第116話 帰ってきた帳面
約束の日、お母さんはいつもより早く支度を終えていた。
玄関には花を入れるための袋が置かれ、台所の隅には水の入った小さな容器があった。私は何度も携帯を確かめ、文子の娘さんから届いた待ち合わせの場所を見直した。
「時間は大丈夫?」
お母さんに聞かれ、頷いた。
まだ余裕があった。それでも落ち着かず、鞄の中を確かめた。千代と文子の写真は、薄いノートに挟んである。何も持っていく必要はないと言われていたけれど、置いていけなかった。
お母さんが棚からハンカチを取った。
私が刺繍したものだった。
「それ、持っていくの?」
「うん。ちゃんと使ってるよ」
小さな紫の花を見せるように広げてから、お母さんは折り直した。私はその手元を見て、鞄の紐を肩へ掛けた。
*
文子は待ち合わせの建物の中にいた。
椅子へ座り、両手を杖の持ち手へ重ねていた。娘さんがそばで荷物を整えているのが見え、私は歩く速さを上げた。
「文子」
呼ぶと、文子が顔を上げた。
目が合い、笑みが浮かんだ。その顔を見ただけで、沖縄で別れてから胸に残っていた不安が、少しずつほどけていった。
「理恵」
私はそばへ行き、差し出された手を取った。
「疲れなかった?」
「昨日は、ゆっくり休んだよ。今日は元気」
娘さんも頷いた。
「朝ご飯も食べました。あとは歩きすぎなければ」
「分かってるよ」
文子が答えると、私は少し笑った。
後ろへ顔を向け、お母さんを呼んだ。
「お母さん。文子だよ」
お母さんは文子の前へ進み、深く頭を下げた。
「理恵の母です。先日は、娘の話を聞いてくださって、ありがとうございました」
文子は私の手を握ったまま、お母さんを見つめていた。
すぐには返事をしなかった。目元から口元へ、ゆっくり視線を動かし、それから私へ顔を向けた。
「この方が、お母さんなんだね」
「うん」
文子はもう一度、お母さんを見た。
「お会いできて、嬉しいです」
その声が少し震えたので、私は手を握り直した。
「理恵が、ずっと会いたいと言っていた方だから」
お母さんが私へ目を向けた。
私は頷いた。病院でも話したことだった。けれど、文子の口から聞くと、あのころ何度も飲み込んだ言葉が、今ここまで届いたように感じた。
*
少し座ってから出ようと、娘さんが言ってくれた。
お母さんが隣の椅子へ腰を下ろすと、文子は私の手をそっと離した。
「理恵に、持ってきたものがあるの」
娘さんが鞄を膝へ載せた。
中から取り出したのは、布に包まれた平たい箱だった。持ち手のある袋から出すときも、机の上へ置くときも、娘さんは両手で支えていた。
私はその包みから目を離せなかった。
文子が、私の顔を見た。
「ここで、少し見ようか。お墓では、落ち着いて開けられないかもしれないから」
私は頷いた。
娘さんが布をほどいた。箱の蓋を持ち上げ、中に敷かれた紙を静かにめくると、薄い帳面が見えた。
表紙の色が、私の覚えているものより褪せていた。
角は丸くなり、背のところには擦れた跡があった。紙の端も均一な色ではなく、外側ほど濃くなっていた。
それでも、分かった。
「……これ」
私は机へ手を置いた。
文子が頷いた。
「理恵の帳面だよ」
*
すぐには触れられなかった。
自分が書いたものなのに、資料館の硝子の向こうにある遺品を見るときと同じように、手前で指が止まった。
おばちゃんが持っていた。
東京へ持っていった。
その言葉を聞いてはいたけれど、目の前にある表紙へ、自分の記憶を重ねるには時間がかかった。
「開いても、いい?」
尋ねると、文子は頷いた。
「ゆっくりね。紙が弱くなっているところがあるから」
私は手を膝へ戻し、掌が湿っていないか確かめた。それから表紙の端へ指を添え、無理に引かないように、少しずつ開いた。
最初のページに、私の字があった。
私は顔を近づけた。
見覚えのある、少し右へ傾いた字だった。急いで書いたところは間隔が詰まり、あとから思い出して足した言葉が、行の端へ小さく入っていた。
何を書いたのかより先に、その書き方を覚えていた。
あの部屋で膝を折り、音がすると顔を上げ、誰も来ないと分かってから、もう一度紙へ向かった。
私は指を止めたまま、息を吐いた。
「私の字だ」
お母さんが隣から覗いた。
しばらくページを見て、それから私の顔を見た。
「そうね」
小さな返事だった。
お母さんは、それ以上をすぐには言わなかった。
*
年月が並んでいた。
記憶に残っていた出来事と、そのころの日付。確かではないところには印をつけ、思い出せない月は空けたままにしてあった。
私はページを一枚だけめくった。
沖縄のことを書いたところが見えた。
動員、撤退、解散。
その字を目で追うと、膝の上へ荷物を置いていた友達の顔が浮かんだ。誰が何を持つかを話し、歩けるのかを確かめ、置いていく人のそばで言葉を探した。
私はそこで手を止めた。
先のページまで、今は見られなかった。
「閉じようか」
文子が言った。
私は少し迷い、頷いた。
表紙を戻すと、紙の重なる小さな音がした。私は両手を帳面のそばへ置いたまま、顔を上げられなかった。
「知っていたんだね」
