↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

107/124

第107話 硝子の向こう



 ひめゆりの資料館を見学したあと、私たちは、ほかの学徒隊や地域の人々の資料も集めた記念資料館へ向かった。


 バスの中で、美羽がしおりへ何かを書いていた。私は窓の外を見ていたが、さっきまでのように、知っている道を探すことができなくなっていた。


 石碑の前に立ったときから、友達の顔が近くにあった。


 目を閉じれば浮かぶというより、窓へ映った自分の顔の横に、誰かが座っている気がした。振り向けば美羽がいた。こちらを見て、どうしたのと聞いてくれた。


 私は首を振り、鞄を抱え直した。


     *


 資料館の入口で、先生が集合時間を伝えた。


「このあとは、それぞれの速さで見てください。午後にお話を聞く時間もあるので、遅れないように。気分が悪くなった人は、無理をせず先生に声をかけること」


 生徒たちが頷き、展示室へ入っていった。


 中は外より涼しかった。靴の底が床へ触れる音がよく聞こえ、誰かが話すと、その声が少し先まで届いた。


 壁に写真が並んでいた。


 焼けた街。建物の前に立つ人たち。制服姿の少女。家族で撮ったらしい写真には、小さな子供を膝へ抱いた女の人がいた。


 写真の下には名前や説明が添えられ、近くの展示ケースには、当時使われていた器や衣服、傷んだ鞄が置かれていた。


 私は説明を読みながら歩き始めた。


 隣で美羽が立ち止まっても、先へ進んだ。次のケースを覗き、壁の文字を読み、写真の列へ戻った。何を探しているのか、自分でも言えなかった。


「理恵、こっちにもあるよ」


 美羽に呼ばれ、そちらへ顔を向けた。


 けれど、その向こうの壁にあった文字を見つけた途端、私は美羽の指しているものを見る前に歩き出していた。


 汐見学徒隊。


 足が止まった。


 もう一度、最初の文字から読んだ。


 汐見。


 その下に、女学院の名前があった。


     *


 集合写真が飾られていた。


 最初に見たのは、校舎だった。


 生徒たちの後ろに窓が並び、その端に柱が写っていた。私はそこを知っていた。雨の日に立ち、傘を畳んだ場所だった。授業が終わると、誰かを待ちながら、柱の陰へ寄った。


 写真へ近づいた。


 前の列に先生がいた。


 その後ろに、友達が並んでいた。


 和子。美咲。春子。


 口の中で名前を呼びながら、一人ずつ顔を追った。名前を思い出すより先に、教室で振り向いた顔が重なった。


 千代がいた。


 文子もいた。


 二人の間を見たところで、息が止まった。


 私が、そこにいた。


     *


「理恵、もうちょっと、こっち」


 千代が私の袖を引いた。


 並ぶ場所を決めるだけで、ずいぶん時間がかかっていた。前の列へ入った子が後ろへ移され、背の高い子が座ると、今度はその隣が見えなくなった。


 私は千代へ寄り、文子の肩へぶつかった。


「ごめん」


「大丈夫。今のうちに、髪」


 文子が自分の耳のそばを指した。


 私は手を上げた。頬へかかっていた髪を耳へ寄せると、千代が横から覗いた。


「そっち、出てる」


「どこ?」


「逆。ほら」


 千代が直そうとして手を伸ばしたところで、前から、動かないようにと言われた。


 二人で慌てて手を下ろした。


 前の列にいた春子が振り返った。


「まだ?」


「春子も、前を向いて」


 和子に言われ、春子は向き直ったが、すぐに肩を揺らした。


「何笑ってるの」


 私が小声で聞くと、春子は顔を前へ向けたまま答えた。


「さっきから、顔が痒い」


 千代が吹き出しかけた。


 文子も唇を結び、私の腕へ触れた。笑うとつられてしまうので、私は前にあるカメラを見た。


「春子、今なら掻けるよ」


 誰かが言った。


 春子が急いで頬へ手をやると、今度は隣の子が笑った。先生が振り返り、こちらを見た。


「ほら、せっかく撮っていただくんだから」


 叱る声だったが、先生の口元も少し緩んでいた。


 みんなが前へ向いた。


 千代の袖が、私の袖へ触れていた。文子がもう少しだけ寄り、三人の肩が並んだ。


