第108話 聞き覚えのある声
ガマへ向かう道で、美羽がハンカチを貸したままでいいと言った。
私は一度、返そうとしていた。けれど、布は涙で湿っていて、そのまま渡すのをためらっていた。
「洗って返す」
「うん。いつでもいいよ」
美羽は私の歩く速さに合わせ、時々、顔を覗いた。
「頭、痛くない?」
「大丈夫」
「気持ち悪くなったら、先生に言おうね。さっきも、急にしゃがんだから……びっくりした」
私は頷いた。
美羽の目には、資料館で泣き出し、立っていられなくなった私が映っていた。何を見て泣いたのか、どうして春子の名前を呼んだのかは、話していなかった。
「ごめん、心配かけて」
「謝らなくていいよ」
美羽はすぐに言った。
「まだ退院して、そんなに経ってないんだから」
その声を聞きながら、私は手の中のハンカチを畳み直した。
*
道の先で、ガイドさんが私たちを待っていた。
先生が人数を確かめ、生徒たちが集まると、ガイドさんはガマの入口を指した。戦争中、避難してきた人々が身を寄せていた場所なのだという。
入口の周りには草が生えていた。
その奥を見ても、外から届く光だけでは、中の形が分からなかった。
足元へ注意するように言われ、私は渡された灯りを持った。前の人との間を少し空けて下りると、頬へ湿った空気が触れた。靴の底が濡れたところを踏み、思わず足を止めた。
「理恵?」
後ろから美羽が呼んだ。
振り向くと、手すりへ手を置き、私の足元を見ていた。
「滑った?」
「ううん。大丈夫」
「ゆっくりでいいよ」
私は灯りを下げ、次に足を置くところを確かめた。
あのころなら、石へ手をつき、先に進む人の服を追っていた。灯りが届かないところでは、自分の足が何を踏んだのかも分からなかった。
今は、前の人の靴が見えた。下りる順番を待ってくれる人がいて、後ろには美羽がいた。
広くなったところで、ガイドさんが立ち止まった。生徒たちがその前へ集まり、先生が通路を空けるよう声をかけた。
私は端に寄った。
石の匂いがした。
血の匂いはしなかった。膿も、糞尿も、洗えない身体の匂いもなかった。それでも、奥の暗いところを見ていると、そこから誰かに呼ばれそうな気がした。
*
ガイドさんが、灯りを下げてみるように言った。
光が足元へ集まり、奥が見えなくなった。
「戦争中は、今のように、一人ずつ灯りを持っていたわけではありません」
声が岩に響いた。
家族と一緒に避難してきた人も、途中ではぐれた人もいたこと。持ち込める食べ物や水には限りがあったこと。必要なものがなくなっても、外へ取りに出られるとは限らなかったこと。
私は灯りの持ち手を握っていた。
水がなくなったとき、容器の底を何度も見た。残っている分を誰へ渡すか考え、飲ませているところを隣の人に見られると、そちらにも顔を向けなければならなかった。
少しだけ。
そう言われても、その少しがなかった。
ガイドさんは、ここへ逃げ込んだ人々にも、それぞれ違う事情があったのだと話した。
子供を抱いた人も、歩けない家族を支えた人もいた。外へ出ると言って、すぐ立てる人ばかりではなかった。
私は聞きながら、灯りを持つ手へ力を入れた。
美羽がそばへ寄った。
「壁の方、行く?」
小さな声だった。
「寄りかかれるところ、あるよ」
「ここでいい」
「うん」
美羽は私の隣に残った。自分のしおりを開いたが、鉛筆を動かす前に、もう一度こちらを見た。
*
説明が終わるころ、入口の方から声が聞こえた。
ガイドさんがそちらへ顔を向け、先生も通路へ寄った。私たちは灯りを上げ、足元を空けた。
女の人が一人、ゆっくり下りてきた。
白い髪を後ろへまとめ、薄い上着を着ていた。片手には杖があり、もう片方の腕を、隣の女の人が支えていた。
「ここ、少し段が高いからね」
「分かってるよ」
返事をした声に、私は顔を上げた。
年を取った声だった。けれど、その言い方を、知っている気がした。
女の人は下りきったところで一度止まり、私たちの方を見た。生徒の顔を順番に確かめるように視線を動かし、私のところで止まった。
杖を持つ手が動かなくなった。
目が少し大きく開き、口元が緩んだ。何か言いかけたように見えたが、声は出なかった。
「お母さん?」
隣の人が顔を覗いた。
女の人はその声へ目を向け、それから、もう一度私を見た。
美羽が私の腕へそっと触れた。
「理恵、顔、真っ白だよ」
私は返事をしようとしたが、目の前の人から視線を離せなかった。
*
先生が前へ出た。
「今日は、汐見女学院の生徒として学徒隊に動員された、比嘉文子さんにお話を伺います」
