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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第112話 外へ出る日



 千代は、食べられるものが少しずつ増えると、今度は食べたいものの話をするようになったのだと、文子は教えてくれた。


 まだたくさんは食べられないのに、次に何が食べたいかを言い、文子がそれを覚えているか確かめた。手に入らないものを挙げて、二人で困ったこともあったらしい。


 私は膝の上の写真を見ながら、その話を聞いた。


 文子の声の中では、千代が生きていた。お腹がすいたと言い、待っていたと怒り、また明日来るのかと尋ねる。その一つ一つを聞くたびに、畑で倒れた姿しか思い浮かべられなかった私の中へ、知らない千代が増えていった。


 話が途切れたところで、文子が水を飲んだ。


 娘さんが容器を受け取り、蓋を閉めた。私は文子の手を離して膝へ戻したが、すぐに次のことを尋ねられず、写真の端を指で押さえていた。


「文子は、どうやって……」


 文子が私を見た。


「千代に会うまで。あの畑から、どこへ行ったの?」


 文子は背もたれへ少し身体を預けた。それから、入口の方へ顔を向け、明るいところを確かめるように目を細めた。


「走れるところまで走って、そのあとも、隠れられる場所を探したの」


 私は、畑の向こうへ小さくなっていく文子の背中を思い出した。


 見失わないように目で追っていた。倒れないでほしい、止まらないでほしいと思っていた。その先を、私は知らなかった。


「戻ろうと思ったこともあった。でも、音がすると、また伏せて。人が動く方へ行けば隠れられるかもしれないと思って、ついていったこともあったよ」


 文子は膝の上で、両手を重ねた。


「どの道を通ったか、全部は覚えていない。人の顔より、足ばかり見ていた。前の人が止まったら止まって、走ったら、私も走った」


 私は頷いた。


 文子が無事だったことを知っている今でも、その道を一人で歩いているところを思うと、喉が固くなった。


「そのあとに入ったガマにね、おばちゃんがいたの」


 私は顔を上げた。


「おばちゃん?」


「うん。食堂のおばちゃん」


 文子は私を見て、もう一度頷いた。


「生きていたよ。そこで、会えたんだよ」


     *


 入口から入ったばかりのとき、文子には、奥に誰がいるのか分からなかったのだという。


 目が暗さに慣れるまで、前へ進むのも難しかった。足元には荷物があり、横になっている人もいた。誰かの脚へ触れてしまい、謝っても返事がなく、もう一度声をかけるのが怖かった。


 壁の近くへ座ろうとしたとき、腕を取られた。


「文子じゃないか」


 聞き覚えのある声だった。


 文子は顔を近づけ、それでもすぐには信じられず、相手の肩へ手を置いた。


「おばちゃん、って呼んだら、そうだよって。私の顔を両手で挟んで、よく見せてごらんって言ったの」


 私は、食堂の戸口で私を待っていた顔を思い浮かべた。


 帰りが遅くなると、先に叱るのではなく、どこへ行っていたのか尋ねた。返事をしている途中で上着の汚れに気づき、どうしたのと袖を取ることもあった。


「怪我はないか、歩けるかって聞かれた。ちゃんと答えようとしたんだけど、おばちゃんの顔を見たら、もう……」


 文子は言葉を切り、目元へ指を寄せた。


「抱きついてしまった。学校の友達に会ったときとは、また違ったの。私が何もできなくても、そこへ座っていていい気がした」


 私は膝の上で手を握った。


 おばちゃんがいた。


 私が帰れなかった場所から、文子を迎えてくれた。


「それから、理恵はって聞かれたよ」


 文子の声が低くなった。


 私は写真を見下ろした。


 文子はそれ以上を続けず、少し待ってから、静かに言った。


「そのときのことも、あとでちゃんと話そうね」


 私は頷いた。聞きたかったけれど、今は、おばちゃんが生きていたという言葉を、もう少しそのまま受け止めていたかった。


     *


「そこには、兵隊さんもいたんですか」


 先生が尋ねた。


 文子は先生へ顔を向けた。


「いました。住民だけではなかったんです」


 先生は頷き、次の言葉を待った。


「入口に近いところにいた人も、奥で寝ていた人もいました。私には階級も、どこの部隊の人かも分かりませんでした。ただ、銃を持っている人がいると、それが先に目に入ったんです」


