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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第109話 文子



 講話が終わると、生徒たちは入口へ向かって列を作った。


 先に進んだ人の灯りが岩へ当たり、その後ろを別の光が追っていった。ガイドさんが足元へ注意するよう声をかけ、先生が途中に立って、一人ずつ通るのを見ていた。


 私はまだ、文子の座っている方を向いていた。


 娘さんが水を渡し、文子は両手で容器を持っていた。少し飲んでから顔を上げると、また私と目が合った。


「理恵、歩けそう?」


 美羽に聞かれ、私は頷いた。


 立ち止まっていても、何も言えないまま時間が過ぎていく。話しかけたいのに、最初の言葉が決まらなかった。


 生きていてくれて、よかった。


 そう言いたかった。


 けれど、今の私がそれを言えば、ただ講話を聞いた生徒の言葉になるのだろうか。文子は頷き、ありがとうと言って、私を見送るのだろうか。


 私は鞄の紐を肩へ掛け直した。


 美羽が隣へ来たので、二人で列の後ろへ向かった。


     *


「もし、そこの学生さん」


 声がした。


 私は前を見たまま、足を止めた。


 誰へ声をかけたのか分からなかった。前にも後ろにも生徒がいて、何人かが振り返っていた。


 文子が椅子から身体を起こそうとしていた。


 娘さんが腕を支えたが、文子は立ち上がる前に先生を呼んだ。


「あの子と、少しだけ話をさせてもらえませんか」


 先生が文子の視線を追った。


「寺田さん」


 自分の名前を呼ばれ、私は振り向いた。


「比嘉さんが、お話をしたいそうなんだけど。大丈夫かな」


 私は頷いた。


 声にするより先に、足が文子の方へ向いていた。


 美羽もついてきた。私の顔を見ながら、先生へ小さく尋ねた。


「私も、一緒にいていいですか」


「寺田さんがよければ」


 私はもう一度頷いた。


 先生は別の引率の先生へ声をかけ、私たちが少し残ることを伝えた。入口へ向かう足音が遠ざかり、ガマの中に人の気配が少なくなっていった。


     *


 文子の前へ立つと、娘さんが椅子を少し横へ寄せた。


「座る?」


 私は首を振った。


 文子は私を見上げていた。講話のときより近くで見ると、目元に細かな皺があり、頬の皮膚は薄かった。


 知っている顔と、知らない年月が、同じところにあった。


「呼び止めて、ごめんなさいね」


 私は首を振った。


「あなたが来たときから、気になっていて」


 文子は膝の上から片手を持ち上げた。私へ伸ばしかけ、途中で戻した。


「ほんとうに、そっくりなの」


 私はその手を見た。


「昔の、友達に」


 美羽がこちらを向いた。


 文子は私の目を見て、それから髪や頬を確かめるように、ゆっくり視線を動かした。


「今日、お話ししたでしょう。最後に、私が置いていった子のこと」


 私は唇を結んだ。


「あの子と、同じ顔をしているの」


     *


 娘さんが文子の隣へしゃがんだ。


「お母さん、その話……」


 文子は頷いた。


「あなたにも、話していなかったね」


 娘さんは何か言おうとして、やめた。


 文子が私へ顔を戻した。


「学校のことも、病院のことも、これまで話してきました。聞きに来てくださった方にも、テレビの取材でも。でも、さっきの話は、できなかった」


 重ねた指が、少しずつ動いていた。


「ここのガイドさんにも、話していません。何度聞かれても、最後は友達とはぐれたとだけ言っていました」


 私は文子の顔を見続けた。


「はぐれたんじゃないの。私が、走ったの」


 声が掠れた。


「あの子たちのいるところを知っていて、置いていった。それを口にするのが、怖かった」


 娘さんが膝の上の手へ触れた。文子はその手を握ったが、目は私へ向けていた。


「あなたを見たら、あのときの顔が浮かんで……今日は、話さなければと思ったんです」


 私は息を吸った。


 文子の言葉を遮りたかった。違う、と言いたかった。


 けれど、ずっと話せずにいた人が、今、話していた。私はその先を待った。


「一生、悔やむことだと思っていました。あそこで戻っていたら。せめて、あの子のそばに残っていたらって」


 文子の目に涙が溜まった。


「こんな年になっても、あの子は、あのときのままなの」


     *


 私は口を開いた。


 先生も、美羽も、こちらを見ていた。


「失礼でなければ……」


 声が小さくなり、私は息を整えた。


「その子の名前を、聞いてもいいですか」


 文子は頷いた。


 迷わなかった。


「寺田理恵」


 先生の顔が動いた。


 私へ向き、それから文子へ視線を戻した。


「寺田理恵っていうの」


 美羽の手が、私の袖へ触れた。


「理恵と、同じ……」


 言いかけた声が止まった。


 私は文子を見ていた。


 名前を呼ばれた。


 こちらへ戻ってから、何度も呼ばれた名前だった。お母さんも、美羽も、先生も呼んでくれた。


 でも、今は、学校へ通っていた私が呼ばれた。


 食堂から出てきて、二人へ追いつこうとした私。教室で隣を向き、笑っていた私。畑で倒れ、文子へ逃げてと言った私だった。


