第104話 感想欄
教室の前にスクリーンが下ろされると、窓際の生徒が順番にカーテンを閉めた。
布の隙間には昼間の光が残っていた。先生が廊下側の灯りも消すと、机の上に置かれた感想用紙が薄暗くなった。私は名前だけを書き、鉛筆を横へ置いた。
「暗くなるけど、大丈夫?」
隣から、美羽が小さな声で尋ねた。
「うん」
「気分悪くなったら、言ってね」
私は頷いた。美羽はそれ以上聞かず、自分の用紙へ名前を書いた。
先生が、修学旅行へ行く前に、沖縄戦について考えるための映画だと説明した。登場する学校や人物には創作が含まれていることも、先に伝えられた。
やがて画面が明るくなり、青い海が映った。
波の音に重なって音楽が流れ、そのあとに、制服を着た女の子たちが現れた。校庭を歩きながら笑い合い、一人が友達の肩へ手を置いた。振り向いた子の髪が風で動いた。
私は机の下で、指を握った。
文子も、あんなふうに振り向いたことがあった。
千代は後ろから呼ばれると、返事をするより先に顔を向けた。春子なら、私たちが立ち止まっている間にも歩いていき、早くおいでと手を振っただろう。
画面の女の子たちは、そのまま校舎へ入っていった。
*
映画の中では、学校生活が少しずつ変わっていった。
授業の代わりに訓練が入り、教室へ看護の道具が運ばれた。生徒たちは互いの腕へ包帯を巻き、上手にできた子を見て笑った。先生がその笑い声を注意すると、みんなが背筋を伸ばした。
私にも、覚えがあった。
まだ、巻き直せば済んだころだった。
包帯の端を落としても、友達の指へ強く結びすぎても、痛いと笑われてほどけばよかった。教わったことが、本当に誰かの血を止めるために必要になるとは、身体では分かっていなかった。
次の場面は、卒業式だった。
壇上で校長が話し、生徒たちは膝の上に手を揃えていた。卒業証書を受け取る少女の顔が大きく映った。家族の姿を探しているのか、その目が客席を動かし、やがて口元に小さな笑みが浮かんだ。
けれど、式が終わっても、映画の少女たちは家へ帰らなかった。
荷物を持ち、学校へ集められた。先生の話を聞き、軍の病院へ向かう列に並んだ。友達同士で顔を見合わせ、声をかけ合っていたが、さっきまで手に持っていた卒業証書は、もう画面に映らなかった。
私は膝へ掌を押しつけた。
家へ帰れると思っていた子もいただろう。
卒業したら何をするのか、誰に会うのか。そこまで考えていた子も、いたはずだった。
私たちだって、進路の話をした。
先生になりたいと言った声も、食堂をやりたいと話したときの顔も、まだ覚えていた。先のことを話している間は、その先まで生きていられるつもりでいた。
*
病院の場面になると、音楽が低くなった。
少女たちが負傷した兵隊さんへ駆け寄り、白い布を当てた。兵隊さんは痛みに顔を歪めながらも、そばにいる少女へ家族の話をした。
私は、その布を見ていた。
次に使うものが、棚にあるのだろうか。
画面では、汚れた布が外されると、すぐに新しいものが差し出された。器も水も、必要なときにそばへ置かれていた。少女は患者さんの手を握り、話を最後まで聞いていた。
私には、握っていたくても離さなければならなかった手があった。
隣で呼ばれれば、そちらへ行った。布を探して戻ったときには、もう返事のない人もいた。傷を押さえてほしいと言われ、押さえている間に、別の人が水を求めていた。
聞いてあげたかった話は、幾つもあった。
けれど、相手が言い終えるのを待てないことも、途中から声が聞き取れなくなることもあった。顔を近づけても、名前なのか、痛いと言っているのか、分からなかった。
映画の兵隊さんは、少女へ礼を言った。
その言葉が終わってから、静かに目を閉じた。
後ろの席で、誰かが鼻を啜った。
私はスクリーンから目を離し、机の上の感想用紙を見た。何も書かれていない欄が、薄い光を受けて白く見えた。
*
砲弾が落ちる音に、肩が跳ねた。
頭を下げかけ、途中で止めた。机の脚も、床も動いていなかった。顔を上げると、画面の中で土煙が広がっていた。
隣で美羽がこちらを見た。
私は小さく頷き、もう一度スクリーンへ顔を向けた。
少女たちは病院を移ることになった。
歩ける人が荷物を持ち、歩けない人は寝かされたままだった。一人の少女が患者さんのそばを離れられず、先生に肩を抱かれて立ち上がった。
その場面で、私は照子を思い出した。
歩けるようになるかな、と聞かれた。
傷を悪くしないようにしようと答えたときも、照子は私の顔を見ていた。もっと先のことを知りたかったのに、私はそこまで話さなかった。
信子の指が、私の袖から離れた感触も残っていた。
映画は、次の壕へ移った少女たちを映した。
