第115話 また会う約束
文子の手を握っていると、先生が少し離れたところから戻ってきた。
すぐには声をかけず、私たちの顔を見てから、静かに言った。
「そろそろ、バスへ戻ろうか。ほかの生徒は向こうで待っています」
私は頷いた。
時間が経っていたことは分かっていた。屋根の下へ入ったときより、地面に落ちる影が長くなっていたし、文子も何度か背もたれへ身体を預けていた。それでも、ここを離れることを考えると、握った指を緩められなかった。
次に会えるのだろうか。
今日のように名前を呼び、返事を聞ける日が、また来るのだろうか。
文子は私の手へ目を落とし、それから顔を上げた。
「連絡できるようにしておこうね」
私は頷いた。
娘さんが鞄から携帯を取り出し、先生と連絡先を確かめた。私も自分の携帯を出したが、画面を開いたところで指が止まり、美羽が隣から、ここだよと教えてくれた。
登録された名前を見た。
これで、帰ってからも連絡できる。
そう思っても、携帯をしまう前に、もう一度、文子の顔を確かめていた。
「東京へ行くことは、娘と相談するから」
文子が言った。
「日にちが決まったら、ちゃんと知らせるよ」
「無理は、しないでね」
私が言うと、娘さんが頷いた。
「母の身体を見ながら決めます。でも、私も一緒に行きたいと思っています」
文子は娘さんを見て、小さく笑った。
「一人では、もう荷物も全部持てないからね」
「荷物だけじゃないでしょう。歩きすぎないように見ていないと」
二人のやり取りを聞き、私は少し笑った。
文子のそばには、こうして身体を気遣い、先の予定を一緒に考えてくれる人がいた。そのことが、別れる怖さを少しだけ和らげてくれた。
*
立ち上がる前に、娘さんが写真を私へ渡してくれた。
「これは、お持ちになってください」
「でも……」
「同じ写真が家にありますから。千代さんも、見てほしいと思います」
私は両手で受け取った。
文子と千代が、隣に座っていた。さっきまで何度も見ていた写真なのに、自分が持って帰っていいのだと聞くと、指の置き方まで慎重になった。
美羽が、鞄の中から薄いノートを出した。
「挟んでおこう。曲がらないように」
私は頷き、ページの間へ写真を入れた。閉じる前に、千代の顔をもう一度見た。
東京へ、一緒に帰れる。
そんなことを思ってから、写真に向かって言葉をかけそうになり、唇を閉じた。
文子はその様子を見ていた。
「千代の話も、またしようね」
「うん」
「今日だけでは、話しきれないから」
私はノートを鞄へしまった。
話しきれないほどの年月があった。
そのことが寂しくて、同時に、嬉しかった。
*
文子を支えて休憩所を出ると、道の向こうにバスが見えた。
生徒たちの声が届いた。飲み物を手にした子が友達を呼び、先生の合図で乗り込んでいく。いつもの学校で聞く声と似ていた。
私は文子の歩幅に合わせ、少しずつ進んだ。
別れる場所まで来ると、文子が足を止めた。
「理恵、お母さんを大切にね」
私は顔を上げた。
「うん」
「会いたいと言っていたものね」
「会えたよ。今度は、ちゃんと……」
続きを言おうとして、胸が詰まった。
ちゃんと大切にする。もう二度と、あんなふうに家を出ない。言いたいことはいくつもあったが、文子は私が全部言い終えるのを待たずに、頷いてくれた。
「帰ったら、顔を見せてあげて」
私は頷いた。
文子が私の腕へ手を添えた。私もその肩へ手を回し、身体を強く押さえないように、そっと抱き寄せた。
あのころと違う、小さな肩だった。
けれど背中へ返ってきた手の動きには、覚えがあった。
「またね、文子」
声にすると、涙が出た。
文子は私の背中を撫でた。
「またね、理恵」
私は少し身体を離した。
文子の顔が見えた。涙に濡れていたが、笑っていた。娘さんがすぐ隣で支えていて、美羽も、私の鞄を持って待ってくれていた。
私は文子の手を一度握り、それから離した。
今度は、逃げるために離すのではなかった。
*
バスの席へ座ると、美羽が隣に来た。
窓の外で、文子が娘さんと並んでいた。私を見つけると手を上げたので、私は両手を窓へ寄せるようにして振った。
バスが動き出した。
身体が少し揺れ、エンジンの音が大きくなった。私は反射的に肩へ力を入れたが、顔は伏せなかった。文子の姿を、見えるところまで見ていた。
角を曲がると、二人は見えなくなった。
私はゆっくり座り直し、膝へ鞄を載せた。
「大丈夫?」
美羽が聞いた。
「うん。寂しいけど」
「また会えるよ。連絡先もあるし」