 私も、入口へ目を向けていた。


 今はガイドさんの灯りがあり、人が通れる場所が分かった。誰かに出ていけと言われることも、出口へ向かうところを止められることもなかった。


 文子のいる場所には、どちらの怖さもあったのだろう。


「外から、呼びかけが聞こえたことがありました。出てこい、命は助けるというようなことを」


 文子は膝の上の手へ目を落とした。


「でも、すぐには動けませんでした。出た人がどうなったのか、私たちには見えなかったから」


 私は、小さく頷いた。


 焼けた畑を見た。人だったものが横たわり、逃げる先にも身体があった。あの景色のあとで、外から聞こえる声だけを信じることはできなかった。


「おばちゃんも、怖かった?」


「怖かったと思う。私が外を見ようとすると、腕を引いた。見に行かなくていいって」


 文子は、そのとき掴まれた腕を思い出すように、自分の袖へ触れた。


「それでもね、中にいれば助かるとも思えなくなっていたの」


     *


 食べるものは減り、持っていた水も底が見えるようになった。


 文子が少し飲もうとすると、おばちゃんは自分の分を残して渡した。文子が返すと、今は欲しくないと言ったが、唇は乾き、話す途中で何度も口を閉じた。


 誰かが外へ水を探しに行くと言うと、家族が袖を掴んだ。出ていかなければ水がなく、出ていけば戻れるか分からなかった。


 そのガマには、英語を話せる男の人がいたのだという。


「外の人と話してみる、と言ったんです」


 文子が話した。


「自分たちは住民で、怪我をした人も子供もいる。戦うためにここへいるのではないと伝えて、どう出ればいいのか聞くつもりだと」


「一人で、外へ?」


 美羽が尋ねた。


 声に出してから、急に話へ入ったことを気にしたように、文子を見た。文子は美羽へ顔を向け、頷いた。


「最初に声をかける役を、その人が引き受けようとしたの。でも、一人で決めて出られるわけではなかったんだよ」


 美羽は膝の上の手を握った。


「止める人が、いたんですね」


「うん」


 文子は少し息を整えた。


「敵と話すのか、という兵隊さんがいた。話をすること自体を、許さなかったの」


     *


 初めは、低い声での言い合いだった。


 文子はおばちゃんの隣に座り、話している人たちの顔を見ようとしていた。暗い中では表情が分からず、声の強さで、誰が怒っているのかを聞き分けるしかなかった。


 英語を話せる男の人は、何度か同じことを説明した。


 外へいる人に住民がいることを伝えたい。出ていく前に、どうすれば撃たれずに済むのか確かめたい。


 それを遮る声が、次第に大きくなった。


「非国民、という言葉が聞こえました」


 文子は先生を見た。


「それまで黙っていた人たちが、また黙ってしまったんです。出たいと言っていた人も、下を向いて」


 私は膝へ掌を押しつけた。


 その言葉を知っていた。


 口にしたことを引っ込めても、もう聞かれてしまったと思う怖さも。誰かがこちらを見ているだけで、次に何を言えばいいのか分からなくなることも。


「別の兵隊さんが、子供を見てみろと言いました。ここへ置いたまま、どうするんだって」


 文子の視線が、私から美羽へ動いた。


「同じ軍服を着ていても、言うことは違っていたの」


 止めようとした兵隊さんは、住民だけでも出してやれと言った。


 けれど、相手は入口へ身体を寄せ、外へ出る者は許さないと繰り返した。誰かが立ち上がると銃を動かしたため、子供を抱いていた女の人が、その子を胸へ引き寄せた。


「おばちゃんが、私の頭を押さえたんです」


 文子は目を伏せた。


「下を向いていなさいって。声を出さないでって」


 それから人の動く音がした。


