番外編 三か月と四年のあいだ
美羽が持ってきたお菓子の箱には、一つずつ違う形の焼き菓子が並んでいた。
娘さんが包みを開け、文子の前へ小さな皿を置いた。文子は箱を覗き込み、丸いものと細長いものをしばらく見比べていたが、決められないらしく私へ顔を向けた。
「理恵、どれがおいしい?」
「私も、まだ食べてないよ」
「じゃあ、一つずつ違うものを取ろう」
その言い方に、私は笑ってしまった。
「千代も、そう言ってた」
「そうだったね。人が取った方を、あとから欲しくなるんだよ」
文子が丸い菓子を選ぶと、美羽は細長いものを取った。私はその隣にあった四角いものを皿へ載せた。
「交換する?」
美羽が尋ねた。
「半分ずつにしようか」
私が言うと、文子はもう菓子を割ろうとしていた。少し硬かったらしく、娘さんが手を差し出したが、文子は首を振った。
「大丈夫。これくらいは」
割れた菓子の欠片が皿へ落ちた。
私は指先で拾い、口へ入れた。甘い味が舌へ広がり、そのあとに、焼いた生地の香りが残った。
向かいに座っていた美羽が、その様子を見ていた。
「理恵、最近、食べ物を残さなくなったよね」
私は皿へ目を落とした。
「前は?」
「嫌いなもの、分かりやすかった。お弁当の端っこへ寄せてたし」
「そうだったね」
覚えていた。
食べたくないものを避け、帰ってからお母さんに注意されると、食べられないものは仕方ないと言い返したこともあった。
私は、皿に残った小さな欠片を指で寄せた。
「今も、嫌いなものはあるよ」
「でも、食べるんだ」
「……あるから」
美羽はすぐには返事をしなかった。
私は顔を上げた。
「ごめん。変な答えになった」
「ううん」
美羽は自分の皿を見て、落ちていた欠片を拾った。
「もう少し、聞いてもいい?」
*
お母さんは、居間の端に座っていた。
文子の娘さんも、湯飲みを両手で包んだまま、こちらを見ていた。誰かが何かを聞こうとしても、先に答えを決めている人はいなかった。
私は膝の上へ手を置いた。
「何が知りたい?」
美羽は考えてから言った。
「毎日、何をしてたのかなって」
「戦争のとき?」
「その前も。理恵が四年暮らしてたって、まだ、うまく想像できなくて」
四年という言葉を、美羽は慎重に口にした。
私は文子を見た。文子は頷き、椅子の背へ少し身体を預けた。
「朝は、食堂を手伝ってた。おばちゃんが先に起きて、支度を始めるから」
「理恵が、朝?」
美羽の声が少し高くなった。
「そんなに驚かなくても」
「だって、学校の日でも、お母さんに三回くらい起こされてたでしょう」
「初めから起きられたわけじゃないよ」
お母さんが、小さく笑った。
私はそちらを見てから、話を続けた。
「下で音がするの。戸を開けたり、鍋を動かしたり。初めのころは、それを聞きながら、もう少しだけ寝ようって思ってた。でも、起きて下りると、もうおばちゃんが何でもやってるから」
食堂の朝を思い出した。
まだ客のいない卓を拭き、椅子を整える。昨日洗った皿を棚へ戻す。おばちゃんが鍋を見ている間に、言われたものを取りに行く。
初めは、物の場所を何度も聞いた。
そのうち、おばちゃんが振り向く前に手渡せるものが増えていった。
「できることが増えると、嬉しかったんだよ。私がやった分、おばちゃんが少し座れるから」
美羽は、黙って聞いていた。
「帰ったら、また手伝って。宿題をして、分からなかったら次の日に文子へ聞いたり」
「私も分からないときは、三人で困っていたよ」
文子が言った。
「千代は、答えを聞くと、そこまでは分かっていたって言うんだよ」
「その、そこまでが、いつも長かった」
私と文子が笑うと、美羽も笑った。
娘さんは、文子の横顔を見ていた。笑い声が静まっても、その顔からしばらく目を離さなかった。
*
「私のこと、話したことある?」
美羽が尋ねた。
私は頷いた。
「あるよ」
美羽は少し驚いた顔をした。
「どんなこと?」
「現代の学校のことを話したとき。私にも、友達がいるって」
文子がこちらへ顔を向けた。
「美羽さんの名前、今日初めて聞いた気がしなかったのは、それだったかもしれないね」
「覚えてる?」
「はっきり全部は、思い出せない。でも、理恵が帰りたい場所の話は、何度も聞いたよ」
私は美羽を見た。
「一緒に帰ったこととか、試験の前にノートを見せてもらったこととか。話してると、思い出せたから」
「何を?」
「帰り道」
声に出してから、少し間を置いた。
「学校を出て、どこを曲がって、美羽とどこで別れるのか。初めは、すぐ浮かんだんだよ。道も、美羽の声も。でも、毎日歩くのは違う道だったから、だんだん、思い出すのに時間がかかるようになって」
美羽の指が、皿の縁で止まった。