 写真を撮る人が、こちらを見てくださいと言った。


 私は顔を上げた。


 そのときには、撮り終わったあとも同じように教室へ戻るつもりだった。春子の顔が痒かった話をし、誰が目を閉じていたかを笑い、できた写真をみんなで覗くつもりだった。


     *


「理恵?」


 美羽の声がした。


 私は硝子の前に立っていた。


 伸ばした指が、写真の前で止まっていた。触れようとしていたことに気づき、いったん手を下ろした。


「どうしたの?」


「……何でもない」


 答えた声が、遠く聞こえた。


 美羽が隣へ来て、写真を見た。


 美羽は説明を読み、それから、並んでいる生徒たちへ目を移した。


「みんな、私たちくらいだね」


 私は返事をしなかった。


 もう一度、手を上げた。硝子に指先を置き、千代の顔の前で止めた。その隣へ動かすと、私がいた。


 写真の私は、口元に少し笑みを残していた。


 春子の言葉を堪えきれなかったのかもしれない。


 美羽が顔を近づけた。


「この子、理恵に似てない?」


 指が動かなくなった。


「ほら、目のところとか。髪型、変えたら……」


 美羽は私と写真を見比べた。


「すごく似てる」


 私は硝子へ触れたまま、自分の顔を見ていた。


 そこへ行ったのだと、何度も自分に言った。戻ってからも、夢だったとは思えなかった。


 それでも、ここに写真があることは、考えていなかった。


 私が立っていた場所も、笑っていた顔も、私の覚えている校舎も、私の頭の中だけにあるものではなかった。


「知ってる人?」


 美羽に尋ねられた。


 私は口を開いたが、答えられなかった。



      *


写真の下に、説明があった。


 撮影された時期と、学校のこと。その続きを読んだところで、私は目を止めた。


 この写真に写る生徒三十六名のうち、二十八名が沖縄戦で死亡した。生存者は八名。亡くなった生徒の多くは、学徒隊への解散命令後、避難する途中で命を落とした。


 私は最初から読み直した。


 三十六人。


 二十八人。


 八人。


 文字は変わらなかった。


 顔を上げ、写真を見た。誰がその八人だったのか、ここには書かれていなかった。


 春子がいた。京子もいた。


 壕で最後に別れた友達が、何人も並んでいた。私たちとは違う方へ歩いていった子も、先生のそばに残った子も、写真の中ではこちらを向いていた。


 逃げる前には、まだ話せた。


 袋の紐を結び直していた。怪我をした友達へ肩を貸し、自分の荷物を誰かに渡していた。離れるとき、あとで会えたらと思った。会える場所など決められなかったのに、そう思わずにはいられなかった。


 その多くが、帰れなかった。


「八人……」


 美羽が小さく言った。


 私は説明の、解散命令後、というところを見ていた。


 もう軍の命令ではなく、自分で動くようにと言われた。家へ帰るように言われた。


 けれど、出た先に道はなかった。


 歩ける場所を探し、隠れられる穴を探した。家の方へ向かおうとしても、火が見え、人が倒れ、銃声がした。


 私はその先を知っていた。


 それでも、友達がどうなったのかは知らなかった。


 写真の顔を順番に見ようとしたが、途中で分からなくなった。誰を見ても、教室で交わした言葉が浮かんだ。八人を探すつもりだったのに、生きていてほしい人を、八人だけ選ぶことなどできなかった。


 千代の前で、目が止まった。


 最後まで、手は温かかった。


 私は硝子から指を離し、その手を胸元へ寄せた。


     *


 写真の下に、当時の生徒たちの所持品が並んでいた。


 布で作られた袋。短い鉛筆。櫛。小さく畳まれた手紙。


 私はケースの端から見ていった。


 布の色は薄くなり、縫い目の近くに擦れたところがあった。紐だけ別の布で継ぎ足した袋を見て、持ち主が結び直していた手を思い出した。


 誰のものだったか、分かる気がした。


 でも、説明の名前を読むまで、決めつけたくなかった。


 手紙には、家族へ宛てた言葉が残っていた。食べ物のことを気遣い、自分は元気だと書かれていた。文字の形を追っているうちに、私は、その紙を前にしていた友達の姿を考えた。


