第113話 図面の向こう
美羽の手を離すと、文子は膝の上の写真へ目を落とした。
「千代にも、会わせたかったね」
私は頷いた。美羽は少し戸惑ったように写真を見たが、やがて、千代の隣にいる文子へ顔を向けた。
「私も、お話、聞いてみたかったです」
「よく喋る人だったから、きっと長くなったよ」
文子が言うと、私は涙の残った顔で笑った。
話している途中で別のことを思い出して、先ほどの話へ戻るころには、何を言おうとしていたのか二人とも分からなくなっている。そんな千代の姿を思い浮かべられた。
先生が入口の方を確かめ、私たちへ声をかけた。
「少し場所を移しましょうか。外の休憩所も使えるそうです」
文子の娘さんが母親の顔を見た。
「お母さん、歩けそう?」
「うん。ゆっくりなら」
私は立ち上がり、文子へ手を伸ばした。娘さんが反対側を支えると、文子は杖を持ち、足元を確かめながら立った。
私が歩く速さを落とすと、文子がこちらを見た。
「理恵に待ってもらうようになるなんてね」
「私、そんなに早かった?」
「千代と二人で、話しながら先へ行くことがあったよ」
私は文子の顔を見た。そういう日もあった。振り返ると文子が少し後ろにいて、千代が、早くおいでと手を振った。
今は私が隣にいた。足元の段差を伝え、文子が一歩を置くのを待ってから進んだ。
*
外には、風があった。
休憩所の屋根の下へ入ると、葉の擦れる音が聞こえた。先生が椅子を寄せてくれ、娘さんが文子の背中へ畳んだ上着を当てた。私は写真を鞄へしまう前に、もう一度千代の顔を見た。
文子は水を飲み、少し休んでから話し始めた。
「戦争が終わったと聞いたとき、理恵のことを思い出したの」
私は鞄の口を閉じかけたまま、顔を上げた。
「八月に?」
「うん。八月になって、日本が降伏したと聞いた。最初に誰から聞いたのか、もうはっきりしないんだけど、日付を聞いて、理恵が言っていた日だと思ったんだよ」
文子は指先を膝へ揃えた。
「その日になれば終わるって、覚えていた。でも、そこまで生きられるか分からなかったから、途中では、先のことを考えられなくなっていたの」
私は頷いた。
知っている日付は、何度も頭の中へ戻ってきた。けれど、その数字を思い浮かべても、水は増えず、砲弾は止まらなかった。六月を越えられなければ、八月を知っていることに、どんな意味があるのか分からなくなった。
「理恵は、そのことを前から話していたんですか」
先生が尋ねた。
文子は私を見てから、先生へ頷いた。
「全部ではありませんでした。でも、戦争が終わるころのことを、私たちに話してくれたことがありました」
美羽の視線が、私へ向いた。
私は膝の上で手を合わせた。
「覚えていたことだけです。調べたことも、授業で聞いたことも……全部、正確には覚えていなくて」
そこまで言うと、先生は黙って待っていた。
「知っていても、どうすればいいのか分かりませんでした」
私は文子へ顔を向けた。
「逃げれば助かるって、言えなかった。どこへ行けばいいのかも、分からなかったから」
「うん」
文子は私の手へ触れた。
「理恵も、私たちと同じところにいたもの」
私は頷いた。
文子の前では、それ以上を説明しなくてもよかった。私が黙った日も、泣いた日も、何もできずに立っていた日も、文子は知っていた。
*
「終わったと聞いて、嬉しかったですか」
美羽が慎重に尋ねた。
文子は少し考え、頷きかけてから、膝へ目を落とした。
「もう戦わなくていいんだと思った。でも、そのあとで、では、どうしてみんなは帰ってこないんだろうと思ったの」
葉の擦れる音が続いていた。
「終われば、何かが戻るような気がしていたのかもしれないね。学校へ行けば、誰かが座っているとか、家へ帰れば、待っている人がいるとか」
私は教室を思い浮かべた。
春子の席があり、窓際に千代がいて、文子が私を呼ぶ。そんな景色へ戻れるなら、どれだけ遠くても歩いていっただろう。
「生きている人を探して、いない人のことを聞いて。それでも、しばらくは、どこかにいるのではないかと思っていた」
文子の娘さんは、母親の横で静かに聞いていた。
「そのあと、暮らしを始めるんです。食べるものを用意して、寝るところを整えて。何かをしている間は、手を動かしていられました。でも、夜になると、昼間には考えなかったことが戻ってきた」
「眠れないことも、ありましたか」
先生の問いに、文子は頷いた。
