第114話 待っていた人
文子の髪を直した手を下ろすと、私は鞄へ視線を落とした。
写真入れの中には、千代と文子がいた。直樹も生き延び、文子と暮らした。知らなかった年月の話を聞くうちに、あの畑で途切れたと思っていた人たちの姿が、少しずつ、その先へつながっていた。
けれど、まだ尋ねていないことがあった。
文子は私が黙ったのに気づき、顔を覗いた。
「おばちゃんのこと?」
私は頷いた。
「私のこと、話したんだよね」
「うん」
文子の声が、静かになった。
娘さんが母親の膝へ載せていた上着を整えた。先生も美羽も、言葉を挟まずに待っていた。
私は両手を膝へ置いた。
「聞かせて」
*
おばちゃんは文子を抱き寄せたあと、顔についた土を指で払ってくれたのだという。
文子が何かを言おうとしても、息が続かなかった。おばちゃんは背中を撫で、まず座るように言った。自分の荷物を壁へ寄せ、その前に文子の座る場所を作った。
「どこから来たの、と聞かれてね。病院を出たことから話したんだよ」
文子は、そのときの声を思い出すように、少しずつ続けた。
「解散になったことも、千代と理恵と、三人で逃げていたことも」
私は文子の口元を見ていた。
「三人で、と言ったら、おばちゃんが入口を見たの」
文子の視線が、休憩所の外へ動いた。
「私のあとから、二人も入ってくると思ったんだと思う。しばらく、そっちを見ていた」
私は顔を伏せた。
文子のあとを追って入れたなら、おばちゃんは私の顔も、同じように拭いてくれただろうか。
こんなに汚れて、と言いながら、怪我をしたところを確かめ、座る場所を空けてくれただろうか。
「理恵は、と聞かれた」
文子は膝の上で指を組んだ。
「私、すぐには言えなかった。畑で撃たれたと話したら、どこを、今どこにいるのって、聞かれて」
私は胸へ触れかけた手を、膝へ戻した。
「おばちゃん、立とうとしたんだよ」
「……探しに?」
「うん。どこにいるか教えてくれれば、行くつもりだったんだと思う」
私は目を閉じた。
おばちゃんが、荷物へ手をつく姿が浮かんだ。場所を聞き、暗い入口へ向かおうとする。私が帰れなかった道へ、今度はおばちゃんが出ていこうとしていた。
「止めたの?」
「腕を掴んだ。今は外へ出られないって言った。でも、おばちゃんは、理恵が残っているんでしょうって」
文子の声が掠れた。
「私、それまで、ちゃんと話していなかったの。撃たれたことと、千代がそばにいることしか」
私は息を吸い、ゆっくり吐いた。
文子は私の手へ触れた。
「そのときは、二人とも助からないと思っていた。だから、おばちゃんに、もう戻ってこないと思うと……そう、言ったんだよ」
*
おばちゃんは、文子の腕を掴んだまま止まった。
泣き出したり、怒鳴ったりはしなかった。文子の顔を見て、それからもう一度、入口を見た。
「理恵が、そう言ったのかい」
尋ねられ、文子は首を振ったのだという。
「私に逃げてと言ったことを話した。千代と一緒に、文子は行ってって言ったと」
文子は目元へ手を寄せた。
「おばちゃんは、逃げてと言ったなら、まだ生きていたんでしょうって。まだ話せたんでしょうって」
私は唇を噛んだ。
そのときは、生きていた。
千代の手も温かく、文子の姿が見えていた。私は帰りたかったし、次に息を吸うことも、まだ諦めてはいなかった。
「私が答えられなくなると、おばちゃんも黙ってしまった」
文子は続けた。
「手だけ、私の腕に残っていた。強く掴んでいたのが、少しずつ緩んで……それでも、離さなかった」
風が屋根の下を通った。
私は膝へ目を落とし、服の布目を見つめた。何かを見ていなければ、暗いガマに座っているおばちゃんの顔ばかりが浮かんだ。
