第117話 おばちゃんの名前
車を降りても、私は門の前からすぐには動けなかった。
大きな木の枝が道へ伸び、その下に腰掛けがあった。水場の脇には、使い終わった桶が伏せて置かれていた。お盆に来たときと、ほとんど同じ景色だった。
お母さんが花の袋を持ち直した。
「理恵、行こう」
私は頷いたが、先に歩き始めた文子と娘さんの背中を見ていた。
文子が杖をつき、門をくぐった。娘さんはその歩幅に合わせ、鞄を反対側へ持ち替えた。私とお母さんも、二人のあとへ続いた。
石の道へ入ると、足音が少し変わった。
前に来たとき、お母さんは右へ曲がった。
文子たちも、同じ方へ進んだ。
私はお母さんを見た。お母さんもこちらを見ていたが、何も言わなかった。そのまま道の先へ顔を向け、ゆっくり歩いた。
*
水場で、お母さんが桶を取った。
私は花を預かり、袋から出した。紙をほどくと、茎の湿った匂いがした。
「今日は、私がやるね」
言うと、お母さんは私の手元を見てから頷いた。
前にここで指を切ったことを、覚えているのだと思った。私は茎を強く握らないようにし、花が折れないように抱え直した。
文子は少し離れたところで待っていた。
娘さんが鞄を持ち、お母さんが桶を持った。私は花を抱え、四人でまた歩き始めた。
角に石灯籠があった。
その先は塀に近い道だった。お盆のとき、私はここで立ち止まり、ほかのお墓に供えられた花を見た。お母さんに呼ばれて顔を上げると、少し先で待っていた。
今、文子がそこで足を止めた。
私は花へ回していた腕に力を込めた。
*
「ここだよ」
文子が振り向いた。
私は、お墓を見た。
前にお母さんと来たお墓だった。
石の形も、花を入れるところも、両脇に植えられた低い木も覚えていた。お盆には、お母さんと並んでここへしゃがみ、手を合わせた。
文子の娘さんが、母親を支えて墓前へ入った。
お母さんは桶を下ろしたまま立っていた。
「こちらが……」
声が途中で止まった。
文子が、お母さんを見た。
「食堂をしていた方のお墓です。理恵を引き取って、一緒に暮らしていた」
私は二人の間に立ち、花を抱えていた。
知っている場所の話をしているのに、聞いたことのない言葉が重なっていく。お母さんと来たお墓。おばちゃんのお墓。その二つを、まだ同じものとして考えられなかった。
「私の祖母です」
お母さんが言った。
文子の杖を握る手が止まった。
「祖母が、沖縄で食堂をしていたことは聞いていました。でも、私は東京で暮らしていたころしか知らなくて……」
お母さんは私へ顔を向けた。
私はその目を見た。
前に、ひいおばあちゃんは沖縄の人だと教えてもらった。昔のことはあまり話さなかったのだとも。
あのとき私は、会ったことのない人の話として聞いていた。
*
私は花をお母さんへ渡した。
手から重みがなくなっても、腕はしばらく同じ形のままだった。文子が私へ近づこうとしたので、私は一歩、そばへ寄った。
「おばちゃんの……」
声が出なくなった。
私はお墓の横へ目を向けた。刻まれた名前を、前に来たときには、一つ一つ読まなかった。お母さんがお花を整えるのを手伝い、言われたところへ水をかけた。それで、ここに眠る人に挨拶をしたつもりでいた。
今は、字を追った。
寺田志穂。
その名前のところで、目が止まった。
「志穂さん」
文子が静かに呼んだ。
「おばちゃんのお名前だよ」
私は石に刻まれた字を見つめた。
寺田。
私と同じ名字だった。
病院で名前を聞かれたとき、寺田理恵と答えた。食堂へ引き取られてからも、私はその名前で呼ばれた。名字について話したこともあったはずなのに、ずっと、おばちゃんと呼んでいた。
あの人の名前を、今、初めてちゃんと知った。
「お母さん……」
振り向くと、お母さんが頷いた。
「私のおばあちゃん。理恵の、ひいおばあちゃんだよ」
私はもう一度、お墓を見た。
そのあとで、文子の顔を見た。
文子も目を濡らし、私を見つめていた。
「そうだったんだね」
文子が言った。
「理恵が会いたかったお母さんは……おばちゃんの、ご家族だったんだね」
*
膝から力が抜けた。
私は墓前へしゃがみ、片手を地面についた。お母さんが背中へ触れ、文子の娘さんが花を受け取ってくれた。
