第105話 花を持つ手
ハンカチの端へ針を通し、裏側に残った糸を切った。
白い布の隅に、小さな花が三つ並んでいた。薄い紫の花びらと、緑の葉。最後の一枚だけ形が揃わず、何度か抜いて縫い直したため、近くで見ると布に細かな針の跡が残っていた。
指で伸ばしてから、膝の上へ広げた。
お母さんに渡そうと思って買ったものだった。
何を贈ればいいのか、最初は分からなかった。お店にはきれいなものが幾つもあり、そのまま渡しても喜んでくれる気はした。けれど、手に取っているうちに、自分で何かしたくなった。
夜、部屋で少しずつ縫った。糸を引きすぎて布が縮むと、ほどいてやり直した。そんなとき、机の向こうから手が伸びてくるような気がした。
もう少し緩めて。
友達に言われた声を思い出し、指の力を抜いた。
顔を上げても、向かいに誰も座っていなかった。
*
墓参りへ出かける朝、お母さんは玄関で袋の中を確かめていた。
「お花は向こうで買うから……お線香、持った。理恵、お水は?」
「鞄に入ってる」
「帽子も忘れないでね。今日は暑くなるから」
お母さんが袋の口を閉じたところで、私は呼び止めた。
「これ」
畳んだハンカチを差し出すと、お母さんは自分のものを私が持ってきたと思ったらしく、ありがとうと言って受け取った。それから、見覚えがないことに気づき、布を広げた。
「どうしたの、これ」
「お母さんに」
花のある隅を指で持ち上げ、お母さんが私を見た。
「理恵が縫ったの?」
「うん。少し、曲がってるけど」
「全然。かわいい」
お母さんは玄関の明るいところへ布を寄せた。裏も見て、もう一度、表へ返した。
「こんなの、どこで覚えたの? 学校?」
私は花を見た。
学校の机に布を広げ、針を貸してと言われたことがあった。傷んだところを縫い合わせながら、上手な子の手元を覗いた。糸が絡むと笑われ、取ってもらった。
「友達に、教えてもらった」
「そうだったんだ」
お母さんは頷いた。
誰なのかと聞かれなかったことにほっとしながら、聞いてほしいような気もした。
「何かのお祝い?」
「違う。あげたかっただけ」
そう言うと、お母さんは少し黙った。それからハンカチを丁寧に畳み、自分の鞄へ入れた。
「ありがとう。今日、持っていくね」
「使っていいから」
「うん。でも、最初に汚すの、もったいないな」
笑ったお母さんの顔を見て、私はようやく靴へ足を入れた。
*
駅を出ると、蝉の声が聞こえた。
大きな通りから一本入った道には、小さな花屋と、シャッターの半分下りた店が並んでいた。お母さんは花屋の前で立ち止まり、水の入った桶へ挿された花を選んだ。
私はその横で、道路を見ていた。
車が通るたび、身体に力が入った。歩道があり、車との間に距離があることは分かっていた。それでも、重い音が近づいてくると、どこへ寄ればいいのかを先に探してしまった。
「こっち、持てる?」
お母さんに呼ばれ、私は花束を受け取った。
紙の下に湿った茎があり、少し冷たかった。白と黄色の花の間に、紫の小さな花が入っていた。
お母さんが日傘を開いたので、私はその影へ寄った。
「重くない?」
「大丈夫」
「疲れたら言ってね。前に来たときより、駅から歩くことになるから」
前に来たとき。
私は道の先を見た。
小さいころ、家族で墓参りをした記憶はあった。けれど、車の後部座席で眠っていたことや、帰りに冷たいものを買ってもらったことばかりで、誰のお墓へ行ったのか、道がどんな形だったのかは曖昧だった。
お母さんについて歩くと、道は緩い坂になった。
曲がり角に赤い郵便ポストがあり、その先に低い石垣が続いていた。塀の内側から木の枝が伸び、葉の影が舗装された道へ落ちていた。
「この先。門を入ったら、少し日陰があるよ」
お母さんが指した方へ、私は花を抱え直した。
*
門の内側には、大きな木が一本あった。
根元の近くにベンチがあり、年配の夫婦が並んで座っていた。水場で桶を洗う音が聞こえ、通路の向こうでは、小さな子供が祖父らしい人と手をつないで歩いていた。