 本当に元気だったのだろうか。


 心配させないために、そう書いたのだろうか。


 私は説明の最後まで読んだ。それから隣の展示へ目を移した。


 鞄があった。


 片側の紐が傷み、表の布に、小さな刺繍が残っていた。


 その形を見た瞬間、私は身体を前へ寄せた。


 名前があった。


 宮里春子。


     *


 刺繍の端で、糸が一か所、膨らんでいた。


 そこを、私は知っていた。


 春子は自分で触りながら、ここだけ変になったと言ったことがあった。ほどけば直せると言われても、もう名前は読めるからいいと笑った。


 鞄を持つとき、春子は紐を一度、手へ巻いた。


 肩へ掛けるより、その方が持ちやすいのだと言った。


 私はその紐を見ていた。


「理恵、これ……」


 美羽の声が途中で止まった。


 私が次の展示へ顔を向けたからだった。


 布が、広げられていた。


 衣服だった。


 色が褪せ、ところどころに穴があり、脇の方には裂けた部分があった。その近くに、暗い染みが残っていた。


 私は説明へ目を落とした。


 血痕。


 その文字を読んでから、もう一度、衣服を見た。


 名前の刺繍があった。


 春子のものだった。


 喉の奥で息が止まり、私は鞄の紐を掴んだ。


 あの日、春子は私の袖を引いた。


 戻ったら針を貸してと言った。


 そのとき、私は、あとで貸すつもりでいた。


     *


 涙が落ち、ケースの下にある文字がぼやけた。


 私は瞬きをした。読めなくなるのが嫌だった。春子の名前を、もう一度、確かめたかった。


 指を伸ばしたが、硝子に当たった。


 冷たかった。


 あの日、触れた春子の服は濡れていた。手を置くと血がつき、指が滑った。春子の顔へ近づき、私だよと呼んだ。


 返事をしてほしかった。


 今も、同じ名前を呼びたかった。


「春子……」


 声に出た。


 美羽が私の方を向いた。


 膝から力が抜け、私はその場へしゃがみ込んだ。鞄が身体の横へ落ち、美羽が慌てて私の腕を支えた。


「理恵、大丈夫? 理恵」


 答えようとしても、息を吸うたびに声が漏れた。


 泣いていることは分かっていた。周りに人がいることも分かった。静かにしなければと思うほど、喉が引きつり、肩が動いた。


 春子が、ここにいた。


 顔のない歴史の中ではなく、あの名前のままで。


 けれど、そこにあるのは、春子が持っていた鞄と、着ていた服だった。


 私は顔を覆った。


 教室で笑った春子へ会いたかった。


     *


 美羽が近くの同級生へ声をかけた。


「先生、呼んできて。お願い」


 足音が遠ざかった。


 美羽は私のそばに残り、背中へ手を置いた。何があったのかと繰り返し聞かず、ただ、私の名前を呼んでくれた。


「少し、座れるところ行こう」


 私は首を振った。


「まだ」


「でも……」


「まだ、見てない」


 顔を上げた。


 ケースは、その先にも続いていた。


 友達のものが、ほかにもあるかもしれなかった。私が見ないまま通り過ぎれば、そのまま置いてきてしまうような気がした。


 先生が来て、私の前へ屈んだ。


「寺田さん。息、できる?」


 私は頷いた。


「気持ち悪い? どこか痛む?」


 首を振った。


 先生は少し待ち、落ち着いてから移動しようと言った。美羽が差し出してくれたハンカチを受け取り、私は目元を押さえた。


 布がすぐに湿った。


「先生」


「うん」


「ほかも、見たいです」


 先生は展示へ目を向け、それから私を見た。


「今、全部見なくてもいいんだよ」


「見たいんです」


 声が震えた。


 先生は、それ以上やめるようには言わなかった。


「分かった。立てそうになるまで、ここで待とう」


     *


 美羽に腕を支えてもらい、私は立ち上がった。


 足元が少し頼りなく、すぐには歩けなかった。ケースへ手をつきそうになり、鞄の紐へ持ち替えた。


 春子の服を、もう一度見た。


 最後まで説明を読んだ。


 それから、隣へ移った。


 手紙があった。


 袋があった。


 それぞれの名前を読み、覚えている顔を探した。見つからない名前もあった。同じ学校の生徒でも、親しく話したことのない子はいた。私が顔を知らない人にも、家族がいて、友達がいた。


 先生と美羽が、少し後ろを歩いていた。


 私は泣きながら見ていた。文字がぼやけるたびにハンカチを当て、見えるようになるまで待った。


 早く歩くことは、もうできなかった。


 集合写真のところへ戻ると、三人の顔を見た。


 千代。


 文子。


 私。


 写真の中では、まだ誰も怪我をしていなかった。


     *


 集合時間が近づき、先生が私へ声をかけた。


「このあと、汐見女学院の生徒だった方のお話を聞く予定なんだ」


 私は顔を向けた。


「この学校の?」


「そう。戦争を体験して、生き残った方が来てくださる」


 胸の中が動いた。


 私は先生の顔を見たまま、しばらく何も言えなかった。


 誰だろう。


 写真の中にいる人だろうか。


 先生は私の返事を待ち、それから静かに続けた。


「つらかったら、休んでいてもいい。先生が一緒にいるから。話を聞くことまで、無理をしなくていいよ」


 私はハンカチを握り直した。


 その人は、知っているかもしれなかった。


 学校のことを。


 私たちが出たあとのことを。


 文子が、どこへ行ったのかを。


「行きます」


 先生が私を見た。


「途中で苦しくなったら、外へ出てもいいからね」


「はい」


 私は頷き、もう一度、集合写真へ顔を向けた。


 文子は、私の隣で笑っていた。


 私はその顔を見てから、硝子へ触れていた手を下ろした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。