第110話 あの手の、その先
文子の手を握ったまま、私はしばらく顔を上げられなかった。
涙が落ち着いてきても、指を離すのが怖かった。皺のある手の甲を見ていると、あのころの文子の手が重なった。水の入った器を受け渡した手も、私の荷物を持とうとしてくれた手も、畑で最後まで私を放そうとしなかった手も、同じ人のものだった。
文子の娘さんが、そばにもう一つ椅子を寄せてくれた。
「こちらに座ってください。ずっと屈んでいると、足が痛くなるでしょう」
私は礼を言い、文子の隣へ座った。椅子を動かす間だけ手を緩めると、文子の指も私を追うように動き、座り直してから、また互いの手を包んだ。
美羽は私の鞄を膝に載せていた。先生が入口の方でガイドさんと話している間も、こちらを見ていたが、私と目が合うと、何かを尋ねる代わりに小さく頷いてくれた。
まだ、説明できていなかった。
私がどうして文子を知っているのかも、どうして学校の友達だったと言えるのかも。美羽には、病院で目を覚ましたあとのことしか話していなかった。
けれど、今は文子に聞きたいことがあった。
口にすれば、知ってしまう。
それが怖くて、握っている手へ目を落とした。文子は私の顔を覗き、親指で指の付け根をゆっくり撫でてくれた。
「理恵。聞きたいことがあるんでしょう」
私は頷いた。
名前を呼ぶために息を吸うと、胸の奥が引きつった。あのときの痛みは、今も、深く息をしようとした拍子に戻ってくることがあった。
「千代は……」
そこまで言うと、文子の指が止まった。
私は続きを言えず、文子の顔を見た。畑で倒れた千代の姿が浮かんでいた。私の傷を押さえていた手が滑り、身体が傾いた。呼ぶと目を開け、私の指へ自分の指を寄せてくれた。
最後に見たのは、その顔だった。
「千代、あのあと……」
「生きていたよ」
文子は、はっきりと言った。
私は文子を見つめた。
聞こえた言葉を、すぐには受け取れなかった。文子の口元を見て、もう一度、その言葉が出てくるのを待っていた。
「千代は、助かったの」
「……生きてた?」
「うん。あのあと、会えたんだよ」
私は握っていた手へ力を込めた。文子の手が少し動き、強く握りすぎたと気づいて指を緩めたが、文子は離さなかった。
「会えたの?」
「収容施設でね。私がガマを出て、降伏したあとのことだった」
千代が、生きていた。
私は俯き、自分の右手を見た。文子の手を握っているのに、その下に、血で滑った千代の指があるような気がした。
「私、千代も……」
言いかけると、声が崩れた。
「私と一緒に、あそこで……」
文子が、私の肩へもう片方の手を置いた。
「そう思っていたんだね」
私は頷いた。
白いベッドで目を覚ましてから、何度も右手を見た。洗っても落ちない血が残っている気がして、何もついていない掌を擦ったこともあった。
私のところへ戻らなければ、千代は逃げられたのではないか。
文子と一緒に走っていけば、撃たれなかったのではないか。
考えないようにしても、千代が私の名前を呼びながら駆け寄ってきたところへ戻ってしまった。私を助けようとしたために、千代まであの場所で死んだのだと思っていた。
「アメリカの兵隊さんが、助けてくれたんだって」
文子が言った。
私は顔を上げた。
「兵隊さんが?」
「千代から聞いたの。傷の手当てをして、運んでくれたって」
近づいてきた靴の音を思い出した。
土の上へ影が落ち、知らない言葉が聞こえた。誰かが屈んだところまでは覚えていた。私のそばだったのか、千代のそばだったのか、そのときには、もう見分けられなかった。
あの先が、あったのだ。
私が何も見えなくなったあとも、千代の時間は続いていた。
*
先生が戻ってきた。
「もう少し、こちらでお話ししていて大丈夫です。ほかの生徒は、もう一人の先生と先に外へ出ていますから」