「そのあと、おばちゃんが、帰ってくるはずだったと言ったの」
文子の声が小さくなった。
「出ていく前に、ちゃんと帰ってくるつもりでいたんだって。家へ戻ったら、また手伝ってもらうことがあるんだって」
涙が落ちた。
私は拭こうとしたが、手を上げるより先に、もう一滴、膝へ落ちた。
「手伝うつもりだった」
声にすると、喉が震えた。
「帰ったら、また。お皿も洗うし、薪も……」
そこで言葉が続かなくなった。
文子が私の手を握った。私はその手へ顔を向け、泣きながら、もう一度言った。
「帰るつもりだったよ」
「うん」
「おばちゃんに、もう会えないと思って出たんじゃない」
「分かってる。おばちゃんも、分かっていたと思う」
*
食堂には、毎日しなければならないことがあった。
洗った器を戻す場所も、火のそばで使うものも、初めは何度も聞いた。おばちゃんは、さっき教えたでしょうと言いながら、もう一度指で示した。
覚えると、今度は何も言われなくなった。
私が器を取る前に、おばちゃんがそこへ手を伸ばしかけ、任せたよと言って鍋へ戻る。その短いやり取りが嬉しかった。
学校から帰って、戸を開ける。
ただいまと言うと、奥から返事が来る。
そんな一日の続きへ戻るつもりで、私は出ていった。
「私、おばちゃんに、ちゃんとお礼も……」
「言っていたでしょう」
文子が静かに言った。
「食堂にいるとき、何度も」
「でも、最後に」
私は首を振った。
「最後だって、分からなかったから」
文子は頷いた。
美羽がハンカチを私の手へ添えた。私は受け取り、目元を押さえた。
「最後だと分かっていたら、言いたかったことが、たくさんあるよね」
文子の声を聞くと、私はまた頷いた。
おばちゃんに、救われた。
行くところのない私へ、部屋を見せてくれた。私が知らない家の中に、帰っていい場所を作ってくれた。
けれど、私は帰れなかった。
*
「おばちゃんは、私を責めなかったの」
文子が言った。
私は顔を上げた。
「私だけ戻ったから、何か言われると思っていた。どうして置いてきたのかって」
文子は自分の指を見た。
「私が何度も謝ると、まず、ここにいなさいと言った。話はあとでいいから、ここにって」
私は文子の手を握り返した。
「でも、悲しんでいたよ。私が眠ったと思っているときに、泣いていたこともあった」
文子の目が濡れた。
「声を出さないようにしていたけれど、分かった。隣で身体が動くから。何か言いたかったのに、私も、何も言えなかった」
おばちゃんは、もう一人の娘を亡くしていた。
私へ初めて部屋を見せてくれたとき、その話をしてくれた。娘さんの部屋だと言われ、入っていいのか迷った私へ、使っていいのだと頷いた。
あの人を、また悲しませた。
そう思ったとき、文子が私の顔を覗いた。
「理恵が悪かったのではないよ」
私はすぐには頷けなかった。
「でも……」
「帰れなかったことを、理恵のせいにしていたわけではない。会いたかったんだよ。私も、おばちゃんも」
私はハンカチを握った。
文子はそれ以上言わず、私が息を整えるまで待っていてくれた。
*
「千代に会えたことは、おばちゃんにも伝えた?」
「伝えたよ」
文子は頷いた。
「喜んだ。どこにいるのか聞いて、身体がよくなったら顔を見せてほしいと言っていた」
私は千代の写真を思い浮かべた。
おばちゃんも、千代が生きていたと知った。
その知らせを聞いた顔を、今なら少し思い描けた。
「千代にも、おばちゃんの話をした?」
「うん」
文子は私の手を見下ろした。
「二人で会ったときにも、理恵のことを話したよ。話せるところから、少しずつ」
私は頷いた。
私のいないところで、私の名前が呼ばれていた。
