第107話 硝子の向こう
ひめゆりの資料館を見学したあと、私たちは、ほかの学徒隊や地域の人々の資料も集めた記念資料館へ向かった。
バスの中で、美羽がしおりへ何かを書いていた。私は窓の外を見ていたが、さっきまでのように、知っている道を探すことができなくなっていた。
石碑の前に立ったときから、友達の顔が近くにあった。
目を閉じれば浮かぶというより、窓へ映った自分の顔の横に、誰かが座っている気がした。振り向けば美羽がいた。こちらを見て、どうしたのと聞いてくれた。
私は首を振り、鞄を抱え直した。
*
資料館の入口で、先生が集合時間を伝えた。
「このあとは、それぞれの速さで見てください。午後にお話を聞く時間もあるので、遅れないように。気分が悪くなった人は、無理をせず先生に声をかけること」
生徒たちが頷き、展示室へ入っていった。
中は外より涼しかった。靴の底が床へ触れる音がよく聞こえ、誰かが話すと、その声が少し先まで届いた。
壁に写真が並んでいた。
焼けた街。建物の前に立つ人たち。制服姿の少女。家族で撮ったらしい写真には、小さな子供を膝へ抱いた女の人がいた。
写真の下には名前や説明が添えられ、近くの展示ケースには、当時使われていた器や衣服、傷んだ鞄が置かれていた。
私は説明を読みながら歩き始めた。
隣で美羽が立ち止まっても、先へ進んだ。次のケースを覗き、壁の文字を読み、写真の列へ戻った。何を探しているのか、自分でも言えなかった。
「理恵、こっちにもあるよ」
美羽に呼ばれ、そちらへ顔を向けた。
けれど、その向こうの壁にあった文字を見つけた途端、私は美羽の指しているものを見る前に歩き出していた。
汐見学徒隊。
足が止まった。
もう一度、最初の文字から読んだ。
汐見。
その下に、女学院の名前があった。
*
集合写真が飾られていた。
最初に見たのは、校舎だった。
生徒たちの後ろに窓が並び、その端に柱が写っていた。私はそこを知っていた。雨の日に立ち、傘を畳んだ場所だった。授業が終わると、誰かを待ちながら、柱の陰へ寄った。
写真へ近づいた。
前の列に先生がいた。
その後ろに、友達が並んでいた。
和子。美咲。春子。
口の中で名前を呼びながら、一人ずつ顔を追った。名前を思い出すより先に、教室で振り向いた顔が重なった。
千代がいた。
文子もいた。
二人の間を見たところで、息が止まった。
私が、そこにいた。
*
「理恵、もうちょっと、こっち」
千代が私の袖を引いた。
並ぶ場所を決めるだけで、ずいぶん時間がかかっていた。前の列へ入った子が後ろへ移され、背の高い子が座ると、今度はその隣が見えなくなった。
私は千代へ寄り、文子の肩へぶつかった。
「ごめん」
「大丈夫。今のうちに、髪」
文子が自分の耳のそばを指した。
私は手を上げた。頬へかかっていた髪を耳へ寄せると、千代が横から覗いた。
「そっち、出てる」
「どこ?」
「逆。ほら」
千代が直そうとして手を伸ばしたところで、前から、動かないようにと言われた。
二人で慌てて手を下ろした。
前の列にいた春子が振り返った。
「まだ?」
「春子も、前を向いて」
和子に言われ、春子は向き直ったが、すぐに肩を揺らした。
「何笑ってるの」
私が小声で聞くと、春子は顔を前へ向けたまま答えた。
「さっきから、顔が痒い」
千代が吹き出しかけた。
文子も唇を結び、私の腕へ触れた。笑うとつられてしまうので、私は前にあるカメラを見た。
「春子、今なら掻けるよ」
誰かが言った。
春子が急いで頬へ手をやると、今度は隣の子が笑った。先生が振り返り、こちらを見た。
「ほら、せっかく撮っていただくんだから」
叱る声だったが、先生の口元も少し緩んでいた。
みんなが前へ向いた。
千代の袖が、私の袖へ触れていた。文子がもう少しだけ寄り、三人の肩が並んだ。
写真を撮る人が、こちらを見てくださいと言った。
私は顔を上げた。
そのときには、撮り終わったあとも同じように教室へ戻るつもりだった。春子の顔が痒かった話をし、誰が目を閉じていたかを笑い、できた写真をみんなで覗くつもりだった。
*
「理恵?」
美羽の声がした。
私は硝子の前に立っていた。
伸ばした指が、写真の前で止まっていた。触れようとしていたことに気づき、いったん手を下ろした。
「どうしたの?」
「……何でもない」
答えた声が、遠く聞こえた。
