第106話 同じ島へ
空港の窓の向こうで、飛行機が動いていた。
白い機体がゆっくり向きを変え、翼の下にある大きな筒がこちらへ向いた。ガラスを隔てていても、低い音が足元まで届く気がした。
私は膝へ載せた鞄の持ち手を握り直した。
集合場所へ来るまでに、何度も飛行機の音を聞いた。そのたびに顔を上げ、天井や窓を確かめた。ここにいる人たちは誰も伏せず、荷物を引いて歩いていた。出発を知らせる放送が流れると、時計を見たり、同行者へ声をかけたりしていた。
私も、その中にいた。
「理恵、おはよう」
美羽が小さな鞄を肩へ掛け、こちらへ歩いてきた。
「早かったね」
「お母さんが、早めに出ようって」
「うちも。遅れたらどうするのって、昨日から何回も言われた」
美羽は隣へ座り、窓の外へ目を向けた。
「私、飛行機、久しぶり。理恵は?」
「……覚えてない」
「小さいころ乗った?」
「たぶん」
答えながら、機体の行き先を追った。翼が窓枠の向こうへ隠れても、音はしばらく残っていた。
美羽が私の手を見た。
「音、大丈夫?」
私は持ち手から指を離そうとした。思っていたより強く握っていて、手のひらに紐の跡がついていた。
「少し、びっくりするだけ」
「そっか」
美羽は鞄を足元へ置き、私の方へ身体を向けた。
「席、隣だったよね。つらくなったら言って。先生も近くにいるから」
「うん」
「手、握っててもいいよ」
私は美羽を見た。
美羽は少し照れたように笑った。
「私も、離陸のときは怖いし」
私も笑おうとして、口元を少し動かした。
お母さんは出かける前、何度も鞄を確かめていた。薬と、水と、連絡先を書いた紙。具合が悪くなったら、頑張りすぎずに先生へ言うようにと繰り返した。
玄関で別れるとき、私はお母さんの手を握った。
帰ったら、話をするから。
そう言うと、お母さんは、待ってるねと答えた。
その声を思い出しながら、私は窓の向こうへ目を戻した。
*
座席へ腰を下ろすと、美羽が先にベルトを留めた。
私は金具を手に持ったまま、通路を見ていた。荷物を棚へ入れる人が立ち、客室乗務員さんが笑顔で声をかけていた。前の席から、誰かが窓の外を見てはしゃぐ声がした。
「ここに入れるんだよ」
美羽が自分のベルトを指した。
「あ、うん」
私は留め、膝の上に手を置いた。
扉が閉じられてから、周りの音が近くなったように感じた。逃げる場所を探していることに気づき、座席の前にある案内の紙へ目を落とした。
ここは飛行機だった。
沖縄へ行くために、自分で乗った。
何度か頭の中で言い直しているうちに、機体が動き始めた。
滑走路へ向かう間は、窓の外の建物を見ていられた。けれど、いったん止まってから音が大きくなると、私は背もたれへ身体を押しつけた。
地面が流れ始めた。
あのときは、音が近づくと畑の端へ入った。頭を下げ、土へ顔を寄せ、通り過ぎるのを待った。
今は、自分がその音の中にいた。
「理恵」
美羽の声がした。
顔を向けると、手が差し出されていた。私はその手を取った。握った途端、指先が冷えていたことに気づいた。
「もう少しで、上がるよ」
美羽も窓を見ていた。いつもより声が高かった。
身体が座席へ沈み、そのあと、足元から地面が離れるような感覚があった。
私は目を閉じかけ、やめた。
窓の外に、街が見えた。建物が小さくなり、道路を走る車が点のようになった。機体が少し傾くと、美羽も私の手を握り直した。
二人で黙ったまま、しばらく手をつないでいた。
*
海が見えたとき、美羽が私の腕へ触れた。
「理恵、見て」
窓の下に、青いものが広がっていた。
雲の影が海面へ落ち、明るいところと暗いところが、ゆっくり移っていた。やがて陸が現れ、白い建物や、緑の土地が近づいてきた。
私は窓へ顔を寄せた。
沖縄だった。
そこへ帰るのだと思った途端、胸が苦しくなった。
家があるわけではなかった。私の荷物が置かれた部屋も、毎朝通った道も、そのまま残っているとは思えなかった。それでも、眼下に見える土地のどこかで、私は何年も暮らしていた。
食堂の戸を開けた。
学校へ急いだ。
水を持ち、友達と歩いた。
その全部が、遠い海の向こうではなく、今、近づいている地面の上で起きたことだった。
隣から美羽の声がした。
「きれいだね」
私は頷いた。
きれいだった。
こんなふうに上から見ると、私たちが隠れたところも、逃げたところも、分からなかった。
*
空港を出たとき、風が顔へ当たった。
東京で吸っていた空気と違う気がして、私はその場で一度、深く息をした。美羽が少し先で振り返り、私が歩き始めるのを待ってくれた。
バスへ乗ると、先生が人数を数えた。
冷房の風が頭の上から出ていた。私は窓際へ座り、鞄を膝へ載せた。美羽が隣へ来て、しおりを開いた。
「最初、ひめゆりの塔だって」
「うん」
「そのあと資料館。お昼の時間、少し遅いね」
美羽は予定を指で追っていた。
私は窓の外を見た。
道が広かった。
車が並び、大きな店の看板が続いていた。交差点では信号が変わるまで人が待ち、歩き始めると、向こう側へ渡っていった。
知っている那覇を探そうとした。
けれど、建物がありすぎて、その下にあった道を思い出せなかった。どちらへ曲がれば食堂へ行けたのか、学校はどの方角だったのか。バスが進むほど、頭の中の地図がずれていった。
「何か見えた?」
美羽に聞かれ、私は首を振った。
「街が……」
「うん?」