「顔は、忘れてなかった?」
「忘れたくなかった」
すぐに、忘れていなかったとは言えなかった。
美羽の顔を思い浮かべても、目の前にいる千代の笑い声が聞こえた。お母さんの声を思い出そうとしていると、階下からおばちゃんに呼ばれた。
それが寂しいのか、安心するのか、自分でも分からなくなる日があった。
「病院で会ったとき、名前を呼んでくれたでしょう」
「うん」
「あのとき、美羽だって分かった。声を聞いたら、ちゃんと戻ってきた」
美羽は俯き、制服ではない、自分の服の袖を引いた。
「私、三か月、すごく長かったよ」
私は頷いた。
「毎日、今日こそ起きたかなって思ってた。お母さんに聞いても、まだだって。学校へ行ったら理恵の席が空いてて、帰るときも、一人だったから」
その三か月を、私は知らなかった。
私が食堂の戸を開け、文子と千代を待っていたころ、美羽は、私のいない帰り道を歩いていた。
「ごめん」
美羽は首を振った。
「謝ってほしくて言ったんじゃないよ」
私は口を閉じた。
美羽は少し考えてから、顔を上げた。
「そっちにも、理恵を待ってる人がいたんだね」
文子が、私の隣で頷いた。
「いたよ。学校へ来るのが遅いと、千代が何度も入口を見ていた」
「文子も見てたでしょう」
「私も、見ていた」
美羽は、その返事を聞いて、小さく笑った。
*
窓の外から、車の音が近づいてきた。
湯飲みへ伸ばしかけた手を引き、私は膝の上へ戻した。背中が椅子から離れ、身体が少し前へ傾いた。
音はそのまま通り過ぎた。
誰も私へ触れなかった。美羽は窓を見てから、こちらを向いた。
「今の、怖かった?」
私は頷いた。
「少し」
お母さんが立ちかけたが、私の返事を聞いて、もう一度座った。
文子は湯飲みを持っていなかった。皿の脇へ置いた手の指を、ゆっくり開いていた。
美羽はその手元にも目を向けた。
「文子さんも?」
「音によっては、今もね」
文子は答えた。
「ここに座っているのは分かっている。でも、身体の方が先に動くことがあるんだよ」
私は息を吐いた。
娘さんが窓を閉めると、外の音が少し遠くなった。
「ずっと、怖かったの?」
美羽が私へ尋ねた。
「空襲が始まってからは、増えた」
私は湯飲みを持ち直した。お茶は、もう飲める温かさになっていた。
「でも、音がしないときも怖かった。次にどこへ行くのか、誰が戻ってこないのか。名前を呼ばれても、自分じゃないふりをしたくなることがあった」
「仕事を、頼まれるから?」
「うん」
外へ出る仕事もあった。壕の中に残れば安全というわけでもなかった。
呼ばれている人が友達なら、私ではなくてよかったと思ったあとで、その友達の顔を見られなくなった。
「代わってあげたいと思うのに、怖くて言えないこともあったよ」
文子が言った。
私は頷いた。
「帰ってきたら、ほっとして。それなのに、次の当番になったら、また同じことを考えた」
美羽は、自分の手を見ていた。
「私だったら、行けないかもしれない」
「私も、そう思ってた」
私が答えると、美羽は顔を上げた。
「でも、理恵は行ったんでしょう」
「行けるから行ったんじゃないよ」
私はそこで、文子を見た。
文子は目を伏せ、ゆっくり頷いた。
「呼ばれて、立って、荷物を持って。行かないって言葉を、どこで出せばいいのか分からないまま、外へ出ていたこともあった」
美羽は何も言わなかった。
私も、すぐには続きを話せなかった。
*
しばらくして、美羽が尋ねた。
「春子さんって、どんな子だった?」
私は湯飲みを置いた。
その名前を、美羽の声で聞くのは初めてだった。
「資料館で、理恵が見てた鞄の……」
「うん」
「もし、話せるなら」
私は文子と顔を見合わせた。
炊飯場のことより先に、教室の春子を思い出そうとした。腰へ手を当てて怒っていた顔。こちらの言い分を聞き終える前に、次の言葉を用意している口元。
「私、初めは喧嘩したんだよ」
美羽が目を丸くした。
「理恵が?」
「うん。言い返した」
文子が少し笑った。
「二人とも、なかなかやめなかったね」
「文子は止めてくれなかった」
「どこで入ればいいのか、分からなかったんだよ」
美羽が私を見た。
「何て言ったの?」
私は、あの教室の机を思い浮かべた。
春子の死に方を説明する前に、春子の声を、美羽に聞いてもらいたかった。
娘さんは急須を置き、両手を膝へ戻した。お母さんも、席を立たずに待っていた。
「春子ってね、言い方が、すごくはっきりしてたの」
私は話し始めた。
美羽は途中で一度笑い、それから、もっと聞きたいというように身を乗り出した。
文子が私の覚えていなかったことを足すと、教室の中にいた春子が、少しずつ戻ってきた。