美羽が隣へ来て、写真を見た。
美羽は説明を読み、それから、並んでいる生徒たちへ目を移した。
「みんな、私たちくらいだね」
私は返事をしなかった。
もう一度、手を上げた。硝子に指先を置き、千代の顔の前で止めた。その隣へ動かすと、私がいた。
写真の私は、口元に少し笑みを残していた。
春子の言葉を堪えきれなかったのかもしれない。
美羽が顔を近づけた。
「この子、理恵に似てない?」
指が動かなくなった。
「ほら、目のところとか。髪型、変えたら……」
美羽は私と写真を見比べた。
「すごく似てる」
私は硝子へ触れたまま、自分の顔を見ていた。
そこへ行ったのだと、何度も自分に言った。戻ってからも、夢だったとは思えなかった。
それでも、ここに写真があることは、考えていなかった。
私が立っていた場所も、笑っていた顔も、私の覚えている校舎も、私の頭の中だけにあるものではなかった。
「知ってる人?」
美羽に尋ねられた。
私は口を開いたが、答えられなかった。
*
写真の下に、説明があった。
撮影された時期と、学校のこと。その続きを読んだところで、私は目を止めた。
この写真に写る生徒三十六名のうち、二十八名が沖縄戦で死亡した。生存者は八名。亡くなった生徒の多くは、学徒隊への解散命令後、避難する途中で命を落とした。
私は最初から読み直した。
三十六人。
二十八人。
八人。
文字は変わらなかった。
顔を上げ、写真を見た。誰がその八人だったのか、ここには書かれていなかった。
春子がいた。京子もいた。
壕で最後に別れた友達が、何人も並んでいた。私たちとは違う方へ歩いていった子も、先生のそばに残った子も、写真の中ではこちらを向いていた。
逃げる前には、まだ話せた。
袋の紐を結び直していた。怪我をした友達へ肩を貸し、自分の荷物を誰かに渡していた。離れるとき、あとで会えたらと思った。会える場所など決められなかったのに、そう思わずにはいられなかった。
その多くが、帰れなかった。
「八人……」
美羽が小さく言った。
私は説明の、解散命令後、というところを見ていた。
もう軍の命令ではなく、自分で動くようにと言われた。家へ帰るように言われた。
けれど、出た先に道はなかった。
歩ける場所を探し、隠れられる穴を探した。家の方へ向かおうとしても、火が見え、人が倒れ、銃声がした。
私はその先を知っていた。
それでも、友達がどうなったのかは知らなかった。
写真の顔を順番に見ようとしたが、途中で分からなくなった。誰を見ても、教室で交わした言葉が浮かんだ。八人を探すつもりだったのに、生きていてほしい人を、八人だけ選ぶことなどできなかった。
千代の前で、目が止まった。
最後まで、手は温かかった。
私は硝子から指を離し、その手を胸元へ寄せた。
*
写真の下に、当時の生徒たちの所持品が並んでいた。
布で作られた袋。短い鉛筆。櫛。小さく畳まれた手紙。
私はケースの端から見ていった。
布の色は薄くなり、縫い目の近くに擦れたところがあった。紐だけ別の布で継ぎ足した袋を見て、持ち主が結び直していた手を思い出した。
誰のものだったか、分かる気がした。
でも、説明の名前を読むまで、決めつけたくなかった。
手紙には、家族へ宛てた言葉が残っていた。食べ物のことを気遣い、自分は元気だと書かれていた。文字の形を追っているうちに、私は、その紙を前にしていた友達の姿を考えた。
本当に元気だったのだろうか。
心配させないために、そう書いたのだろうか。
私は説明の最後まで読んだ。それから隣の展示へ目を移した。
鞄があった。
片側の紐が傷み、表の布に、小さな刺繍が残っていた。
その形を見た瞬間、私は身体を前へ寄せた。
名前があった。
宮里春子。
*
刺繍の端で、糸が一か所、膨らんでいた。
そこを、私は知っていた。
春子は自分で触りながら、ここだけ変になったと言ったことがあった。ほどけば直せると言われても、もう名前は読めるからいいと笑った。
鞄を持つとき、春子は紐を一度、手へ巻いた。
肩へ掛けるより、その方が持ちやすいのだと言った。
私はその紐を見ていた。
「理恵、これ……」
美羽の声が途中で止まった。
私が次の展示へ顔を向けたからだった。
布が、広げられていた。
衣服だった。
色が褪せ、ところどころに穴があり、脇の方には裂けた部分があった。その近くに、暗い染みが残っていた。