お母さんは桶と柄杓を借り、水を入れた。
「私、持つ」
「花があるでしょう」
「花、鞄の上に置けば持てるから」
お母さんは桶を持ち上げかけ、私の顔を見た。
「じゃあ、帰りの空になった方をお願いしていい?」
私は少し迷ってから頷いた。
お母さんに何かしてあげたいと思っても、まだ、全部はできなかった。長く歩くと脚が重くなる。水の入った桶を持てば、途中で下ろしたくなるかもしれない。
それを、お母さんは先に分かっていた。
私たちは水場を離れ、墓石の並ぶ通路へ入った。途中に背の低い石の灯籠があり、そこを右へ曲がると、奥の塀に近いところでお母さんが止まった。
「ここ」
花立てには、前に供えられた花の乾いた茎が残っていた。
私は花束を置き、鞄から布を出した。お母さんと一緒に古い花を片づけ、石の上に落ちていた葉を拾った。表面は日差しで温かく、水を含ませた布で拭くと、石の色が濃くなった。
「ひいおばあちゃんも、ここ?」
「うん」
お母さんは花立てを洗いながら答えた。
「この間、沖縄の人だって言ってたよね」
「そう。戦争のあとに東京へ来たの」
私は布を動かす手を止めた。
「沖縄の、どこにいたの?」
「そこまでは、お母さんも詳しく知らないな。おばあちゃんに聞けば、もう少し分かるかもしれないけど」
水を替えた花立てを、お母さんが元へ戻した。
「戦争の話は、あまりしなかったの?」
「うん。お母さんが小さいころは、聞いても、昔のことだからって。それで終わることが多かった」
私は石の縁についた土を拭いた。
昔のこと。
そう言えば、聞いた人はそれ以上尋ねなくなるのだろうか。
「聞きたくなかったの?」
お母さんは少し考えた。
「聞いていいのか、分からなかったんだと思う。ひいおばあちゃんが黙ると、それまで普通に話してたのに、急に遠くを見てるみたいになったから」
布から水が落ち、足元の石へ小さな丸ができた。
私はその丸を見ていた。
今のお母さんにも、私がそんなふうに見えることがあるのだろうか。
*
「おい、そっちじゃない!」
後ろで、男の人の声がした。
手から布が落ちた。
振り向くより先に肩が上がり、私は墓石のそばへ身を寄せた。花を置いたままの地面へ目を落とし、声の続きを待った。
誰に言ったのか、考えられなかった。
大きな声のあとには、従わなければならなかった。身体が動くまで待ってくれるとは限らず、言い返せば、何が起きるか分からなかった。
「理恵?」
お母さんの声に、私は顔を上げた。
通路の向こうで、男の人が子供へ手を振っていた。
「そっちはよそのお墓。こっちだよ」
さっきより声が小さくなった。子供が走って戻り、その人は帽子を被せ直していた。
軍服ではなかった。
銃も持っていなかった。
分かっているのに、喉が固まり、息がうまく入らなかった。私は足元の布を拾おうと屈んだが、指が石へ触れるだけで、掴めなかった。
お母さんが先に拾った。
「少し、座ろうか」
「大丈夫」
返事はできたが、声が小さかった。
お母さんは布を桶の縁へ掛け、私のそばへ来た。手を取られたとき、一瞬、引きかけた。それがお母さんの手だと分かってから、指を握り返した。
「びっくりしたね」
私は頷いた。
何に驚いたのか、お母さんは詳しく聞かなかった。そのまま私の横に立ち、通路を歩く人がいなくなるまで、手を離さずにいてくれた。
*
落ち着いてから、お母さんが花の包みを開いた。
私はその横で、短い茎と長い茎を分けた。花立てへ入れたときに顔が揃うよう、お母さんが順番を変え、私は渡された花を持っていた。
「あっ」
小さな声に顔を向けると、お母さんが手を止めていた。
指の腹に、赤い線ができていた。茎に残っていた硬いところへ擦れたらしく、そこから血が丸く盛り上がった。
私は持っていた花を置いた。
「見せて」
「ちょっと切っただけ」
「手、こっち」
お母さんの指を取った。
赤いものが皮膚の上を動くのを見て、胸が詰まった。すぐに押さえなければと思い、鞄を開いた。ティッシュを取り出しかけ、そばにある水場を見た。
「洗おう」