 涙が頬へ落ちた。


     *


「文子」


 声にすると、文子の指が止まった。


 娘さんが顔を上げた。


「……文子?」


 文子は、自分へ向けられた呼び方を確かめるように繰り返した。


 私は頷いた。


「私も、ちゃんと覚えてる」


 涙で顔が見えにくくなり、袖で拭った。それでも、次の言葉を待たせたくなかった。


「文子の名前も、一緒に芋畑を走ったことも。千代と三人で、遊んだことも」


 文子の口が開いた。


「学校へ行く道も、教室も。写真を撮った日も、覚えてる」


 美羽が私の腕へ触れた。


「理恵……?」


 私はその手へ一度、自分の手を重ねた。それから文子へ向き直った。


「忘れてないよ」


 文子の身体が震え始めた。


 杖へ手を伸ばしたが、うまく掴めなかった。娘さんが慌てて立ち、肘を支えた。


「お母さん、待って。足元」


 文子は娘さんの腕を借り、ゆっくり立ち上がった。先生がそばへ寄り、椅子が動かないよう押さえた。


 私は一歩、近づいた。


     *


「理恵?」


 文子の声がした。


 学校で呼ばれた声に、近づいていた。


「理恵なの?」


 私は頷いた。


「ほんとうに?」


 文子が手を伸ばした。


 その手が私の頬へ触れた。指先は少し冷たく、震えていた。顔の形を確かめるように触れてから、肩へ下りた。


 私はその手を握った。


「私だよ」


 声が泣き声になった。


「文子」


 文子の顔が歪んだ。


 私は腕を伸ばし、文子へ抱きついた。倒れないように娘さんが背中を支えてくれたので、身体を預けすぎないよう、肩へ顔を寄せた。


「文子……!」


 背中へ手が回った。


 薄い上着越しに、文子の腕を感じた。学校で肩が触れたときとは違う身体だった。それでも、私を抱き返してくれる人は文子だった。


「理恵」


 何度も呼ばれた。


 私はそのたびに頷いた。返事をしようとしても涙が出て、名前しか言えなかった。


     *


「ごめんね」


 文子が私の背中を掴んだ。


「ごめんね、理恵。私、行ってしまって」


 私は首を振った。


「違う」


「あなたを、置いて……」


「逃げてって、私が言ったんだよ」


 文子の肩へ顔を寄せたまま、私は言った。


「文子が走ってくれて、よかったって思った」


 抱いている腕が強くなった。


「千代と、見てた。文子が行けたって」


 文子の息が震えた。


 私は身体を少し離し、顔を見た。


「生きていてほしかったの」


 文子は口元へ手を当てた。


 長い間、言えなかったことを、この人は持っていた。私は知らなかった。自分が戻ってきたあとも、あの畑で走ったことを、ずっと悔やんでいた。


「会えて、よかった」


 私は文子の手を握り直した。


「生きててくれて、ありがとう」


 文子は声を出して泣いた。


 娘さんが背中を撫でていたが、その人の目にも涙があった。


     *


 美羽が先生のそばへ寄った。


「先生……どういうことですか」


 小さな声だった。


 先生はすぐには答えなかった。私と文子を見て、それから娘さんへ目を向けた。


 娘さんも、私の顔を見ていた。


「母のお友達……なんですか」


 私は文子の手を離さず、頷いた。


「一緒に、学校へ通っていました」


 美羽が私を見た。


 何か言おうとして唇を動かしたが、声にはならなかった。心配していた顔に、戸惑いが重なっていた。


 文子が涙を拭った。


「この子なの」


 娘さんへ向けて言った。


「私が、今お話しした子。理恵」


 先生が息を吸い、ゆっくり吐いた。


 誰も、すぐに次の言葉を出さなかった。


 私は美羽へ顔を向けた。


「話してなくて、ごめん」


 美羽は首を振った。


「……分かんないけど」


 私の顔と、握り合った手を見た。


「理恵、この人に会いたかったんだね」


 私は頷いた。


 美羽は目元を擦り、少し困ったように笑った。


「そっか」


 それから、私の落ちかけた鞄を受け取ってくれた。


     *


 娘さんに促され、文子は椅子へ座り直した。


 私はその前へしゃがんだ。握っていた手が離れかけると、文子が指へ力を入れたので、そのまま両手で包んだ。


「変わらないね」


 文子が私の顔を見た。


「ほんとうに、あのころのまま」


 私は頷こうとして、また泣いた。


「文子は……」


 言いかけると、文子が涙の残る顔で少し笑った。


「すっかり、おばあちゃんでしょう」


 私も笑った。


 泣きながら笑うと、うまく息ができなかった。文子も同じように肩を揺らし、娘さんが水を差し出した。


 私は手を緩めたが、文子は片手を残してくれた。


 もう片方の手で容器を持ち、水を飲んだ。


 その間も、私たちは手をつないでいた。


 今は血で滑らなかった。離すように命じられることも、誰かの足音に急かされることもなかった。


 文子が容器を娘さんへ返し、こちらを向いた。


「理恵」


「うん」


 名前を呼ばれれば、返事ができた。


 私はもう一度その手を握り、文子の顔を見た。

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