↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

118/124

番外編 三か月と四年のあいだ



 美羽が持ってきたお菓子の箱には、一つずつ違う形の焼き菓子が並んでいた。


 娘さんが包みを開け、文子の前へ小さな皿を置いた。文子は箱を覗き込み、丸いものと細長いものをしばらく見比べていたが、決められないらしく私へ顔を向けた。


「理恵、どれがおいしい?」


「私も、まだ食べてないよ」


「じゃあ、一つずつ違うものを取ろう」


 その言い方に、私は笑ってしまった。


「千代も、そう言ってた」


「そうだったね。人が取った方を、あとから欲しくなるんだよ」


 文子が丸い菓子を選ぶと、美羽は細長いものを取った。私はその隣にあった四角いものを皿へ載せた。


「交換する?」


 美羽が尋ねた。


「半分ずつにしようか」


 私が言うと、文子はもう菓子を割ろうとしていた。少し硬かったらしく、娘さんが手を差し出したが、文子は首を振った。


「大丈夫。これくらいは」


 割れた菓子の欠片が皿へ落ちた。


 私は指先で拾い、口へ入れた。甘い味が舌へ広がり、そのあとに、焼いた生地の香りが残った。


 向かいに座っていた美羽が、その様子を見ていた。


「理恵、最近、食べ物を残さなくなったよね」


 私は皿へ目を落とした。


「前は?」


「嫌いなもの、分かりやすかった。お弁当の端っこへ寄せてたし」


「そうだったね」


 覚えていた。


 食べたくないものを避け、帰ってからお母さんに注意されると、食べられないものは仕方ないと言い返したこともあった。


 私は、皿に残った小さな欠片を指で寄せた。


「今も、嫌いなものはあるよ」


「でも、食べるんだ」


「……あるから」


 美羽はすぐには返事をしなかった。


 私は顔を上げた。


「ごめん。変な答えになった」


「ううん」


 美羽は自分の皿を見て、落ちていた欠片を拾った。


「もう少し、聞いてもいい?」


     *


 お母さんは、居間の端に座っていた。


 文子の娘さんも、湯飲みを両手で包んだまま、こちらを見ていた。誰かが何かを聞こうとしても、先に答えを決めている人はいなかった。


 私は膝の上へ手を置いた。


「何が知りたい?」


 美羽は考えてから言った。


「毎日、何をしてたのかなって」


「戦争のとき?」


「その前も。理恵が四年暮らしてたって、まだ、うまく想像できなくて」


 四年という言葉を、美羽は慎重に口にした。


 私は文子を見た。文子は頷き、椅子の背へ少し身体を預けた。


「朝は、食堂を手伝ってた。おばちゃんが先に起きて、支度を始めるから」


「理恵が、朝?」


 美羽の声が少し高くなった。


「そんなに驚かなくても」


「だって、学校の日でも、お母さんに三回くらい起こされてたでしょう」


「初めから起きられたわけじゃないよ」


 お母さんが、小さく笑った。


 私はそちらを見てから、話を続けた。


「下で音がするの。戸を開けたり、鍋を動かしたり。初めのころは、それを聞きながら、もう少しだけ寝ようって思ってた。でも、起きて下りると、もうおばちゃんが何でもやってるから」


 食堂の朝を思い出した。


 まだ客のいない卓を拭き、椅子を整える。昨日洗った皿を棚へ戻す。おばちゃんが鍋を見ている間に、言われたものを取りに行く。


 初めは、物の場所を何度も聞いた。


 そのうち、おばちゃんが振り向く前に手渡せるものが増えていった。


「できることが増えると、嬉しかったんだよ。私がやった分、おばちゃんが少し座れるから」


 美羽は、黙って聞いていた。


「帰ったら、また手伝って。宿題をして、分からなかったら次の日に文子へ聞いたり」


「私も分からないときは、三人で困っていたよ」


 文子が言った。


「千代は、答えを聞くと、そこまでは分かっていたって言うんだよ」


「その、そこまでが、いつも長かった」


 私と文子が笑うと、美羽も笑った。


 娘さんは、文子の横顔を見ていた。笑い声が静まっても、その顔からしばらく目を離さなかった。


     *


「私のこと、話したことある?」


 美羽が尋ねた。


 私は頷いた。


「あるよ」


 美羽は少し驚いた顔をした。


「どんなこと?」


「現代の学校のことを話したとき。私にも、友達がいるって」


 文子がこちらへ顔を向けた。


「美羽さんの名前、今日初めて聞いた気がしなかったのは、それだったかもしれないね」


「覚えてる?」


「はっきり全部は、思い出せない。でも、理恵が帰りたい場所の話は、何度も聞いたよ」


 私は美羽を見た。


「一緒に帰ったこととか、試験の前にノートを見せてもらったこととか。話してると、思い出せたから」


「何を?」


「帰り道」


 声に出してから、少し間を置いた。


「学校を出て、どこを曲がって、美羽とどこで別れるのか。初めは、すぐ浮かんだんだよ。道も、美羽の声も。でも、毎日歩くのは違う道だったから、だんだん、思い出すのに時間がかかるようになって」