「思ってたのと、違って」
「もっと海の近くだと思った?」
私は答えかけ、やめた。
そういうことではなかった。
でも、どう説明すればいいのか分からず、私は曖昧に頷いた。
バスは、壊れていない街を通っていた。
窓の向こうに人がいて、買い物袋を持って歩いていた。店の前で誰かが笑い、車が横を通り過ぎた。
十・十空襲のあと、同じように道を見ながら歩いたことがあった。目印にしていた家がなくなり、どこまで来たのか分からなくなった。
今も道が分からなかった。
けれど、目の前には新しい建物が立ち、人の暮らしが続いていた。
*
街並みが途切れかけたところで、低い石垣が見えた。
私は思わず、窓へ手を寄せた。
不揃いな石が重なり、その上に草が伸びていた。新しい塀の横へ、短い部分だけ残っていた。
見覚えがあると思った。
次の瞬間には、本当に知っている石垣なのか、似ているだけなのか分からなくなった。
昔、ああいう石のそばを歩いた。
指を置くと表面がざらつき、雨のあとには隙間が黒く濡れていた。千代が道の端へ寄り、向こうから来た人を先に通したことがあった。文子は石垣の上に咲いていた小さな花を見つけ、私たちを呼び止めた。
バスは止まらなかった。
石垣は後ろへ流れ、窓から見えなくなった。
「今の、気になった?」
美羽が尋ねた。
「石垣」
「古そうだったね」
「うん」
私は手を膝へ戻した。
写真を撮ればよかったと思ったが、もう遅かった。残っているものを一つ見つけるたびに、そこへ降りて、確かめたくなった。
けれど、バスには決められた行き先があった。
私たちは、南へ向かっていた。
*
ひめゆりの塔へ着くと、先生が、バスを降りる前に声を落とした。
ここでは静かに行動すること。見学の人や、手を合わせに来ている人の邪魔をしないこと。
生徒たちは頷き、順番に通路へ立った。
私は鞄を肩へ掛けた。
外へ出ると、日差しが明るかった。木の葉の間を風が通り、足元に落ちた影が動いていた。先を歩く同級生の白いシャツが、光を受けて眩しかった。
もっと暗い場所を想像していた。
けれど、そこには整えられた道があり、花があり、見学に来た人たちがいた。
その中を歩いていくと、壕の口が見えた。
私は足を止めた。
近づかなくても、内側が暗いことが分かった。地面に開いたその場所を見ているうちに、足元の平らな道よりも、湿った石の感触が先に浮かんだ。
ここにいたわけではなかった。
私たちがいた病院も、最後に出た壕も、ここではなかった。
それは分かっていた。
それでも、暗いところへ身体を入れ、外の音を聞いていた時間を、思い出さずにはいられなかった。
「理恵」
美羽がそばで呼んだ。
「先生、あっち」
私は先生のいる方へ顔を向け、歩き始めた。
*
塔の前には、花が供えられていた。
私は石に刻まれた文字を見た。授業で知り、事故の前にも調べた名前が、目の前にあった。
ひめゆり。
あのころは、その名前から沖縄戦の学徒を知った。私と同じくらいの年の子が、病院へ動員され、多くが亡くなったのだと読んだ。
今は、文字を見ても、人数だけを考えられなかった。
朝、隣で髪を結んでいた子。
針を借りに来た子。
先生に見つからないよう、授業中に笑いを堪えていた子。
ここの人たちにも、それぞれ、そういう時間があったのだと思った。
私の知っている春子や京子とは、違う人だった。文子でも、千代でもなかった。
それでも、名前の向こうにあった顔を、知っているような気がしてしまった。
先生が説明をしていた。
私は聞こうとしたが、言葉が途中から耳を通り過ぎた。石碑の文字を追い、花の下にある水を見て、もう一度、壕の方へ目を向けた。
最後に、手を合わせた。
何か言おうとすると、自分の知っている人の名前ばかり浮かんだので、私は言葉にしなかった。
*
顔を上げると、色とりどりの折り鶴が見えた。
細い紐へ通された鶴が、幾つも重なっていた。赤、青、黄色。淡い色の間に、濃い緑や紫が入っていた。
学校でも、修学旅行へ持ってくるために折った。
美羽は最初、翼の開き方が分からず、私の机へ紙を持ってきた。折り目を直すと、できたと言って笑った。完成したものは、係の生徒がまとめ、今日、先生たちが運んできていた。
「あれ、うちの学校の」
美羽が、少し離れたところを指した。
学校名の書かれた札がついていた。
私はその下に並ぶ鶴を見た。自分が折ったものがどれなのか、もう分からなかった。みんなの手で折られ、同じ束へ入っていた。
風が吹くと、端の方がわずかに揺れた。
軽い紙だった。
教室では何でもなかった色が、ここにあると、長く見ていられなかった。
折った人たちは、この一羽に何を願ったのだろう。
私も、折りながら考えた。二度と起きないようにと願いたかったし、亡くなった人を思うために、何かしたかった。
けれど、紙を持つ指が動いている間にも、別の手を思い出していた。
私は鞄の紐を握った。
折り鶴のそばに立ち、戻ってきたかった人たちのことを考えた。家へ帰り、お母さんに会い、何でもない話をしたかった人たち。
その人たちは、ここへ来られなかった。
私は今、友達と並んで立っていた。
「資料館、行くって」
美羽が言った。
先生が少し先で、生徒たちへ声をかけていた。
私は頷いたが、すぐには歩けなかった。もう一度、石碑の方へ向き直り、頭を下げた。
顔を上げるまで、美羽は隣で待っていた。