文子の娘さんが頭を下げた。
「ありがとうございます。母も、少し座って休ませたかったので」
先生は頷き、私たちから少し離れた椅子へ座った。
美羽が私へティッシュを差し出した。受け取ろうとして片手を離すと、文子は今度は追わず、膝の上で待っていてくれた。
「ありがとう」
美羽は、私の濡れた顔を見た。
「少し、水飲む?」
私は頷いた。鞄から出してくれた水を受け取り、蓋を開けた。口をつける前に、千代が水を飲む姿を思い浮かべた。
あのあと、飲めただろうか。
傷を手当てしてもらい、喉が渇いたと言えただろうか。布を岩へ押しつけなくても、水の入った器を渡してもらえただろうか。
少し飲むと、喉へ冷たいものが流れた。私は蓋を閉め、文子へ身体を向け直した。
「会ったときのこと、聞かせて」
文子は頷いた。
娘さんが文子の背中へ手を添え、座りやすいように上着を直した。文子は礼を言ってから、私を見た。
「最初はね、千代だと思わなかったの」
*
収容施設には、知らない人が大勢いたのだと、文子は話した。
名前を呼びながら歩く人がいた。家族を探し、誰かを見つけると走っていく人もいたが、聞いて回っても会えず、同じところへ何度も戻ってくる人もいた。
文子も、知っている顔を探していた。
学校の友達がいるかもしれないと思った。けれど、人の顔を一人ずつ見ていると、似ている人を見つけるたびに足が止まった。違うと分かってからも、少し歩いて、また振り返った。
「何人か、女の人が集まっているところがあってね。その端に、座っている子がいたの」
文子は膝の上へ視線を落とした。
「痩せていて、髪も短くなっていて。横顔を見ても、すぐには分からなかった」
私は、千代の髪を思い出した。
登校する道で、後ろから風が吹くと、千代は片手で髪を押さえた。文子に直してもらいながら、そのまま話し続けていることもあった。
「その子が、こっちを向いたんだよ」
文子の声が少し掠れた。
「私の顔を見て、それから、もう一度見て。口が動いたの」
文子は自分の唇へ指を寄せた。
「声が小さくて、最初は聞こえなかった。でも、文子って呼んだんだと分かった」
私は身を乗り出していた。
「千代が?」
「うん。それで、私も千代って呼んだの」
文子の目が濡れた。
「立とうとしたんだよ、あの子。まだ身体がうまく動かないのに、そばに置いていたものへ手をついて。周りの人に止められて、私が行くから、そのままでいてって言ったの」
その言い方で、千代が見えた。
自分が痛くても、相手のところへ行こうとする。座っていてと言われても、もう立ちかけている。壕の中でも、そうだった。
「近くまで行っても、しばらく何も聞けなかった。千代の顔を触って、肩を触って。あのとき撃たれたところへ触りそうになって、慌てて手を引いた」
文子は私の手へ、自分の手を重ね直した。
「千代も、私の腕を掴んだまま離さなかった。文子も生きてたんだねって、何度も言ったよ」
私は目を閉じた。
千代の声で、その言葉が聞こえた気がした。
文子も、生きてたんだね。
私たちが畑で見送った文子が、千代の前へ戻ってきた。千代は、もう一度、文子の腕を掴めた。
「よかった……」
言うと、また涙が落ちた。
美羽が隣で背中へ触れた。何も尋ねず、その手を置いたままにしてくれた。
*
「千代、痛がってた?」
私は尋ねた。
文子はすぐには答えず、私の顔を見た。それから、小さく頷いた。
「傷は、まだ痛かったと思う。動くと顔をしかめていたし、長く座っているのもつらそうだった」
私は右手を膝へ置いた。
「でも、手当てしてもらってたんだね」
「そう。布も巻いてもらっていた。あの畑で、私たちが押さえていたままじゃなかったよ」
千代の傷へ当てるものを探したとき、手元には、もう使った布しかなかった。自分の血がついた手で触り、どこから流れているのかも確かめられなかった。