名前を聞いた瞬間、胸の中で何かがほどけた。
文子。
頬には皺があり、背中は少し曲がっていた。私の知っている文子より、ずっと小さく見えた。それでも、こちらへ顔を向けたときの目を、私は覚えていた。
生きていた。
あの畑を走っていったあとも。
私は唇を噛み、ハンカチを握った。
隣の女の人が椅子を確かめ、文子がゆっくり腰を下ろした。杖を受け取り、水の入った容器をそばへ置いていた。
「娘です。今日は母について来ました」
その人が私たちへ頭を下げた。
娘という言葉を聞き、私は文子を見た。
私の知らない時間が、この人にはあった。学校を出たあとの日々も、戦争が終わってからの暮らしも、その隣に立つ人へつながっていた。
よかったと言いたかった。
けれど、声を出せば、そのまま名前を呼んでしまいそうだった。
「先生、呼ぼうか?」
美羽が耳元で尋ねた。
私は慌てて首を振った。
「聞きたいから」
「分かった。でも、無理しないでね」
美羽は私の腕から手を離し、すぐ隣へ立ち直した。
*
「比嘉文子と申します」
文子は膝の上で両手を重ねた。
「皆さんくらいのころ、汐見女学院へ通っていました。今日は、そのころのことを、少しお話しします」
ゆっくりした話し方だった。
教室で話していたころより、言葉の間に時間があった。それでも、次に何を言うのか考えるとき、少し下を向くところは同じだった。
「学校では、よく友達と叱られました。授業中に笑ってしまったり、話をしているうちに、先生が来たことに気づかなかったり」
何人かの生徒が小さく笑った。
私も笑いかけた。
文子が話していると、千代が横から何か言ったことがあった。私が聞き返すと、今度は文子が吹き出し、三人とも先生に見られた。
あとで、誰が最初だったのか言い合った。
文子は千代を見た。千代は私を指し、私は違うと首を振った。その様子がおかしくて、帰り道でもまた笑った。
「卒業したら何をしたいか、どこの学校へ進みたいか。家の仕事を手伝う子もいました。友達と話していると、先のことは、ずいぶん遠くまであるように思えました」
私は膝の上で指を曲げた。
覚えてるよ、と言いたかった。
*
話が看護の訓練へ移った。
包帯の巻き方を教わったこと。患者を支える練習をしたこと。教室ではできたつもりでも、実際の傷を前にすると手が動かなくなったこと。
「痛いと言われると、弱めてしまうんです。でも、弱めると血が止まらない。もう少し押さえてと言われて、押さえると、また痛いと叫ばれる」
文子の手が、膝の上で少し動いた。
「私たちは、その人を助けたかった。でも、助けるためにしていることが、その人を痛がらせる。それが怖かったです」
私は文子の手元を見た。
あの手で、患者さんの背中を支えていた。私が器を持つ間、文子が身体を起こした。痛いと言われると、どこなら楽か尋ね、返事があるまで支え方を変えていた。
話は、食べ物が減っていったことへ進んだ。
手のひらに載るほどのご飯。友達へ分けようとして、自分も空腹で、すぐには手を動かせなかったこと。
「疲れている友達の代わりに行ってあげたい。でも、自分も立ち上がれない。そんなとき、私は何度も、その子から目を逸らしました」
私は口を開きかけた。
代わってくれた日もあった。
私が膝を押さえていると、文子は何も言わず、そばの荷物を持った。そのことを伝えたかった。
けれど、生徒たちは静かに聞いていた。
私は唇を閉じた。
*
「友達が、炊飯の仕事へ出て、怪我をしました」
文子の声が少し低くなった。
「朝には話していた子でした。帰ってきたら、しておきたいことがあったんです」
春子。
名前が喉まで出かかった。
「運ばれてきたとき、私はそばへ行こうとして先生に止められました。通るところを空けなければ、運べなかったからです」
担架が入口へ入った。
文子がこちらへ来ようとし、島袋先生が腕を取った。寝ていた人が足を引き、器が動かされた。
私は担架を下ろした。
春子へ近づきたかった。運んできた自分が、そのままそばにいていいと思いたかった。
「その子は、助かりませんでした」
文子が言った。
涙が落ちた。
私は下を向かずに拭こうとしたが、うまくできなかった。美羽が私の顔を覗き、鞄からティッシュを取り出した。
「これも使って」
声を落として差し出してくれた。
私は受け取り、小さく頷いた。
美羽は私の背中へ手を置いた。講話を聞きながらも、私が立っていられるか確かめるように、時々、腕へ触れていた。
*
解散命令の話になった。
文子は一度、水を飲んだ。娘さんが容器を受け取り、膝の上へ戻った手が落ち着くまで待っていた。