お母さんは私についてきた。
蛇口から水を出し、傷のある指をその下へ寄せた。流れた血は薄くなり、排水口へ消えた。私は鞄に入れていた予備のガーゼを出し、濡れたところをそっと押さえた。
血は、すぐに広がらなくなった。
それでも、私は指を離せなかった。
押さえた布が赤くなっていくのを見たことがあった。上から重ねても、その下からまた出てきた。もっと強くと言われて力を入れると、痛いと声がした。
「理恵」
お母さんが、空いている手で私の腕へ触れた。
「もう、止まってるよ」
私はガーゼを見た。
赤いところは、小さかった。
お母さんの顔を確かめた。立っていた。こちらを見て、痛そうに息を止めてもいなかった。
「……痛くない?」
「少しだけ。大丈夫」
私はようやく指の力を緩めた。
絆創膏の袋を開けようとして、手が震えていることに気づいた。端をうまく掴めず、二度、指が滑った。
「開けようか」
「私が、する」
お母さんは手を出さずに待ってくれた。
袋を開け、傷へ当ててから、私は貼ったところを指で確かめた。もう血は見えなかった。
「手当て、上手になったね」
私は返事をしなかった。
お母さんは絆創膏を見て、それから私へ笑った。
「ありがとう。助かった」
その言葉を聞いた途端、目の奥が熱くなった。
間に合った。
今は、傷を押さえれば止まった。必要なものを出せば、手の届くところにあった。お母さんは私の前に立っていて、ありがとうと言ってくれた。
私は鞄の口を閉じ、下を向いたまま頷いた。
*
墓へ戻ると、お母さんが線香を供えた。
私は残りの花を花立てへ入れた。さっきお母さんが整えていた形を思い出し、前へ倒れた一本を少し奥へ寄せた。
二人で手を合わせた。
お母さんが隣にいた。
目を閉じても、その気配が分かった。服の擦れる音がし、線香の匂いに混じって、花の青い匂いが届いた。
ひいおばあちゃんのことを、私はほとんど知らなかった。
沖縄から来た人だったことも、戦争についてあまり話さなかったことも、最近になって聞いたばかりだった。
何を見て、何を話さずにいたのだろう。
私は合わせた手へ、少し力を入れた。
お母さんと来ました。
頭の中で、そう伝えた。
そのあとに続ける言葉を探しながら、私は隣のお母さんのことを考えた。病院で手を握ってくれたこと。目を覚ましてから、何度も、ここにいると言ってくれたこと。
もう会えないと思った人と、一緒に墓参りをしていた。
目を開けると、お母さんも手を下ろしたところだった。
「帰ろうか」
私は頷いた。
*
帰りには、空になった桶を私が持った。
お母さんは片づけたものを袋へ入れ、日傘を開いた。石の灯籠を曲がり、水場へ桶を戻してから、門の近くのベンチで少し休んだ。
「疲れた?」
「少し」
以前なら、大丈夫と言ったかもしれなかった。けれど、お母さんが心配そうにこちらを見ていたので、私は正直に答えた。
水を飲み、膝へ鞄を載せた。
お母さんが、朝渡したハンカチを取り出した。花のあるところを一度見てから、額の汗を押さえた。
「使っちゃった」
「使ってって言ったよ」
「そうだったね」
お母さんが笑い、布を畳み直した。
私はその手を見ていた。指には、さっき貼った絆創膏が巻かれていた。
「また、作る」
「ほんと? じゃあ、楽しみにしてる」
次があるように言ってもらえたことが嬉しかった。
帰ったら布を探せる。糸の色を選び、お母さんにどんな花がいいか聞ける。今日中にできなくても、明日、また縫えばよかった。
私は水の蓋を閉め、鞄へ戻した。
立ち上がったお母さんが、日傘を少しこちらへ傾けた。門を出ると、坂の向こうに赤いポストが見えた。
その道を、二人でゆっくり下りた。
お母さんの空いている手へ、私は自分の手を伸ばした。少し驚いたようにこちらを向いてから、お母さんは指を握ってくれた。
「どうしたの?」
「こうしてたいだけ」
「そっか」
お母さんは前へ向き直った。
絆創膏のある指を避けながら、私はその手を握った。次の角を曲がるときも、駅まで歩く間も、お母さんは離さなかった。