 岩へ何かが当たり、誰かが怒鳴った。伏せていた文子には、初めにどちらが手を出したのか見えなかった。


「銃の音が、ガマの中でしたの」


 私は息を止めた。


 文子の娘さんが、母親の肩へそっと手を置いた。


「外で聞く音とは違いました。耳の中が痛くなって、おばちゃんが何か言っていても、しばらく聞こえなかった」


 文子は、自分の両手を見つめた。


「顔を上げたら、一人が倒れていました。もう一人も傷を負っていて。さっきまで同じ側にいるはずだった人たちが、お互いを殺そうとしていたんです」


 誰も、すぐには動かなかった。


 通訳をしようとしていた男の人も、壁へ背をつけたまま立っていた。倒れた兵隊さんを起こそうとする人がいたが、呼んでも返事がなかった。


 文子はおばちゃんへしがみつき、何が起きたのかを尋ねることもできなかった。


「助かった、とは、そのとき思えませんでした」


 文子が言った。


「目の前で人が死んで、今度は残った人が何をするか分からなかった。外へ出られるかもしれないと思うより先に、また銃がこちらへ向くのではないかと思っていました」


 先生は黙って頷いた。


 私は文子の手へ、自分の手を重ねた。今の手は乾いていた。触れても、血がつくことはなかった。


     *


「それでも、その人は、話しに行ったんですか」


 美羽が尋ねた。


「行ったよ」


 文子は顔を上げた。


「少しして、入口へ近づいた。残っていた兵隊さんも、もう止めなかった」


 男の人は外へ向かって声をかけた。


 文子には分からない言葉だった。聞き慣れた呼びかけとは違い、途中で止まり、外から返事が来ると、また続いた。


 その間、ガマの中の人たちは動かなかった。


 外から足音が近づいても、誰が来たのか見ようとする人は少なかった。おばちゃんは文子の腕を掴み、入口へ出る男の人を目で追っていた。


「随分長く感じたけれど、本当は、どれくらいだったか分かりません」


 文子は話した。


「戻ってきて、出られると言ったんです。持って出てはいけないものや、どう手を見せるかも、その人から聞きました」


「聞いて、すぐに信じられましたか」


 先生の問いに、文子は首を振った。


「いいえ。信じたいとは思いました。でも、立とうとしても脚が動かなかった」


 文子は私へ顔を向けた。


「理恵。私、そこでまた、逃げたかったんだよ」


「……どこへ?」


「もっと奥へ。見つからないところへ」


 私は何も言えなかった。


「外へ出ることになったのに、隠れたいと思った。出てきたところを撃たれるのではないかと思って」


 文子は膝の上で指を曲げた。


「おばちゃんが先に立って、私へ手を出したの」


     *


「一緒に行こう」


 そう言われたのだと、文子は話した。


 大丈夫だからとは言われなかった。絶対に助かるとも言われなかった。ただ、文子を一人で残していかないように、手を伸ばして待っていた。


 文子がその手を取ると、おばちゃんはしっかり握り、立ち上がる間、離さなかった。


「外の光が、眩しくてね」


 文子は入口の方へ目を向けた。


「すぐには顔を上げられなかった。足元だけ見て、言われたとおりに歩いた」


 知らない靴が見えた。


 人の声が近くで聞こえたが、何を言っているのか分からなかった。おばちゃんと離されるのではないかと怖くなり、握っている手へ力を込めた。


 通訳の男の人が、こちらへ来るように言った。


 銃を持ったアメリカ兵がいた。文子はその人の手元を見てしまい、顔を上げるように言われても、すぐにはできなかった。


「歩いている間、ずっと待っていたんです」


「何をですか」


 先生が静かに尋ねた。


「撃たれるのを」


 私は文子の手を握った。