「ありました。眠ると、また壕にいることもありました」
私は、膝へ置いた指に力を込めた。
隣で美羽が私を見た。私は小さく頷き、文子の話へ顔を戻した。
「朝になって、屋根を見て、ここにいるのだと確かめるんです。それから、今日しなければならないことを考えた。いつまでも横になっているわけにはいかなかったから」
文子はそこで息をつき、私を見た。
「そんなころに、直樹と、また会ったんだよ」
*
「直樹?」
私は聞き返した。
「森本直樹。覚えているでしょう」
顔が浮かんだ。
学校へ向かう道で声をかけてきた男子生徒。私たちとは違う制服を着て、何かを話すとき、少し顎を引いてこちらを見ていた。
「図面を描いていた、あの人?」
「そう」
文子が笑った。
「生きてたんだ」
「うん。生きていた」
私は文子の顔を見つめた。千代のときと同じように、まず、その言葉を確かめていたかった。
「会ったとき、すぐ分かった?」
「分かったよ。でも、前と同じように話せたわけではなかった。お互いに、聞きたいことがあっても、聞けなかったから」
何をしていたのか。誰といたのか。誰が戻らなかったのか。
名前を出したあと、返ってくる言葉が怖いこともあったのだろう。私は文子の指を見ながら、頷いた。
「それでも、何度か会っているうちに、少しずつ話すようになってね」
文子は娘さんの方へ目を向けた。
「そのあと、結婚したの」
私は顔を上げた。
「文子が?」
「私が」
「森本直樹と?」
「そうだよ」
文子が笑うと、娘さんも笑った。
「父のことです」
私は二人を見比べた。
娘さんの顔を、初めて見るように見つめてしまった。今日、文子の杖を持ち、背中へ上着を当ててくれたこの人の父親が、私の知っている直樹だった。
「ごめんなさい。じっと見て」
「いいんです」
娘さんは少し照れたように笑った。
「私には、若いころの父を知っている方に会う方が、不思議です」
私は、あのころの直樹の顔を思い浮かべながら頷いた。
文子が、その様子を楽しそうに見ていた。
「理恵、そんなに驚く?」
「だって、結婚するところまでは、考えたことなかったから」
「私も、そのころは、そこまで考えていなかったよ」
その言い方が文子らしくて、私は思わず笑った。美羽も、私の顔を見て、少し肩の力を抜いた。
*
「図面は、ずっと描いていたんですか」
美羽が尋ねると、娘さんが頷いた。
「家でも、よく紙を広げていました。私が横から覗くと、ここは触らないでと言うんですけど、何を描いているのかは教えてくれました」
私は、紙へ顔を近づける直樹を思い浮かべた。
戦争のあとにも、その姿があったのだ。
「食事のときにも、片づけないことがあってね」
文子が言った。
「少し待ってと言って、線を一本引くの。それで終わるのかと思ったら、また別のところを直して」
「お母さん、先に食べてたでしょう」
「冷めてしまうもの」
娘さんの言葉に、文子は平然と答えた。
私は笑い、美羽も口元へ手を当てた。
「喧嘩は、した?」
私が聞くと、文子は眉を上げた。
「したよ。結婚したから、全部同じ考えになるわけではないからね」
「どっちが、先に謝るの?」
「そのときによる」
娘さんが文子を見た。
「父が先にお茶を入れることは、ありました」
「それは、謝っているとは限らないでしょう」
「でも、お母さんの分も入れるんだよ」
文子は少し黙り、それから、私へ顔を向けて笑った。
私はその顔を見ながら、直樹が湯呑みを二つ置くところを思い浮かべた。何も言わずに一つを文子の前へ寄せ、文子がしばらくして受け取る。
私の知らない二人の暮らしが、少しずつ見えてきた。
ご飯が冷めることを気にして、紙を片づけるように言う。喧嘩をしても、同じ家で次の朝を迎える。
そういう日が、文子にあった。
*
「娘さんが、生まれたときは?」
私は尋ねた。
文子は隣の人を見た。娘さんは少し困ったように笑い、膝へ両手を置いた。
「この子が泣くと、すぐに抱き上げたよ」
文子の声が、静かになった。
「初めは、泣き声がすると、身体が先に動いた。泣き止ませなければと思って」
私は文子を見つめた。
美羽も笑みを消し、話の続きを待った。
「直樹に、そんなに慌てなくてもいいと言われたことがあるの。お腹がすいたのかもしれないし、抱いてほしいのかもしれないって」
文子は娘さんの手へ触れた。
「泣いていても、誰も怒鳴りに来なかった。外へ出ていけとも言われなかった」