それは嬉しくて、同時に寂しかった。そこへ返事をしに行けなかったことが、今になって、胸へ重く残った。
「おばちゃんは、そのあと、どうしたの?」
私が尋ねると、文子は背もたれへ少し身体を預けた。
「しばらくは沖縄にいたよ。それから、東京へ行ったの」
「東京?」
思わず聞き返した。
「うん。戦争が終わって、すぐのことではなかったけれどね。向こうで暮らすようになった」
私は文子を見つめた。
東京に、おばちゃんがいた。
私が帰った場所で、あの人も暮らしたことがある。そのことを考えようとしても、食堂の台所に立つ姿しか、まだ浮かばなかった。
*
「離れてからも、連絡は取っていたんですか」
先生が尋ねた。
「手紙を書いていました」
文子は頷いた。
「何をしているか、身体は大丈夫か。そういうことを書いて。会えたときには、手紙に書かなかったことも話しました」
「理恵の話も?」
私は尋ねた。
「したよ」
文子は私へ顔を向けた。
「ずっと覚えていた。理恵が使っていたものも、大事にしていた」
私は膝の上のハンカチを見た。
「私の、使っていたもの?」
「うん。中でも、あの帳面をね」
指が止まった。
隠していた日記。
忘れないうちにと思い、覚えている年月や出来事を書きつけた。書けば何かを変えられるのか分からないまま、ページを閉じ、見つからないところへ入れた。
おばちゃんに見つかったときの顔を、まだ覚えていた。
「あれ、持っていたの?」
「持っていたよ」
文子は頷いた。
「何度か、見せてもらった。理恵の字だと言って、ページを開いたんだよ」
私は両手を合わせた。
あの紙が、残っていた。
壕を移るたびに荷物を減らし、何を持っていたのかも分からなくなった私とは別の場所で、おばちゃんが守ってくれていた。
「東京にも?」
「持っていったよ」
文子は、目元を拭いて微笑んだ。
「置いていかなかった」
私は顔を伏せた。
あのころの私が書いた字を、おばちゃんは東京で見ていた。日記を書いた私は、そこへ行ったことがなかったのに、私の字だけは、あの人と一緒に海を渡った。
*
美羽が、私の肩へ触れた。
「理恵、少し休む?」
私は首を振りかけ、今度は、すぐに返事をしなかった。息を整え、文子の顔を見てから頷いた。
「少しだけ」
美羽が水を取ってくれた。私は受け取り、両手で持った。
文子の娘さんも母親へ水を渡し、先生は少し席を離れて、ほかの先生へ連絡をしていた。
誰も、話を終わりにしようとはしなかった。
私は一口飲み、容器を膝へ戻した。
「文子」
「うん」
「私、こっちのお母さんには、謝れたよ」
文子は私を見た。
「病院で。帰りたかったって、会いたかったって、言えた」
声が震えたが、今度は最後まで続けられた。
「おばちゃんにも、言いたかった」
文子の目が濡れた。
「会いたかったって。あの家で暮らせて、よかったって」
文子は私の手を取り、両手で包んだ。
「伝えようね」
私は顔を上げた。
「今度、おばちゃんのお墓へ、一緒に行こう。理恵に会えたことを、私からも話したい」
私は、その言葉をゆっくり受け止めた。
千代と同じように、おばちゃんにも、もう会えないのだと分かった。生き延びたあとにも年月があり、その全部を私は飛び越えて、ここへ来てしまった。
それでも、行ける場所があった。
「……行きたい」
私は頷いた。
「文子と、一緒に」
文子は私の手を握り返した。
東京で暮らしたおばちゃんの姿は、まだ思い浮かべられなかった。けれど、日記を開く手だけは分かった。紙の端を押さえ、私の字へ目を落とす、あの手だった。
私はその手を思い出しながら、文子の指へ、もう一度そっと力を込めた。




