番外編 針を貸す約束
春子との喧嘩の理由を話しているうちに、文子が首を傾げた。
「その前に、春子が何か言ったでしょう」
「言った。私が黙ってるから、何を考えてるか分からないって」
「理恵も、言い返したね」
「黙ってたら悪いのって」
美羽が口元を押さえた。
「言いそう」
「そんなに?」
「うん。怒ってるとき、声が小さくなるのに、言葉だけは強いから」
私は文子を見た。文子も頷いていた。
「春子は逆だったね。言いたいことがあると、すぐ分かる」
「顔にも出てた」
「でも、いつまでも怒っているわけじゃなかったよ。次の日には、普通に声をかけていた」
そうだった。
こちらは、まだ何と言えばいいのか考えているのに、春子は昨日と同じように机の横へ来た。先生が来る前にこれを回してと言われ、私は渡されたものを受け取った。
それで終わってしまった喧嘩もあった。
「仲直りしようって、言わなかったの?」
美羽が尋ねた。
「言わないまま、一緒にいるようになった」
私が答えると、文子が笑った。
「春子にしたら、もう済んだことだったんだろうね」
娘さんも、静かに笑っていた。
私は、春子が教室へ入ってくるところを思い出した。鞄を置き、座るより先に誰かへ話しかける。髪が少し乱れていると、隣の子に直してもらいながら、まだ話を続けていた。
美羽が、その様子を聞いて笑った。
春子を知らない人が、春子のことで笑っていた。
私は嬉しくなり、もう一つ話そうとした。
*
「縫い物もね、やるつもりではいるんだけど、あとにすることがあって」
私は自分の膝へ指を置いた。
「もんぺが破れたとき、私に針を貸してって言ったの」
口にしてから、手が止まった。
文子がこちらを見た。
私は、その視線に気づいていたが、顔を向けられなかった。
春子の袖に引かれた感触が戻ってきた。
患者さんの枕元へ器を置こうとしていた。腰の紐の下で、縫い目が少し開いていた。昨日、薪を持ったときに引っかけたのだと言っていた。
私は荷物にあると答えた。
春子は、じゃあ、あとで、と言った。
湯飲みの縁へ、指が触れた。強く押さえすぎていることに気づき、手を離した。
「理恵?」
美羽が呼んだ。
「……その日だった」
声がうまく出なかった。
美羽は、何の日かを聞かなかった。
文子の顔を見てから、私へ視線を戻した。
*
私は、春子が清美の待つ入口へ歩いていったことを話した。
振り向いて見送ったわけではなかった。私の前には、身体を起こしてほしいと言っている患者さんがいた。背中へ手を入れ、どこを支えれば痛くないのか尋ねている間に、春子たちの足音は聞こえなくなった。
「いつもと、同じだったの」
美羽へ話しているのに、私は卓の上を見ていた。
「戻ったら縫うんだと思ってた。私も、あとで針を出せばいいと思って」
お母さんが、膝の上で両手を重ね直した。
文子は何も言わなかった。
「炊飯のところに砲弾が落ちたって聞いて、担架を持って行った。清美が座ってて、春子は少し離れたところに倒れてた」
そこから先を話そうとすると、傷を押さえた布が浮かんだ。
春子の目が動いた。
私を見たのかどうか、分からなかった。それでも、私だと分かってほしかった。
「名前を呼んだんだよ」
私は息を吸った。
「理恵だよって。そばにいるからって」
美羽の目に涙が溜まっていた。
私は、それを見て言葉を止めた。
「ごめん」
「謝らないで」
美羽はすぐに言った。
けれど、その先は続かなかった。口元へ手を当て、私が続きを話すのを待っていた。
*
「私は、壕の入口で春子を見た」
文子が言った。
私は顔を向けた。
「理恵が担架を持って戻ってきたでしょう。私は、近づこうとして、先生に通路を空けるように言われた」
覚えていた。
文子が春子の名前を呼んだ。
担架を下ろす場所を探している私の後ろで、人が足を引き、器が片づけられた。
「少しでも早く、奥へ入れたかったんだね」
文子は卓の上へ手を置いた。
「私は春子の顔ばかり見ていた。理恵は、下ろすところを見ていた」
「落としたら、痛いと思って」
「うん」
それ以外のことを、考えられなかった。
早く運びたかったのに、急げば担架が揺れた。道の石を避けても、跨いでも、春子の身体を動かしてしまった。呻き声が聞こえるたびに、自分の歩き方が悪いのだと思った。