私は唇を結んだ。
文子はしばらく娘さんの手を見て、それから小さく笑った。
「夜中は眠くて、困ったけれどね。泣いていいのだと思えるまで、少し時間がかかった」
娘さんが、母親の指を握った。
文子はその手を受け止め、もう片方の手で目元を拭いた。
私は何も言えなかった。
文子が母親になり、泣いている子を抱いている。その部屋には灯りがあり、直樹がいて、朝を待てた。
私は二人の手を見ながら、ゆっくり息を吸った。
*
先生が、少し椅子を寄せた。
「寺田さん」
私は顔を向けた。
「映画の感想のこと、今、少し分かった気がする」
美羽が私を見た。私は膝へ視線を落としたが、今度は、何も言えないまま終わりたくなかった。
「千代も、文子も……死にたかったんじゃありません」
声が震えた。
「私も、帰りたかった。水が欲しかったし、痛いのは嫌だったし。文子に逃げてと言ったときも、本当は一緒に行きたかったんです」
先生は頷いた。
「映画の最後のことが、つらかったんだね」
「はい。でも、亡くなった人の気持ちを、私が全部知っているわけじゃないです」
私は文子を見た。
「ただ、死ぬことを選んだって言われると、その前に、どれだけ生きようとしたかが、なくなる気がして」
文子は私の言葉を聞き、膝の上の手をゆっくり合わせた。
「私も、出るのが怖かった。中に残るのも怖かった。どちらも、自分で落ち着いて選べるようなことではなかったよ」
先生は文子へ頭を向け、聞いていた。
「生きて帰ったから話せることもあります。でも、帰れなかった人が最後にどう思っていたかは、簡単には言えません」
「はい」
先生が静かに答えた。
私は手元を見つめたまま、続けた。
「悲しくなかったから、ああ書いたんじゃないんです。悲しかったのに、泣けなくて。聞こえてくる音楽より、覚えている声の方が大きくて……」
途中で言葉が止まった。
先生は急がせなかった。しばらく待ち、それから言った。
「話してくれて、ありがとう」
私は顔を上げた。
「あのとき、言葉の受け取られ方を説明する前に、もう少し、寺田さんが苦しんでいることを聞けばよかった。ごめんね」
私は首を振った。
「待ってくれました」
先生は私を見た。
「言いたくないことまで、話さなくていいって。だから、私……」
その先は、うまく続かなかった。
先生は小さく頷き、無理に続きを求めなかった。
「感想は、急いで書き直さなくていい。今日のことも、誰かに分かるように、すぐまとめなくていいよ」
私は頷いた。
五文字の下へ、書けなかったことがあった。
今は、その一部を声にできた。
*
「理恵、家へ帰ってからも、怖いことがあったの?」
美羽が尋ねた。
私は少し考え、頷いた。
「音がすると、伏せそうになることがある。分かってるんだけど、身体が……」
「空港でも?」
「うん」
美羽は、私の顔を見つめた。
「そっか」
それだけ言って、しばらく黙った。
私は美羽の指へ目を向けた。飛行機が動き出したとき、握ってくれた手だった。
「美羽がいてくれて、助かった」
「だったら、次も言って」
私は顔を上げた。
「全部話せなくても、今ちょっと怖いとか。それだけでもいいから」
「うん」
「私、間違ったこと言うかもしれないけど、何も分からないままより、その方がいい」
私は頷いた。
文子が私たちを見て、穏やかに笑っていた。娘さんが何かを尋ねるように母親へ顔を寄せると、文子は私から目を離さずに言った。
「理恵が帰れたところを、やっと見られた気がする」
私は文子を見た。
「お母さんに会えたって聞いて、嬉しかった。でも、今、こうして話しているのを見たら……ちゃんと、この先も暮らしていけるんだね」
胸の奥が熱くなった。
文子の隣には娘さんがいて、私の隣には美羽がいた。先生も、話を聞き終わって立ち去ることなく、同じ屋根の下に座っていた。
私は鞄から写真を出し、膝の上へ置いた。
「文子のことも、もっと聞きたい」
「まだあるよ。直樹の話も」
文子は娘さんを見た。
「この子が知らないことも、あるかもしれないね」
「それは、聞いておかないと」
娘さんが答えると、美羽も少し身を乗り出した。
私は写真の中の千代へ目を落とし、それから、今ここにいる文子を見た。
話の続きを待つ間、風が文子の白い髪を揺らした。文子が押さえようとしたので、私は顔へかかった一筋をそっと耳の後ろへ寄せた。
「ありがとう、理恵」
そう呼ばれて、私は頷いた。