私は頷いた。
鞄の中には、千代の写真があった。携帯には、文子へつながる連絡先が入っていた。
美羽はしばらく窓の外を見て、それから、こちらへ顔を向けた。
「私、まだ分からないこと、たくさんある」
「うん」
「でも、理恵があの人たちを大事にしてることは、分かった」
私は鞄の紐を指で撫でた。
「大事な、友達なの」
美羽は頷いた。
「そうなんだね」
それ以上、すぐに説明しなくてもよかった。
私は座席へ背中を預け、窓の外を見た。車が走り、道沿いの店には灯りがつき始めていた。夕方になっても、隠れる場所を探す人はいなかった。
今日のことを、帰ったらお母さんへ話そうと思った。
*
東京へ戻った日、お母さんは玄関まで出てきた。
「おかえり。疲れたでしょう」
私は靴を脱ぎかけたまま、お母さんを見た。
文子に言われたことを思い出した。
帰ったら、顔を見せてあげて。
「ただいま」
返事をすると、お母さんが鞄へ手を伸ばした。私は持ち手を渡す前に、その袖へ触れた。
「どうしたの?」
「会ってきた」
お母さんは私の顔を見た。
「沖縄で、会いたかった人に」
どこから話せばいいのか、まだ分からなかった。それでも、今日は口を閉じたまま部屋へ行きたくなかった。
お母さんは私の鞄を受け取り、廊下の端へ置いた。
「座って、聞かせて」
私は頷いた。
*
食卓へ写真を置いた。
お母さんは手を拭いてから、端を持ち、二人の顔を見た。
「この方たち?」
「うん。会えたのは、こっちの文子」
私は指で示した。
「隣が、千代」
名前を言っても、お母さんには分からなかった。けれど、写真を置かずに聞いてくれていた。
私は、文子が語り部として来たことを話した。名前を聞いて分かったことも、私を見て驚いたことも。
途中で、どうして知っているのかを話さなければならなくなった。
私は両手を膝へ置いた。
「事故のあと、目を覚ますまでのことなんだけど」
お母さんが顔を上げた。
「私には、三か月じゃなかったの」
声にした途端、あの部屋の匂いが戻ってきた。おばちゃんに見せてもらった部屋。学校へ持っていくものを並べ、次の日を待って眠った場所だった。
お母さんは驚いた顔をしたが、すぐには何も言わなかった。
私は、話せるところから話した。
古い病院で目を覚ましたこと。帰る家が分からなかったこと。食堂のおばちゃんに引き取られ、学校へ通ったこと。
文子と千代に会ったこと。
全部を一度には話せなかった。何度も言葉を止め、水を飲み、写真へ目を落とした。
お母さんは、途中で席を立たなかった。
*
「おばちゃんに、助けてもらったんだね」
話が途切れたところで、お母さんが言った。
私は頷いた。
「うん。帰るところを、作ってくれた」
お母さんは写真を食卓へ戻した。
私の話をどう受け止めたのかは、分からなかった。信じてと言うことも、夢ではなかったと説明することも、今はできなかった。
けれど、お母さんは私の手へ触れた。
「今日は、ここまででもいいよ」
私はその手を見た。
「また、聞いてくれる?」
「聞くよ」
私は頷いた。
しばらくしてから、お墓へ行く約束をしたことも話した。文子が娘さんと東京へ来る予定で、一緒に、おばちゃんへ報告したいのだと。
「私も、行っていい?」
お母さんが尋ねた。
私は顔を上げた。
「いいの?」
「理恵がお世話になった人でしょう。お礼を言いたいから」
私は唇を結び、何度か頷いた。
食卓の上で、お母さんの指が私の指を包んだ。
*
文子の娘さんから連絡が来たのは、それからしばらく経ってからだった。
母の体調を確かめ、東京へ来る日にちを決めたことが書かれていた。無理のないよう、一晩泊まってからお墓へ向かう予定だという。
私はお母さんと予定を確認して、返事を書いた。
送る前に何度も読み直し、お母さんも一緒に行きたいと言っていることを付け加えた。
少しして、携帯が鳴った。
画面を開くと、短い返事が届いていた。
理恵のお母さんにも、お会いしたいです。
その下に、文子から伝えてほしいと言われた言葉があった。
あの帳面も、持っていくね。
私は画面を見つめた。
日記を最後に閉じたときの感触を思い出した。紙の端が揃わず、掌で押さえてから隠した。誰かに見られたらどうなるのか怖かったのに、書かずにはいられなかった。
それが、ここへ来る。
私は携帯を胸元へ寄せ、顔を上げた。
台所に、お母さんがいた。
「日にち、決まったよ」
呼ぶと、お母さんがこちらを向いた。
私は椅子を引き、携帯を持ってそばへ行った。