「家へ帰るように言われました。でも、家の方へ行けるとは限らなかった。どちらへ行っても危なくて、誰かについていけば助かるということも、ありませんでした」
私は暗い通路の先を見た。
あのときの入口には、出ていく人が重なっていた。袋を持ち、渡された手榴弾をしまい、友達の名前を呼んだ。
「友達二人と、一緒に逃げました」
顔を文子へ戻した。
文子もこちらを見ていた。その目が私の顔へ止まり、しばらく動かなかった。
「三人で、隠れられるところを探しました。水がなくて、岩の湿ったところへ布を当てたこともありました」
あのときは、三人で順番に口へ持っていった。湿っているだけでも、ないよりはよかった。次へ渡す前に、もう少し含んでいたいと思った。
「そのあと、外へ出て……」
文子の声が途切れた。
娘さんがそばへ寄ったが、文子は小さく首を振った。
「友達が、撃たれました」
*
息が止まった。
美羽の手が、私の背中で動かなくなった。
文子は私から目を離し、膝の上へ視線を落とした。
「もう一人が、その子のところへ戻ったんです。私も戻りました。血を止めようとして、持っていた布を当てました。でも、身体を動かすと痛がって、運ぼうにも運べなかった」
千代が私のそばへ膝をついた。
何度も名前を呼び、胸へ布を当ててくれた。文子も来た。二人の顔を見て、私は逃げてほしいと思った。
そばにいてほしいとも思った。
「戻った友達も、撃たれました」
文子の指が、重ねた手の上で動いた。
「二人とも、私に逃げるように言いました。私は嫌だと言いました。一緒に行こうと言ったんです。でも、二人を連れて立ち上がることができなかった」
私は首を振りかけた。
文子は、やろうとしてくれた。
身体へ腕を入れ、千代にも声をかけた。できないと分かるまで、離れなかった。
「理恵、外へ出ようか」
美羽が小さく言った。
私は首を振った。
「大丈夫じゃないよ。息、苦しそう」
「……聞かせて」
美羽が私を見た。
「最後まで、聞きたい」
私が言うと、美羽は少し迷ってから頷いた。それでも心配だったのか、近くにいた先生へ目を向けた。
先生がこちらへ寄り、私の顔を確かめた。
私はもう一度頷き、文子へ視線を戻した。
*
「逃げてと、何度も言われました」
文子の声が震えた。
「私は、その言葉を聞いて、走りました」
足音を覚えていた。
文子が離れ、土を踏んだ。
私の手には千代の手があった。文子が走っていく方を見て、よかったと思った。
今、そのことを伝えたかった。
けれど、文子は俯いていた。
「振り返りました。でも、戻りませんでした」
ガマの中が静かになった。
「生きなければと思ったんです。怖かった。私も、あそこで死ぬのが怖かった」
娘さんが文子の肩へ手を置いた。
文子はその手へ一度触れ、それから私たちへ顔を向けた。
「長い間、そのときの話をできませんでした。学校のことや病院のことは話せても、友達を残して走ったことは……」
言葉が続かなかった。
逃げてくれて、よかった。
そう言えばいいのだと思った。私が言えば、文子に伝わるかもしれなかった。
それなのに、喉が動かなかった。
私はここにいて、文子もここにいた。
美羽が私の腕を支えていた。何が起きているのか分からないまま、倒れないように、そばにいてくれていた。
私は涙を拭き、文子の次の言葉を待った。
*
先生が、急がなくて大丈夫ですと伝えた。
文子は頷き、少し時間を置いてから話を続けた。
「皆さんには、友達がいるでしょう。今日、一緒にここへ来た人も。どうか、その人がいることを、当たり前だと思わずにいてください」
美羽の袖が、私の腕へ触れていた。
「私たちも、明日また会えると思っていました。喧嘩をしても、あとで話せると思っていた。借りたものも、返せるつもりだったんです」
私は春子へ貸せなかった針を思い出した。
文子は生徒たちの顔を見渡し、最後に私のところで目を止めた。私はその目を見返した。
何かを言いかけるように、文子の唇が動いた。
けれど、聞こえてきたのは静かな挨拶だった。
「今日は、聞いてくださって、ありがとうございました」
先生が頭を下げ、私たちもそれに続いた。
顔を上げると、文子はまだこちらを見ていた。
「理恵、少し座ろう」
美羽が言った。
「出るの、最後でいいから。先生にも言ってあるよ」
私は頷いた。
美羽は私の鞄が肩から落ちかけているのに気づき、紐を直してくれた。その手を見ながら、私は、まだ何も話せていない友達へ、小さくありがとうと言った。