石の前には、何も書かれていない私の掌があった。
食堂で洗い物をした手。おばちゃんに教わりながら、鍋を持った手。あの家の戸を開け、ただいまと言った手だった。
その手で、お盆にも、ここへ水をかけた。
知らずに、帰ってきていた。
「おばちゃん……」
呼ぶと、涙が落ちた。
返事はなかった。
けれど、あの人がここに眠っていると、今は分かった。
「私、ここに来たんだよ」
言葉が震えた。
「お母さんと。ちゃんと来てたのに、分からなくて……」
お母さんの手が、背中をゆっくり撫でた。
私は顔を上げた。花の向こうに、石へ刻まれた名前が見えた。
志穂。
食堂で誰かに呼ばれて振り向く、あの人の顔を思い出した。私には、おばちゃんだった。お母さんには、おばあちゃんだった。
別々だと思っていた二人が、一人になった。
*
お母さんが隣へしゃがんだ。
「私が小さいころ、よくご飯を作ってくれたの」
私は顔を向けた。
「遊びに行くと、食べていきなさいって。お腹がすいていないと言っても、少しは食べなさいって言ってね」
私は泣きながら笑った。
「同じだ」
「うん」
お母さんも、目元を拭いた。
「理恵から食堂の話を聞いたとき、似ているとは思った。でも、まさか……」
お母さんは言葉を止め、墓石を見た。
「戦争のことは、あまり話してくれなかった。亡くなった人の話をしているのだと分かっても、私は、どんな人だったのか、ちゃんと聞かなかった」
私はお母さんの手へ触れた。
お母さんが握り返した。
あの人のそばで、お母さんも育った。
私が帰りたいと願っていた家へ、つながる年月を、おばちゃんが生きていた。
*
文子の娘さんが、持ってきた箱を取り出した。
乾いたところへ布を敷き、その上へ箱を置いた。蓋を開けると、帳面の表紙が見えた。
文子は墓前へ向き直った。
「志穂さん。今日は、理恵を連れてきました」
私は帳面を見ていた。
「会えたんですよ。あのころのままの理恵に」
文子の声が震えた。
「千代のことも話しました。直樹のことも、私のことも。志穂さんが、この帳面を大切にしていたことも」
風が花を揺らした。
娘さんが紙の端を押さえた。文子は一度目元を拭き、私の方へ顔を向けた。
「お母さんにも、ちゃんと会えていました」
私はお母さんの手を握った。
病院で目を覚ましたとき、この手が私を包んでくれた。
帰りたかった場所へ、私は帰れた。文子に会えた。千代が生き延びたことも知った。そして、おばちゃんがどこへ行ったのか、ようやく分かった。
遠くへ離れてしまった人だと思っていた。
けれど、私が知らなかっただけだった。
*
娘さんが帳面を箱へ戻し、紙を整えた。
お母さんが花を供え直した。私は水の入った器を置き、手についた雫をハンカチで拭いた。
紫の花の刺繍が見えた。
友達に教わったことが、お母さんの手元に残っていた。私の書いた字は、おばちゃんのそばに残っていた。
私はハンカチを膝へ置き、墓石へ向き直った。
何から言えばいいのか、少し迷った。
謝りたいことも、話したいこともあった。食堂へ帰れなかったこと。文子に会ったこと。千代の写真を持っていること。
けれど、最初に伝えたいことは、ずっと前から決まっていた。
「私、あの家で暮らせて、よかった」
声にすると、食堂の匂いを思い出した。
火のそばの暑さ。洗った皿を重ねる音。奥の部屋へ入るときに、おばちゃんへ声をかけたこと。
「行くところがなかった私に、部屋をくれて。学校にも行かせてくれて」
私は涙を拭いた。
「帰る場所を、作ってくれて」
隣で、お母さんが黙って聞いていた。文子も、少し後ろで私を見ていた。
私は両手を合わせた。
あの部屋で、私は何度も眠った。朝になると呼ばれ、起きて、食堂を手伝った。何も知らない私を、あの人は家へ入れてくれた。
今、その家から続いた手が、私の背中にあった。
「おばちゃん」
呼ぶと、また涙が出た。
私は石に刻まれた名前を見つめ、ゆっくりと言い直した。
「……私の、ひいおばあちゃん」
お母さんの手が、背中へそっと重なった。
「ありがとう」
一旦ストーリーは終了です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この後、多少ながら番外編書きます。




