第111話 会いたかった
文子は私の手を包んだまま、しばらく黙っていた。
私は、その顔から目を離せなかった。千代が生きていたと聞いたばかりで、頭の中には、会えたら話したいことが次々に浮かんでいた。白い病院で目を覚ましたことも、お母さんに会えたことも、今日、集合写真の中に三人を見つけたことも。
千代なら、私の話を最後まで待ってくれるだろうか。それとも途中で、どうして今まで来なかったのと聞くだろうか。
文子が訪ねていくのを待ち、遅くなると怒ったという話を思い出して、私は少しだけ笑いかけた。
けれど、文子は笑わなかった。
「千代はね、もう亡くなったの」
その言葉を聞いても、私はすぐには手を動かせなかった。
文子の指が、私の指の上にあった。隣には美羽が座り、向かいには娘さんがいた。さっきと同じ場所で、同じ人たちに囲まれているのに、会いに行くつもりでいた先だけが、急になくなった。
「……もう?」
文子は頷いた。
「戦争のあと、長く生きたんだよ。私と一緒に、年を取ったの」
私は文子の手の甲を見た。
千代にも、こんなふうに皺ができたのだろうか。髪が白くなり、立ち上がるときには何かへ手をつき、歩く速さも変わったのだろうか。
思い浮かべようとしたが、私の中にいる千代は、まだ制服を着ていた。
「私、会えると思って……」
言い終わる前に、喉が詰まった。
文子の手へ額を寄せかけ、途中で止めた。膝の上に涙が落ち、服へ小さな染みができた。
「さっきまで、死んだと思ってたのに」
「うん」
「生きてたって聞いて、嬉しくて。それで、会えるって……」
文子は私の手を握り直した。
私は俯いたまま、何度も頷いた。助かったことを喜んでいたはずなのに、もう会えないと分かった途端、その喜びまで失ったように泣いてしまう自分が苦しかった。
「よかったって、思ってる」
顔を上げて言った。
「ほんとうに。千代が助かって、文子と会えて、ちゃんと、そのあとも……」
「分かってるよ」
文子が静かに答えた。
「でも、会いたかったんだね」
私は頷いた。
その言葉なら、頷けた。
*
美羽が、私の鞄を隣の椅子へ置いた。
何も言わずに身体を寄せ、肩へ触れてくれた。私は文子の手を握ったまま、美羽の方へ少し傾いた。
先生は席を立たなかった。娘さんも、話を続けるように文子を促したり、泣いている私へ何かを尋ねたりしなかった。
息が落ち着くまで、待っていてくれた。
「いつ……」
私は涙を拭いた。
「いつ、亡くなったの?」
「数年前。私より先に、逝ってしまったの」
数年前。
そのころ、私は何をしていただろう。学校へ通い、友達と遊び、お母さんに呼ばれても、返事をしないことがあった。まだ沖縄戦について、教科書に載っていることくらいしか知らなかったかもしれない。
千代の名前も知らなかった。
私が千代に会うより前に、こちらの世界では、千代はもういなかったのだ。
考えるほど、時間の順番が分からなくなった。私には、あの畑から今日まで、それほど長い時間が経ったとは思えなかった。病院で過ごし、家へ帰り、学校へ戻って、飛行機に乗った。その間も、握った手の感触は消えなかった。
けれど千代は、その手で、私の知らない暮らしを続けていた。
「最後、会えた?」
私が尋ねると、文子は頷いた。
「会えたよ。話もできた」
「一人じゃ、なかった?」
「一人じゃなかった。そばにいる人がいたよ」
私は息を吐いた。
今度は、途中で止めなかった。胸へ置いていた手を下ろし、文子の手を両手で包んだ。
「よかった」
涙はまだ出たが、その言葉は、さっきよりもちゃんと声になった。
*
「写真、ある?」
私は尋ねた。
文子は娘さんへ顔を向けた。
「千代と撮ったもの、入っていたね」
「うん。あります」
娘さんが鞄から小さな写真入れを出した。何枚かを確かめ、一枚を抜いて文子へ渡そうとしたが、文子は私の方を示した。
私は差し出された写真を、両手で受け取った。