その間の道は、短かった。
けれど、私の中では終わらなかった。膝を曲げるたびに痛み、荷物の紐が肩へ食い込んだ。前を歩く友達を見失わないように、顔を上げ続けた。足を止めたかったが、誰かが立ち止まれば、その後ろも止まった。
画面が変わっても、私はしばらく、照子のそばにいた。
*
映画の終わりが近づくころ、少女たちへ解散命令が伝えられた。
先生が一人ずつ顔を見て、家へ帰るように言った。少女たちは泣きながら頷いたが、外へ出ると、帰る道が分からなかった。
砲声が続き、海の方にも行けず、来た道にも戻れなかった。
何人かが一緒に逃げた。途中で人数が減り、最後には、三人の少女が岩陰へ身を寄せていた。
私は息を浅くした。
美羽の肘が、すぐそばにあった。
触れようと思えば触れられるのに、私は手を動かせなかった。
画面の少女が、お母さん、と呼んだ。
別の少女が家の話をした。帰ったら食べたいものを言いかけ、もう帰れないのだと気づいたように泣いた。
それから、三人は互いの顔を見た。
敵に捕まることへの恐怖を口にし、もう逃げる場所がないと話した。遠くから呼びかける声が聞こえていたが、少女たちは動かなかった。
音楽が、少しずつ大きくなった。
三人が手を重ねた。その一人が何かを言い、ほかの二人が頷いた。涙に濡れた顔が順番に映り、画面が岩陰から離れた。
最後には、誰もいない海が映った。
少女たちは、絶望の中で自決を選んだのだと分かった。
教室のあちこちで、泣いている声がした。
私はスクリーンを見たまま、奥歯を噛んでいた。
*
死にたかったのだろうか。
あの子たちは、最後まで。
私には、岩へ押し当てた布の感触が残っていた。わずかに湿ったところを探し、口へ持っていった。何も食べられなくても、水だけは欲しかった。足が痛くても、次に隠れられる場所を探した。
千代は、私の胸へ布を当ててくれた。
文子は、二人を置いていけないと言った。
そのとき私たちは、別れの言葉を落ち着いて交わせなかった。何を言えばいいのか分からず、同じ名前を何度も呼んだ。逃げてと言いながら、そばにいてほしいと思った。
手を握ったのは、一緒に死ぬためではなかった。
離したくなかったからだった。
映画の中の少女たちにも、その前の時間があったはずだった。水を探したことも、まだ助かるかもしれないと思ったことも。渡されたものを見て怖くなり、持ちたくないのに返せなかったことも。
死ぬことを選んだ。
その言葉だけで、そこまで追い込まれた時間が分かったことになるのだろうか。
私は、画面の三人へ聞きたかった。
本当は、どうしたかったの。
けれど、映画は終わっていた。
*
灯りがつくと、教室に椅子を動かす音が戻った。
美羽が目元を拭き、感想用紙を手前へ寄せた。前の席の子は、まだ俯いていた。先生はすぐには話し始めず、私たちが落ち着くのを待っていた。
事故に遭う前の私なら、同じように泣いたかもしれなかった。
少女たちの卒業式を見て、自分たちと同じ年なのだと思っただろう。家へ帰れないまま死んだことを悲しみ、戦争は二度と起こしてはいけないと書いたかもしれない。
今も、その思いがなくなったわけではなかった。
ただ、音楽が流れるたびに、私の覚えている声が遠くへ押しやられる気がした。
映画には、私の知らないことも映っていた。飛行機に乗って戦った人のことも、海の上で起きたことも、私には分からなかった。見ていない場所の苦しさまで、自分が知っているつもりにはなれなかった。
それでも、あの三人の終わり方を、私は静かに受け止められなかった。
実際にあの場所から帰ってきた人が見たら、何を思うのだろう。
亡くなった人の家族なら、どうだろう。
何も言わずに見終える人もいるかもしれない。話したくても、言葉が出ない人もいるかもしれない。あのころ、言ってはいけないと教え込まれたことが、今も喉を塞ぐことはないのだろうか。
私には、分からなかった。
分からないのに、自分だけは、鉛筆を持つ手が震えていた。
感想欄へ顔を近づけ、書いた。
ふざけるな。
その下には、何も続かなかった。
*
放課後、先生に呼ばれた。
職員室の端にある机へ、私の感想用紙が置かれていた。先生は椅子をこちらへ向け、座るように言った。
「これは、どういう意味かな」
私は用紙を見た。
「感想です」
自分でも、ひどく投げやりな答えだと思った。
先生はすぐに叱らなかった。用紙の上の五文字を見つめ、それから私の顔へ視線を戻した。
「そうだね。感想なんだと思う。ただ、先生には、この五文字だけでは、寺田さんが何に怒っているのか分からないんだ」
責める声ではなかった。
だからこそ、私は余計に苦しくなった。