お母さんの声がした。
私は頷いた。
「覚えていたことだけ」
声が掠れた。
「でも、書いても……」
その先を言えずにいると、文子が私の腕へ触れた。
「理恵は、これを毎日持って、何でも見ていたわけではなかったよね」
「うん」
「思い出したことを書いて、隠していた。私たちと一緒にいるときは、同じように驚いて、怖がっていた」
私は文子を見た。
文子は帳面へ目を落とした。
「今、この字だけを見ると、全部分かっていたように思えるかもしれない。でも、そんなことはなかった」
お母さんは黙って聞き、やがて私の背中へ手を置いた。
私はその温かさを感じながら、ゆっくり息を整えた。
*
「おばちゃん、何度も開いたの?」
私が尋ねると、文子は頷いた。
「開いていたよ。ただ、ここに書いてあることを確かめるためだけではなかったと思う」
文子は表紙の方へ指を寄せたが、触れずに止めた。
「理恵の字だからね」
私は目を閉じた。
おばちゃんがページを開き、あの字を見ていた。
私が何を知っていたのかではなく、私がそこへ座って書いたということを、確かめていたのかもしれない。
「ずっと、大事にしていた」
文子の声が続いた。
「年を取ってからも、しまう場所を決めていたよ。私が伺ったとき、まだ持っているんだよと言って、見せてくれたことがあった」
「文子が、預かったの?」
「うん。おばちゃんが亡くなったあと、残されたものを整理するときに、ご家族から託されたの」
私は文子を見つめた。
「私が理恵を知っているから。いつか、学校のことを伝えるときに役立つかもしれないからって」
娘さんが静かに頷いた。
「家でも、大切に保管していました。母が箱を開けるときは、いつもそばで手伝っていました」
私は二人へ頭を下げた。
ありがとうと言おうとして、声が出なかった。
文子は私の肩へ手を置き、顔を上げるまで待っていてくれた。
*
帳面を包み直すと、娘さんは箱を鞄へ戻した。
私はその手元を見ていた。今日まで、何度も同じように包み、持ち上げ、しまってくれた人がいたのだ。
私の知らないところで、私の書いたものを守ってくれた。
お母さんが鞄からハンカチを出し、私へ渡した。
「使って」
私は受け取り、目元へ当てた。
布の端に、紫の花があった。涙を拭いてから、その刺繍へ目を落とした。
「きれいだね」
文子が言った。
お母さんが少し笑った。
「理恵が作ってくれたんです」
文子は私を見た。
「今も、縫っているんだね」
「うん。お母さんに、あげたくて」
文子はハンカチを見つめ、目を細めた。
私は花の近くを指で押さえた。あのころ教えてもらった縫い方が、今はお母さんの持ち物になっていた。
「大切に使っています」
お母さんが言うと、文子は嬉しそうに頷いた。
*
車に乗ってから、文子は窓の外を見ていた。
娘さんが行き先を運転手へ伝え、私はお母さんと後ろの席へ座った。鞄の中の写真が折れないように、膝へ載せ直した。
文子の杖は、娘さんが支えていた。
信号で止まるたびに、隣の車や、横断歩道を渡る人が見えた。私はその景色を見ながら、おばちゃんも、こういう道を歩いたのだろうかと思った。
買い物へ行き、帰ってから食事を作った。
部屋のどこかには、あの帳面があった。
「おばちゃん、東京でも料理していた?」
私は尋ねた。
文子がこちらを向いた。
「していたよ。私が行くと、何か食べていきなさいと言った」
私は少し笑った。
「同じだ」
「そう。同じだった」
文子も笑った。
お母さんが、その会話を聞いていた。何かを思い出すように窓へ目を向けたが、車が動き出すと、膝の上の花の袋を持ち直した。
*
しばらく走ってから、車は大きな通りを外れた。
道が少し狭くなり、窓の向こうに坂が見えた。私は顔を上げ、前方を見た。
赤いポストがあった。
その先には低い石垣が続いていた。
私は窓へ少し身体を寄せた。見覚えがあったが、まだ、同じ場所だとは思わなかった。似た道なのかもしれない。
お母さんも外を見ていた。
「ここ……」
その声で、私は振り向いた。
お母さんは私ではなく、前の席の娘さんへ顔を向けていた。
「この先のお寺ですか」
「はい。もうすぐ着きます」
車が曲がった。
門のそばに、大きな木が見えた。枝の下には腰掛けがあり、その向こうに水場があった。
私は花の袋へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
お盆に、お母さんと来た場所だった。
帰りに腰を下ろしたところも、水を汲んだところも、覚えていた。花を持ったお母さんが指を切り、私が慌てて手を取った場所だった。
車が止まった。
私はまだ窓の外を見ていた。
「理恵?」
文子に呼ばれ、顔を向けた。
お母さんの手が、私の腕へ触れた。
私は二人を見てから、もう一度、門へ目を戻した。
「ここ、お母さんと来たよ」
声が小さくなった。
「お墓参りに……ここへ、来た」
文子は私の顔を見つめた。
何かを言おうとして唇を開き、それから、お母さんへ視線を移した。
お母さんも、文子を見ていた。
私は膝の上の鞄を抱き、門の向こうへ続く道を、もう一度確かめた。