私は説明へ目を落とした。
血痕。
その文字を読んでから、もう一度、衣服を見た。
名前の刺繍があった。
春子のものだった。
喉の奥で息が止まり、私は鞄の紐を掴んだ。
あの日、春子は私の袖を引いた。
戻ったら針を貸してと言った。
そのとき、私は、あとで貸すつもりでいた。
*
涙が落ち、ケースの下にある文字がぼやけた。
私は瞬きをした。読めなくなるのが嫌だった。春子の名前を、もう一度、確かめたかった。
指を伸ばしたが、硝子に当たった。
冷たかった。
あの日、触れた春子の服は濡れていた。手を置くと血がつき、指が滑った。春子の顔へ近づき、私だよと呼んだ。
返事をしてほしかった。
今も、同じ名前を呼びたかった。
「春子……」
声に出た。
美羽が私の方を向いた。
膝から力が抜け、私はその場へしゃがみ込んだ。鞄が身体の横へ落ち、美羽が慌てて私の腕を支えた。
「理恵、大丈夫? 理恵」
答えようとしても、息を吸うたびに声が漏れた。
泣いていることは分かっていた。周りに人がいることも分かった。静かにしなければと思うほど、喉が引きつり、肩が動いた。
春子が、ここにいた。
顔のない歴史の中ではなく、あの名前のままで。
けれど、そこにあるのは、春子が持っていた鞄と、着ていた服だった。
私は顔を覆った。
教室で笑った春子へ会いたかった。
*
美羽が近くの同級生へ声をかけた。
「先生、呼んできて。お願い」
足音が遠ざかった。
美羽は私のそばに残り、背中へ手を置いた。何があったのかと繰り返し聞かず、ただ、私の名前を呼んでくれた。
「少し、座れるところ行こう」
私は首を振った。
「まだ」
「でも……」
「まだ、見てない」
顔を上げた。
ケースは、その先にも続いていた。
友達のものが、ほかにもあるかもしれなかった。私が見ないまま通り過ぎれば、そのまま置いてきてしまうような気がした。
先生が来て、私の前へ屈んだ。
「寺田さん。息、できる?」
私は頷いた。
「気持ち悪い? どこか痛む?」
首を振った。
先生は少し待ち、落ち着いてから移動しようと言った。美羽が差し出してくれたハンカチを受け取り、私は目元を押さえた。
布がすぐに湿った。
「先生」
「うん」
「ほかも、見たいです」
先生は展示へ目を向け、それから私を見た。
「今、全部見なくてもいいんだよ」
「見たいんです」
声が震えた。
先生は、それ以上やめるようには言わなかった。
「分かった。立てそうになるまで、ここで待とう」
*
美羽に腕を支えてもらい、私は立ち上がった。
足元が少し頼りなく、すぐには歩けなかった。ケースへ手をつきそうになり、鞄の紐へ持ち替えた。
春子の服を、もう一度見た。
最後まで説明を読んだ。
それから、隣へ移った。
手紙があった。
袋があった。
それぞれの名前を読み、覚えている顔を探した。見つからない名前もあった。同じ学校の生徒でも、親しく話したことのない子はいた。私が顔を知らない人にも、家族がいて、友達がいた。
先生と美羽が、少し後ろを歩いていた。
私は泣きながら見ていた。文字がぼやけるたびにハンカチを当て、見えるようになるまで待った。
早く歩くことは、もうできなかった。
集合写真のところへ戻ると、三人の顔を見た。
千代。
文子。
私。
写真の中では、まだ誰も怪我をしていなかった。
*
集合時間が近づき、先生が私へ声をかけた。
「このあと、汐見女学院の生徒だった方のお話を聞く予定なんだ」
私は顔を向けた。
「この学校の?」
「そう。戦争を体験して、生き残った方が来てくださる」
胸の中が動いた。
私は先生の顔を見たまま、しばらく何も言えなかった。
誰だろう。
写真の中にいる人だろうか。
先生は私の返事を待ち、それから静かに続けた。
「つらかったら、休んでいてもいい。先生が一緒にいるから。話を聞くことまで、無理をしなくていいよ」
私はハンカチを握り直した。
その人は、知っているかもしれなかった。
学校のことを。
私たちが出たあとのことを。
文子が、どこへ行ったのかを。
「行きます」
先生が私を見た。
「途中で苦しくなったら、外へ出てもいいからね」
「はい」
私は頷き、もう一度、集合写真へ顔を向けた。
文子は、私の隣で笑っていた。
私はその顔を見てから、硝子へ触れていた手を下ろした。