「何に対して、そう思ったの」
尋ねられ、口を開いた。
卒業式のことではなかった。少女たちが泣いたことでも、死んだことでもなかった。
けれど、その先を話そうとすると、千代の顔が浮かんだ。
先生へ説明するために、あのときの千代を言葉にしなければならなかった。胸へ当てられた布も、逃げられない私たちを見ていた文子の顔も。
それを話せば、先生は信じてくれるだろうか。
夢の話だと思われるかもしれない。事故のあとで混乱しているのだと、別の先生へ相談されるかもしれない。何より、千代たちのことを、私の言葉で説明してしまうのが怖かった。
あの場にいた人たちの声を、私が勝手に並べ替えてしまう気がした。
私は口を閉じた。
先生は急かさなかった。机の上のペンを一度持ち上げ、また置いた。
「言いたくないことまで、無理に話さなくていい」
その言葉に、私は顔を上げた。
先生は用紙へ目を落としたまま続けた。
「ただ、書いた言葉は、読む人によって意味が変わる。戦争を体験した人や、亡くなった方の家族が、この言葉を見たら、自分たちのことを否定されたと思うかもしれない。先生は、寺田さんがそういう人たちを馬鹿にしたいわけではないと思っている。でも、このままだと、そう受け取られる可能性がある」
私は膝の上で手を握った。
「そういう人に、言ったんじゃありません」
「うん。そうなんだろうね」
先生はすぐに否定しなかった。
「だから、何に向けた言葉なのか、少しだけでも書けるといいと思う。映画そのものを否定したいのか、描き方に納得できなかったのか、それとも、別の何かなのか」
私は答えられなかった。
描き方、と言われても、それだけでは足りなかった。
音楽が大きくなったこと。少女たちが手を重ねる前に、どれだけ逃げようとしたのかが映らなかったこと。死ぬことを選んだという一言で、そこへ追い込まれた時間が終わってしまったこと。
そして、私が知っている人たちは、最後まで生きようとしていたこと。
それを一つずつ話すには、千代の名前を出さなければならない。
私は、名前を出せなかった。
「見てきたのだと言えば、伝わるのでしょうか」
気づくと、声に出していた。
先生が私を見る。
「あの場にいたのだと言えば」
喉が震えた。
「でも、言えません」
先生はしばらく黙っていた。
「言えない理由があるんだね」
私は頷いた。
先生は、私の返事をそれ以上追わなかった。
「分かった。今すぐ全部を書かなくていい。ただ、書き直すなら、寺田さんが怒った理由を、話せる範囲で書いてみてほしい。誰かを傷つけるために書いた言葉ではないことが、少しでも伝わるように」
私は用紙へ目を落とした。
「書けるか、分かりません」
「それでもいいよ。書けなかったら、書けなかった理由を話してくれてもいい。先生は、最初から寺田さんを責めるために呼んだわけではないから」
その言葉を聞いても、胸の奥の固さはすぐにはほどけなかった。
けれど、先生が私の五文字だけを見て、怒っているわけではないことは分かった。私が何かを壊したと思っているのではなく、その言葉の奥にあるものを知ろうとしている。
それが分かるほど、私は何も言えない自分が苦しかった。
感想用紙を返された。
私は受け取り、頷いた。先生はまだ何か言いたそうだったが、次の生徒に呼ばれ、そちらへ顔を向けた。
*
廊下に、美羽がいた。
「待ってたの?」
「うん。先に帰ろうかと思ったけど」
私の手にある用紙へ目を向け、それから顔を見た。
「何か言われた?」
「書き直し」
「そっか」
美羽は理由をすぐには聞かなかった。並んで階段へ向かい、私が手すりへ手を置くと、歩く速さを少し落としてくれた。
踊り場で、美羽が言った。
「映画、嫌だった?」
私は足を止めた。
廊下の窓から、校庭が見えた。部活動へ向かう生徒が走り、一人が落とした袋を友達が拾っていた。
「うまく、言えない」
「うん」
「悲しくなかったわけじゃないんだけど」
そこまで言って、用紙の端を握り直した。
美羽は私の手元を見ていたが、覗き込まなかった。
「言えるようになったら、聞くよ」
私は頷いた。
階段を下りながら、千代なら、何と言っただろうと思った。
分かるよと、言ってくれただろうか。それとも、私が言葉を探している間、隣で待っていてくれただろうか。
手の中で、紙が少し曲がった。
私は折れた端を指で伸ばした。あの一言では、千代が生きようとしていたことも、文子が私たちを助けようとしたことも、何一つ伝わらなかった。
書き直すための余白は、まだ残っていた。
けれど、最初の一行に何を書けばいいのか、家へ帰るまで考えても、決められなかった。




