番外編 話さなかった時間
先生が来たとき、お母さんは玄関へ迎えに出た。
廊下から挨拶が聞こえ、そのあとに、靴を揃える小さな音がした。私は文子の隣で座り直し、卓の端に置いていた菓子の箱を少し奥へ寄せた。
「お邪魔します」
居間へ入った先生は、まず文子へ頭を下げた。
「またお会いできて、嬉しいです。今日は、お招きいただいてありがとうございます」
「こちらこそ。理恵がお世話になっています」
文子が答えると、先生は私を見て微笑んだ。
「今日は学校の話をしに来たわけではないから、そんなに背筋を伸ばさなくても大丈夫だよ」
美羽が隣で小さく笑った。
私は肩を下げ、先生の座る場所へ湯飲みを寄せた。お母さんが椅子を出すと、先生は鞄を足元へ置き、文子の娘さんとも挨拶を交わした。
人が一人増えるだけで、卓の周りは少し狭くなった。
けれど、誰かが立ち去らなければならないほどではなかった。椅子を寄せ、お菓子の皿を動かせば、みんなで座れた。
先生は卓の上を見てから尋ねた。
「何のお話をしていたんですか」
「春子のこと」
私は答えた。
「学校で、私と喧嘩したこととか。縫い物のこととか」
先生は頷いた。
「資料館で、理恵さんが見ていた方ですね」
「うん」
先生の前に置かれた湯飲みから、細い湯気が上がっていた。
私はそれを見ながら、さっきまで話していたことを、どこから伝えればいいのか考えた。
*
「母が、こんなふうに学校の話をするのを、あまり聞いたことがなかったんです」
文子の娘さんが言った。
先生は娘さんへ顔を向けた。
「お友達のお話も?」
「名前は知っていました。千代さんには、私も会っています。でも、春子さんのことは……亡くなったお友達だと、それくらいしか」
娘さんは文子を見た。
「どんな声で話す人だったのか、何をすると笑ったのか。今日、初めて聞いたことがたくさんありました」
文子は湯飲みへ目を落とした。
「話そうとすると、そのあとのことも出てくるからね」
娘さんは、すぐには頷かなかった。
母親の言葉を確かめるように、少し待ってから、そうだったの、と答えた。
「春子が笑っているところを思い出しても、最後に見た顔へ戻ってしまうんだよ。そこまで話せる気がしないと、初めから話さないこともあった」
私は文子を見た。
さっき、私にも同じことが起きた。
縫い物の話をしていたはずなのに、気づけば、担架の持ち手を握った指を思い出していた。
「でも、今日は理恵が、私の覚えていなかったことを言ってくれる」
文子が続けた。
「そうすると、その前のことも思い出せるんだよ。春子がまだ教室にいて、次の日も会うつもりでいたころを」
先生は、膝の上で両手を重ねていた。
鞄から何かを出そうとはしなかった。
「続きを聞かせていただいても、いいですか」
尋ねられ、文子は私を見た。
私は頷いた。
*
私は、食堂で縫い物をした日のことを話した。
学校から帰って、持っていた布を卓へ広げた。おばちゃんに教わったとおりに縫おうとしていたが、糸が何度も絡まった。引っ張れば何とかなると思い、余計に結び目を固くしてしまった。
「そこで春子が、そんなに引っ張るからだって言ったの」
先生の口元が少し緩んだ。
「見ていて、気になったんですね」
「うん。じゃあやってみてって渡したら、春子も解けなくなって」
文子が笑った。
「それを、千代に見つかったんだね」
「二人とも何してるのって」
「千代も、解こうとしたんだよ。結局、おばちゃんに持っていった」
お母さんが、私の手元を見た。
「それで、教えてもらったの?」
「うん。引っ張る前に、どこで絡んでるか見なさいって」
今なら、少しはできた。
当時の私には、早く先へ進みたいという気持ちの方が強かった。縫い終わらなければ片づけられない。みんなも待っている。そう思うほど、指へ力が入った。
「おばちゃん、怒った?」
美羽が尋ねた。
「呆れてた。でも、ほどいてくれた」
「そのあと、お茶を出してくれたね」
文子が言った。
私は顔を向けた。
「そうだった?」
「四人で座ったでしょう。春子が、もう少しやってから帰るって言った」
そこまでは、覚えていなかった。
私は目を伏せ、食堂の卓を思い浮かべた。布があり、糸があり、文子が隣に座っていた。千代は、手を伸ばすときに卓の上のものを動かして、春子に注意されていた。
「……千代が、布を袖で引っかけた」
「そう。せっかく整えたのにって、春子が怒ったんだよ」
私と文子が顔を見合わせると、美羽が笑った。
先生も、少し笑っていた。
お母さんは湯飲みを置き、私たちの続きを待っていた。
*
「母が作ったハンカチ、私、今も持っています」
娘さんが言った。
文子がそちらを見た。
「ずいぶん前のものだよ」
「だから、しまってあるの。使うと傷みそうで」
娘さんは、私へ顔を向けた。
「理恵さんも、お母さんへ作ったんでしょう」
お母さんが頷き、脇に置いた鞄を開けた。