それが、最後ではなかった。
誰かが傷を見てくれた。使えるものを用意し、運んでくれた。
私は胸へ掌を当てた。文子の視線がそこへ動いたが、痛いのかとは聞かなかった。
「千代に、私のこと……聞かれた?」
文子の手が、私の手を包んだ。
「うん」
私は顔を上げられなかった。
「聞かれたよ。私も、千代に聞いた」
文子は、その先を急いで話さなかった。私は頷き、今はそれ以上を尋ねなかった。
千代が助かったと分かったばかりだった。
まず、そのことを、ちゃんと覚えていたかった。畑で倒れた姿ばかりを思い出してきたけれど、これからは、そのあとに文子へ手を伸ばした千代の姿も思い浮かべられる。
「私、病院で目を覚ましたの」
気づくと、言っていた。
美羽の手が背中で止まった。
「こっちの、病院。お母さんが来て、事故に遭ってから三か月だって」
先生がこちらを見た。私は文子の顔を見つめたまま続けた。
「隣に千代がいなくて。手も、血がついてなくて。でも、握ってたことは、ずっと覚えてた」
文子は黙って聞いていた。
「千代を呼んだんだけど、誰も返事しなかった」
白い柵と、椅子しかなかった。
私は右手を開いて見せた。文子はその掌へ指を添え、ゆっくり握り直してくれた。
「一人で、目を覚ましたんだね」
私は頷いた。
美羽が、小さく私の名前を呼んだ。振り向くと、口を開きかけていたが、私が涙を拭くのを待ってから言った。
「だから、あのとき……」
続きは出なかった。美羽は俯き、それから、もう一度、私の背中を撫でた。
*
「千代はね、少し元気になってからも、私が帰ろうとすると、もう行くのって言ったんだよ」
文子が話した。
「近くにいるよって言っても、いつ来るのって聞くの。明日と言うと、明日のいつって」
私は涙を拭いたまま、少し笑った。
「千代らしい」
「でしょう。私も、そう思った」
文子の口元にも笑みが浮かんだ。
「それで、私が遅くなると、待ってたって怒るんだよ」
「文子、ちゃんと時間どおりに行った?」
「行ったよ。ほとんどは」
「ほとんど?」
聞き返すと、文子は私を見て、困ったように笑った。
その顔に、教室で私と千代の話を聞いていた文子が重なった。私たちが言い合いを始めると、最初は黙っていて、最後に二人とも同じだよと言った顔だった。
文子の娘さんが、目元を拭きながら笑っていた。
「千代さん、母が訪ねていくと、いつも嬉しそうでした」
私は娘さんを見た。
「知ってるんですか」
「はい。小さいころから。母と二人で話し始めると、私には分からない昔の話もたくさん出てきました」
千代を知っている人が、ここにもいた。
私は娘さんの顔を見つめた。千代が、この人に会ったことがある。文子が母親になったあとも、二人は話していた。
学校を出たあとも、戦争が終わったあとも。
そこまで考えると、胸の奥へ、今までとは違う気持ちが広がった。
千代は、あの畑から先へ行けた。
私が知らない服を着て、知らない道を歩き、私が会ったことのない人と話した。文子の娘さんが小さいころから知っているということは、それだけの年月を生きたのだ。
「会いたい」
言葉が、自然に出た。
私は文子へ向き直った。
「千代にも、会いたい。文子に会えたこと、私、ちゃんと帰れたこと、話したい」
文子の笑みが、ゆっくりと薄くなった。
握っていた手は、そのままだった。娘さんが文子の顔を見て、膝の上へ手を揃えた。
私は二人を見た。
「文子?」
文子は私の手を両手で包み、指の先までそっと撫でた。
「理恵。千代の、そのあとのことも、話そうね」
私は文子の顔を見つめたまま頷いた。
会いたいと言った言葉が、まだ口元に残っていた。文子はそれを否定せず、けれど、会いに行こうとも言わなかった。
私は握られた手へ視線を落とし、文子が次に話してくれるのを待った。




