「歩くの、ゆっくりでいいから」
私の鞄を持とうとしたので、大丈夫と言いかけた。けれど、校舎までの距離を見て、手渡した。
階段では手すりを持った。美羽は先へ行かず、隣で待ってくれた。途中でほかの生徒が通ると、私たちは端へ寄った。
担任の先生は、疲れたらすぐに保健室へ行くように言った。
「まずは午前中だけ。様子を見ながら、少しずつ戻していこう」
私は頷いた。
教室へ入ると、何人もこちらを見た。おかえり、と声をかけられ、私は小さく頭を下げた。
自分の机へ座った。
天板は滑らかだった。端へ指を置き、椅子の下へ足を入れた。窓から校庭が見え、向こうの教室から笑い声が聞こえた。
授業が始まると、先生が黒板へ文字を書いた。
隣の席の子が教科書を忘れたと言い、前の子が見せてあげると答えた。机を寄せる音がして、先生が、次は忘れないように、と言った。
私はノートを開いた。
名前を書き、日付を書いた。その数字を見てから、黒板の文字を写した。
窓の外を大きな車が通った。
肩が跳ね、鉛筆の先が紙へ強く当たった。美羽がこちらを見たので、私は大丈夫と頷いた。
折れた芯を、指で拾った。
*
学校へ行く日が少しずつ増え、家で休んでいた午後、お母さんが仏壇の前を片づけていた。
「今年のお盆、体調がよかったら、お墓参りに行こうか」
私は食卓から顔を上げた。
「ひいおばあちゃんのお墓。しばらく一緒に行けてなかったでしょう」
お母さんは写真立てを持ち上げ、柔らかい布でガラスを拭いていた。
「理恵、事故の前に、沖縄のことをよく調べてたよね」
私は頷いた。
「ちゃんと話したこと、なかったかな。ひいおばあちゃん、沖縄の人なのよ」
手が止まった。
「沖縄?」
「うん。こっちへ来る前は、沖縄に住んでいたんだって」
私は椅子から立ち、お母さんのそばへ行った。
写真の中には、年を取った女の人がいた。少し身体を傾け、口元を緩めていた。ガラスに部屋の灯りが映っていたので、角度を変えて顔を見た。
「戦争のときも、いたの?」
「いたと思う。でも、その頃のことは、あまり聞けなかったの」
お母さんは写真を見た。
「話したがらなかったから。私も、無理に聞かない方がいいと思ってた」
私はその顔を見つめた。
写真に写るまで、この人も長い時間を生きた。沖縄にいたということは、私の知らない場所で、私がいた頃を過ごしていたのかもしれない。
「何か、残ってないかな」
「昔の写真とか?」
「うん。沖縄にいたときのもの」
お母さんは少し考えた。
「おばあちゃんに聞いてみようか。片づけたものが、まだあるかもしれないから」
私は頷いた。
お母さんが写真を仏壇へ戻すと、ガラスに映っていた光が消え、顔がはっきり見えた。
もう本人に尋ねることはできなかった。
それでも、この人がどこで暮らしていたのかを、私は知りたかった。どんな家へ帰り、誰の名前を呼び、何を話さずにここまで生きたのか。
食卓へ戻ると、美羽から借りたノートが置かれていた。
私はその横へ自分のノートを開き、まだ写していなかった授業の続きを書き始めた。途中で右手が止まると、指を一度開き、もう一度鉛筆を握り直した。