「運ぶのも、うまくできなかった」
私が言うと、文子は少し黙った。
「痛かったと思うよ。春子は」
私は頷いた。
「でも、あの道を、揺らさずに運べる人がいたかな」
文子は私を見た。
「理恵が早く戻そうとしていたのは、見ていたよ」
私は返事をしようとしたが、喉が詰まった。
文子の娘さんが箱からティッシュを抜き、私の手の届くところへ置いた。渡されるより先に、私は一枚取っていた。
*
美羽が涙を拭いたあとで、皿を少し脇へ寄せた。
「春子さん、戻ってから、話せた?」
「少し、声は出た。でも、何を言ったのか分からないときもあった」
私は指先を見た。
「聞き返したら、もう一度言ってくれると思って、顔を近づけたんだけど」
美羽は頷いた。
「分からないままのことが、あるんだね」
「うん」
私はティッシュを畳んだ。
血を止めるために何をしたのかは覚えていた。どこへ布を当てたのか、誰に呼ばれたのかも。
けれど、春子が何を伝えたかったのかは、今でも分からなかった。
「針を貸す約束は、覚えてる」
私は言った。
「最後に、ちゃんと分かった言葉だったから」
文子が目を閉じた。
娘さんは母親の肩へ手を添え、そのまま黙っていた。
私は、春子が縫い目を指していた手を思い出した。広がる前に直しておこうと思っていた。明日も穿くものだった。
「生きて帰って、縫うつもりだったんだよ」
言い終えると、涙が落ちた。
美羽は椅子を寄せたが、私へすぐには触れなかった。
「手、握ってもいい?」
私は頷き、卓の下から右手を出した。
*
しばらく、誰も話さなかった。
お母さんが冷めたお茶を替えようと立った。娘さんも手伝おうとしたが、お母さんは小さく首を振り、そのまま台所へ行った。
湯を注ぐ音が聞こえた。
私は美羽の手を握ったまま、呼吸が落ち着くのを待った。
「私、資料館で見たとき」
美羽が、ゆっくり言った。
「あの服が、誰かの持ち物だったっていうのは、分かったつもりでいた」
私は顔を上げた。
「でも、その日の朝にも着てて、破れたところを直そうとしてたって、そこまでは考えなかった」
美羽の目が、私の袖へ落ちた。
「今、理恵が着てる服みたいに、普通に着てたんだよね」
「うん」
私は頷いた。
ガラスの向こうにあった服には、血の色が残っていた。
それより前には、袖へ手を通し、紐を結ぶ朝があった。洗って干し、乾いたかどうか確かめた日もあった。
「春子、自分の名前を縫いつけてた」
「鞄にも、あったね」
「うん。あの字を見たら、分かった」
美羽は、私の手を握り直した。
「覚えておく」
私はその顔を見た。
「針を借りようとしてたことも。理恵と喧嘩したことも」
文子が、美羽へ顔を向けた。
「ありがとう」
美羽は少し慌てたように首を振った。
「私、ちゃんと聞けてるか、分からないです」
「聞いてくれているよ」
文子は答えた。
「春子のこと、名前だけで終わらせずに」
*
お母さんが、新しいお茶を置いた。
文子は湯飲みを両手で持ち、一口飲んでから、娘さんへ顔を向けた。
「春子はね、じっとしているのが苦手だったんだよ」
娘さんが、少し微笑んだ。
「そうだったの」
「人に待たされると、迎えに来る。まだなのって」
「自分も、よく待たせたのに」
私が言うと、文子は笑った。
「そう。支度ができたと思ったら、何か忘れて戻るんだよ」
美羽が目元を拭きながら笑った。
その笑い声を聞いて、私は肩の力が少し抜けるのを感じた。
春子の話をすると、どうしても最後の日へ辿り着いてしまう。けれど、その日までに、話せることはまだあった。
「春子、私の縫い方を見て、もっと細かく縫えばいいのにって言ったことがある」
「自分は、なかなか始めないのにね」
文子が言った。
私は頷いた。
「だから、今度は自分でやってって、言うつもりだった」
美羽が私を見た。
「針を貸すときに?」
「うん」
今度は、最後まで言えた。
美羽は握っていた手を少し緩め、私が湯飲みを持てるようにしてくれた。
「その前にも、縫い物で何かあったの?」
私は文子を見た。
文子は考えるように目を上げ、それから、あったね、と笑った。
お茶を一口飲み、私は春子がまだ元気だった日の続きを話した。