 美羽の指が、皿の縁で止まった。


「顔は、忘れてなかった?」


「忘れたくなかった」


 すぐに、忘れていなかったとは言えなかった。


 美羽の顔を思い浮かべても、目の前にいる千代の笑い声が聞こえた。お母さんの声を思い出そうとしていると、階下からおばちゃんに呼ばれた。


 それが寂しいのか、安心するのか、自分でも分からなくなる日があった。


「病院で会ったとき、名前を呼んでくれたでしょう」


「うん」


「あのとき、美羽だって分かった。声を聞いたら、ちゃんと戻ってきた」


 美羽は俯き、制服ではない、自分の服の袖を引いた。


「私、三か月、すごく長かったよ」


 私は頷いた。


「毎日、今日こそ起きたかなって思ってた。お母さんに聞いても、まだだって。学校へ行ったら理恵の席が空いてて、帰るときも、一人だったから」


 その三か月を、私は知らなかった。


 私が食堂の戸を開け、文子と千代を待っていたころ、美羽は、私のいない帰り道を歩いていた。


「ごめん」


 美羽は首を振った。


「謝ってほしくて言ったんじゃないよ」


 私は口を閉じた。


 美羽は少し考えてから、顔を上げた。


「そっちにも、理恵を待ってる人がいたんだね」


 文子が、私の隣で頷いた。


「いたよ。学校へ来るのが遅いと、千代が何度も入口を見ていた」


「文子も見てたでしょう」


「私も、見ていた」


 美羽は、その返事を聞いて、小さく笑った。


     *


 窓の外から、車の音が近づいてきた。


 湯飲みへ伸ばしかけた手を引き、私は膝の上へ戻した。背中が椅子から離れ、身体が少し前へ傾いた。


 音はそのまま通り過ぎた。


 誰も私へ触れなかった。美羽は窓を見てから、こちらを向いた。


「今の、怖かった?」


 私は頷いた。


「少し」


 お母さんが立ちかけたが、私の返事を聞いて、もう一度座った。


 文子は湯飲みを持っていなかった。皿の脇へ置いた手の指を、ゆっくり開いていた。


 美羽はその手元にも目を向けた。


「文子さんも?」


「音によっては、今もね」


 文子は答えた。


「ここに座っているのは分かっている。でも、身体の方が先に動くことがあるんだよ」


 私は息を吐いた。


 娘さんが窓を閉めると、外の音が少し遠くなった。


「ずっと、怖かったの?」


 美羽が私へ尋ねた。


「空襲が始まってからは、増えた」


 私は湯飲みを持ち直した。お茶は、もう飲める温かさになっていた。


「でも、音がしないときも怖かった。次にどこへ行くのか、誰が戻ってこないのか。名前を呼ばれても、自分じゃないふりをしたくなることがあった」


「仕事を、頼まれるから?」


「うん」


 外へ出る仕事もあった。壕の中に残れば安全というわけでもなかった。


 呼ばれている人が友達なら、私ではなくてよかったと思ったあとで、その友達の顔を見られなくなった。


「代わってあげたいと思うのに、怖くて言えないこともあったよ」


 文子が言った。


 私は頷いた。


「帰ってきたら、ほっとして。それなのに、次の当番になったら、また同じことを考えた」


 美羽は、自分の手を見ていた。


「私だったら、行けないかもしれない」


「私も、そう思ってた」


 私が答えると、美羽は顔を上げた。


「でも、理恵は行ったんでしょう」


「行けるから行ったんじゃないよ」


 私はそこで、文子を見た。


 文子は目を伏せ、ゆっくり頷いた。


「呼ばれて、立って、荷物を持って。行かないって言葉を、どこで出せばいいのか分からないまま、外へ出ていたこともあった」


 美羽は何も言わなかった。


 私も、すぐには続きを話せなかった。


     *


 しばらくして、美羽が尋ねた。


「春子さんって、どんな子だった?」


 私は湯飲みを置いた。


 その名前を、美羽の声で聞くのは初めてだった。


「資料館で、理恵が見てた鞄の……」


「うん」


「もし、話せるなら」


 私は文子と顔を見合わせた。


 炊飯場のことより先に、教室の春子を思い出そうとした。腰へ手を当てて怒っていた顔。こちらの言い分を聞き終える前に、次の言葉を用意している口元。


「私、初めは喧嘩したんだよ」


 美羽が目を丸くした。


「理恵が?」


「うん。言い返した」


 文子が少し笑った。


「二人とも、なかなかやめなかったね」


「文子は止めてくれなかった」


「どこで入ればいいのか、分からなかったんだよ」


 美羽が私を見た。


「何て言ったの?」


 私は、あの教室の机を思い浮かべた。


 春子の死に方を説明する前に、春子の声を、美羽に聞いてもらいたかった。


 娘さんは急須を置き、両手を膝へ戻した。お母さんも、席を立たずに待っていた。


「春子ってね、言い方が、すごくはっきりしてたの」


 私は話し始めた。


 美羽は途中で一度笑い、それから、もっと聞きたいというように身を乗り出した。


 文子が私の覚えていなかったことを足すと、教室の中にいた春子が、少しずつ戻ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。