庭のような場所で、二人の女の人が並んで座っていた。そばには植木鉢があり、後ろに明るい窓が見えた。
一人は文子だった。
今日より少し若く見えたが、口元の形で分かった。隣の人は淡い色の服を着て、膝の上へ両手を重ねていた。髪は白く、頬にも、目の周りにも皺があった。
「こっちが、千代?」
「そう」
私は写真を近づけた。
知らない顔だった。
そう思ったことが悲しくて、もう一度、目元から口元へ視線を動かした。どこかに私の知っている千代がいるはずだと、髪の形も、首の傾け方も確かめた。
「このときね、私が何度も撮り直そうとしたら、もういいでしょうって言ったの」
文子の声を聞きながら、写真の女の人を見た。
「それで、私がまだこっちを向いてって言ったら、ちゃんと向いてるよって」
私は涙の残った顔で笑った。
「千代、言いそう」
「言ったんだよ」
文子も笑った。
その声につられるように、写真の顔が、少しずつ千代に見えてきた。目の大きさや頬の形だけではなかった。文子の隣へ座り、早く撮ってしまおうとしながらも、立ち上がらずに付き合っている、その様子に覚えがあった。
私は写真の端をそっと持ち直した。
集合写真では、三人で並んでいた。
この写真には、二人がいた。
私のいない時間にも、文子と千代は、こうして隣に座っていたのだ。
「これ、私が撮ったんです」
娘さんが言った。
「二人とも、私に早く撮ってって言うんですけど、撮ろうとすると、また話し始めるんですよ」
「千代が話しかけたんでしょう」
文子が言うと、娘さんは少し笑った。
「どっちも」
私は写真を見たまま、もう一度笑った。
千代が、その場で何を話していたのか聞きたくなった。お茶は冷めないうちに飲みなさいと言っただろうか。文子の服について何か言っただろうか。写真を撮ってくれる娘さんに、お礼を言っただろうか。
知らないことが、たくさんあった。
それだけ、千代が生きた時間があった。
*
「傷は、よくなったの?」
私は写真の膝元へ目を落とした。
服の下は見えなかった。あのとき千代が撃たれたところも、包帯を巻かれたところも、写真には写っていなかった。
「よくなったよ。でも、あとになっても痛むことはあったみたい。無理をすると、今日は少し休むって言っていた」
文子は私の視線を追った。
「元気な日ばかりではなかった。私もね」
私は頷いた。
痛みがなくなれば、全部終わるわけではないことは、少しだけ分かっていた。今の私の胸には傷がないのに、大きな音を聞くと身体が縮んだ。何も起きていない部屋で、息ができなくなることもあった。
「千代も、音が怖かった?」
「怖がることはあったよ。急に大きな音がすると、私の腕を掴むこともあった」
私は写真の二人の間を見た。
肘が、近かった。
「でもね、怖いことばかり話していたわけじゃないの」
文子が続けた。
「今日、何を食べたとか、買い物へ行ったら高かったとか。そういう話も、たくさんしたよ。電話を切ろうとしてから、また別のことを思い出して、長くなることもあった」
「千代が?」
「私も」
文子は少し照れたように笑った。
私はその顔を見て、泣きながら頷いた。
千代が、明日の話をした。
次に会う日を決め、食べたいものを言い、誰かに電話をかけた。学校で私たちが当たり前にしていたことを、もう一度、できる日が来た。
あの畑で、私はその先を思い浮かべられなかった。千代の血を止めることと、文子を逃がすことしか考えられなかった。
けれど、千代には、その先があった。
*
「私の話も、した?」
聞くのが怖かった。
文子は私を見て、頷いた。
「したよ」
「どんな……」
「学校のこと。三人で歩いたこと。理恵が食堂を手伝っていたことも」
私は写真から顔を上げた。
「千代、覚えてた?」
「覚えていたよ」
文子の目が、また濡れた。
「忘れたことはなかったと思う」
私は唇を噛んだ。
忘れないと言ったのは、私の方だった。千代の名前も、文子の名前も、一緒に過ごした日々も、忘れないと思っていた。
千代も、覚えていてくれた。