取り出したのは、紫の花を縫った白いハンカチだった。
先生が少し身を寄せた。
「きれいですね」
「私、最初は、どこで覚えたのか分からなかったんです」
お母さんは刺繍へ指を添えた。
「事故の前には、こんなことをしているのを見たことがなかったから」
私は、その指先を見た。
おばちゃんに教わり、文子たちと一緒に覚えた縫い方が、お母さんの手の中にあった。
「帰ってきてから、知らないことが増えた気がしました」
お母さんが静かに言った。
「理恵ができるようになっていたことも、怖がるようになったことも。私は三か月、病院で見ていたのに、その間のこの子のことを、何も知らなかったんですね」
先生はお母さんの言葉を聞き、私へ目を向けた。
私はハンカチを見たまま答えた。
「話せなかった」
「うん」
お母さんは、ハンカチを畳み直した。
「今、聞いてるよ」
*
先生が、少し間を置いて言った。
「私も、学校で見ている理恵さんのことだけで、考えていたと思います」
私は顔を上げた。
「映画の感想を読んだときも、何に怒っているのか知りたいと思いました。でも、知りたいと思うことと、話せるようになるまで待つことは、同じではなかったんですね」
「先生、待ってくれたよ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいけれど」
先生はそこで言葉を止めた。
文子が、静かに聞いていた。
「何を聞けば分かるのか、私には見えていませんでした。今日、こうしてお話を聞いても、まだ分からないことはたくさんあります」
美羽が頷いた。
「私も。理恵から聞いたら、分かると思ってたんですけど、聞いたら、もっと考えることが増えました」
「そうだね」
先生は答えた。
「今日、聞かせてもらえたことに感謝しています。これまで話せなかったことを、ここで話してくださっているんですから」
文子は、すぐには返事をしなかった。
卓の端に置いた手を少し動かし、それから先生を見た。
「話さなかったことが、全部同じ理由ではないんですよ」
先生は頷いた。
「怖くて言えなかったこともある。思い出したくなかったこともある。口にしてしまうと、その人のことが、それだけになりそうで、言わなかったことも」
私は膝の上で手を握った。
春子の最後だけを話せば、春子は、傷ついて亡くなった友達になる。
それも春子だった。けれど、私に言い返し、縫いかけの布へ手を伸ばした春子もいた。
「何から話せばいいのか、長い間、分からなかったんだよ」
文子が私を見た。
「理恵と会って、やっと、途中からでも話せると思った」
*
私は、文子の手のそばへ右手を置いた。
文子はその指へ触れ、少しだけ握ってくれた。
「まだ、話せないこともある?」
私が尋ねると、文子は頷いた。
「あるよ。覚えていても、言葉が出ないこともある」
「私も」
声にすると、少し楽になった。
再会できたからといって、何もかも話せるようになったわけではなかった。文子が覚えていることと、私が覚えていることも、全部同じではない。
先生は、私たちを交互に見た。
「今日、ここで聞いたことを、私からほかの方へ伝えることはしません。学校でどう話すかということも、今、決めなくて大丈夫です」
文子の娘さんが頭を下げた。
「ありがとうございます。母も、私も、少しずつ考えたいです」
お母さんは私を見た。
私も頷いた。
美羽が、卓の上に置いた私の手へ目を向けた。
「聞いてほしいとき、また呼んで」
「うん」
「うまく聞けないかもしれないけど」
「今日みたいで、いいよ」
美羽は少し笑った。
*
お母さんが、空になりかけた菓子の皿を見て立ち上がった。
「何か、少し食べますか。もう、お茶ばかりではお腹が空いたでしょう」
文子が、すぐに顔を上げた。
「理恵、手伝っておいで」
私は思わず笑った。
「おばちゃんみたい」
「言われなくても、行くところだったでしょう」
「うん」
私は椅子を引いた。
台所へ行くと、お母さんが小皿を重ねていた。私はそれを受け取り、人数を数えた。
六枚あった。
居間から、先生が文子へ尋ねる声が聞こえた。
「食堂には、よく行かれたんですか」
「行きましたよ。理恵がいるかどうか、戸のところから覗いて」
「お客さんの邪魔をしないように?」
「そのつもりでした。でも、おばちゃんには、すぐ分かったんでしょうね。理恵を呼んでくれました」
私は皿を持ったまま、振り向いた。
文子がこちらを見ていた。
「理恵、呼ばれてるよ」
美羽が言った。
私は皿を一枚ずつ卓へ置き、文子の隣へ戻った。
「今日は、ここにいるよ」
文子は私の顔を見て、頷いた。
先生も、美羽も、娘さんも待っていた。お母さんが料理を運んできたので、私たちは湯飲みを少しずつ脇へ寄せた。
食べながら、文子が食堂の話を続けた。
私は覚えているところで口を挟み、覚えていないところは、みんなと一緒に聞いた。