 美羽が隣で、小さく息を吸った。


「倒れたら、おばちゃんも止まってしまうと思いました。だから、手を離した方がいいのかとも思った。でも、離せなかった」


 文子は私の指を見下ろした。


「そのまま、歩いたの」


 撃たれなかった。


 言われたところまで行き、座るように促された。おばちゃんも隣へ座った。文子はそこで初めて、立っていなくてもいいのだと分かった。


 それでも身体は強張り、近くを兵隊が歩くたびに顔を伏せた。


「水をもらったときも、すぐには飲めなかったよ」


 文子が言った。


「手が震えていたし、飲んでいいのか分からなかった。おばちゃんが少し飲んで、それから私へ渡してくれたの」


 私は目元を拭いた。


 おばちゃんの手から水を受け取る文子を思い浮かべた。器を傾け、喉へ水が流れて、今度はこぼさないように両手で持ち直すところまで。


「そこで全部、終わったわけではありませんでした」


 文子は先生へ言った。


「家族がどこにいるかも分からない。怪我をした人もいる。家へ帰れるのか、家が残っているのかも分からない。ただ、そのときは、水を飲めたんです」


 先生は少し俯き、頷いた。


 私も、頷いた。


     *


 文子が話し終えると、娘さんが水を差し出した。


 文子は受け取り、一口飲んでから、私へ顔を向けた。


「理恵も、飲んで」


 私は膝の横の容器を取ろうとしたが、指がうまく蓋へかからなかった。話を聞いている間に、手へ力が入っていたらしい。


 美羽が、そっと受け取った。


「開けるね」


 蓋を緩めて返してくれた。私は礼を言い、少しずつ飲んだ。


 文子はその様子を見ていた。


「あなたのお名前、まだちゃんと聞いていなかったね」


 美羽が顔を上げた。


「佐藤美羽です」


「美羽さん」


 文子はゆっくり呼んで、私を見た。


「今の学校のお友達?」


「うん」


 私は容器を膝へ置いた。


「病院にも来てくれた。学校へ戻ってからも、ずっと気にかけてくれて。今日も、私が勝手に歩いていくのに、ついてきてくれた」


「勝手っていうか……」


 美羽は私を見て、少し困ったように笑った。


「顔が真っ白だったから。置いていけないでしょう」


 文子が、その言葉を聞いて微笑んだ。


「そうだね」


 美羽は文子の方へ向き直った。


「でも、私、何も知らなくて。理恵がどうして、あんなに苦しそうなのかも、今日まで……今も、全部は分からないんです」


「分からなくても、そばにいてくれたんだね」


 文子の声は穏やかだった。


 美羽は一度私を見て、それから頷いた。


「一人にするのは、心配だったから」


 私は、その横顔を見た。


 言えるようになったら聞くよと言ってくれた。私が答えられないときも、無理に聞かず、歩く速さを落として隣にいてくれた。


「話せなくて、ごめん」


 私が言うと、美羽は首を振った。


「今、聞いてるよ」


 私は頷いた。


 文子の目が、また少し濡れていた。


「理恵に、いいお友達がいてよかった」


 その言葉を聞くと、私は笑おうとして、口元を押さえた。


 文子は私と美羽を見比べ、ゆっくり続けた。


「一人で抱えたまま帰っていたのではないかと思っていたから。お母さんにも会えて、こうして待ってくれる人もいて……よかった」


 美羽が、私の肩へ触れた。


 私はその手へ自分の手を重ね、文子を見た。


「うん。ちゃんと、いるよ」


 文子は頷いた。


 膝の上には、千代と文子の写真があった。隣には美羽が座っていた。


 私は写真を折らないように持ち直し、もう片方の手で、美羽の指をそっと握った。

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