私はそのことを知らないまま、こちらへ戻ってきた。
「ただ、あの畑の話は、いつでもできたわけじゃなかった」
文子は、膝の上の手を見た。
「途中で黙ってしまうこともあった。千代が話したくない日は、別の話をした。私が話せない日も、千代は聞かなかった」
私は頷いた。
覚えていることと、話せることは、同じではなかった。
文子の娘さんが、静かに言った。
「お名前は、聞いたことがありました。理恵さんのことも、春子さんのことも。でも、今日のお話は、初めてです」
私は娘さんを見た。
「母と千代さんが話していると、急に二人とも黙ることがあって。子供のころは、どうしてなのか分かりませんでした」
娘さんは写真へ目を向けた。
「楽しい話をしていたのに、私が知らないところへ二人で行ってしまったように見えることがありました」
文子は何も言わず、娘さんを見つめていた。
私は写真へ指を寄せたが、顔の上には触れなかった。端を押さえ、その中の千代に、小さく呼びかけた。
「千代」
返事はなかった。
けれど、今は、白い病院で名前を呼んだときとは違っていた。千代がどこへ行ったのか、何も知らずに探しているのではなかった。
文子のそばにいた。
この写真を撮ってもらい、撮り終わるのを待って、そのあとも、何か話したのだろう。
*
「会いたかったな」
私は写真を膝へ下ろした。
文子は頷いた。
「うん」
「おばあちゃんになった千代にも、会いたかった」
口にして、ようやく、写真の中の千代を思い浮かべられた。
教室の千代とは違う声だったかもしれない。私を見ても、すぐには分からなかったかもしれない。それでも名前を呼び、三人で話しているうちに、昔のように笑えたかもしれなかった。
「文子みたいに、私のこと見て、びっくりしたかな」
「きっとね」
「変わってないって、言ったかな」
「言ったと思う。それから、どうして理恵だけって、少し怒ったかもしれない」
私は笑い、すぐに泣いた。
文子が背中へ手を回した。私はその肩へ額を寄せ、写真を折らないように胸元へ持った。
「会いたかった」
もう一度言うと、文子の手が背中を撫でた。
「私も、また会いたいよ」
その声を聞いて、私は顔を上げた。
文子にも、会えない人だった。
あのあと千代を見つけ、何年も話し、一緒に年を取った文子も、もう千代には会えなかった。今日、私と再会しても、その隣へ千代を呼ぶことはできない。
私は文子の手を握り直した。
文子は私を見て、涙を拭きながら微笑んだ。
*
娘さんが、写真を持っていていいと言ってくれた。
「あとで、同じものをお渡しできますから。今は、もう少し見ていてください」
私は礼を言い、膝の上へ置いた。美羽が鞄からハンカチを出し、私の空いた手へ渡してくれた。
「ありがとう」
美羽は頷いた。
まだ分からないことがたくさんあるはずだった。それでも、私が写真を見る間、そばにいてくれた。
先生も、時間を確かめてから携帯をしまい、椅子へ座り直した。
私は涙を拭いて、文子へ顔を向けた。
「もっと、聞かせて」
「千代のこと?」
「うん。私が知らない千代のこと」
文子は写真を覗き、それから私を見た。
「たくさんあるよ。何から話そうか」
私は、少し考えた。
あの畑の続きも、いつかは聞かなければならないと思った。私に何が起きたのか、千代が何を見たのか。そのことは怖くて、まだ尋ねられなかった。
今は、違うことを知りたかった。
「千代、元気になってから、何を食べたがった?」
文子は目を細めた。
「食べ物の話から?」
「だって、ずっと、お腹すいてたでしょう」
「そうだったね」
文子が笑うと、写真の中の千代も、隣で聞いているように見えた。
私は膝の上の写真を持ち直し、文子の方へ少し傾けた。二人で見られるようにすると、文子が顔を寄せてきた。
千代には、もう会えなかった。
けれど、文子はここにいた。私の知らない千代を、覚えていてくれた。
私はその手を握ったまま、続きを聞いた。




