↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

120/124

番外編 話さなかった時間



 先生が来たとき、お母さんは玄関へ迎えに出た。


 廊下から挨拶が聞こえ、そのあとに、靴を揃える小さな音がした。私は文子の隣で座り直し、卓の端に置いていた菓子の箱を少し奥へ寄せた。


「お邪魔します」


 居間へ入った先生は、まず文子へ頭を下げた。


「またお会いできて、嬉しいです。今日は、お招きいただいてありがとうございます」


「こちらこそ。理恵がお世話になっています」


 文子が答えると、先生は私を見て微笑んだ。


「今日は学校の話をしに来たわけではないから、そんなに背筋を伸ばさなくても大丈夫だよ」


 美羽が隣で小さく笑った。


 私は肩を下げ、先生の座る場所へ湯飲みを寄せた。お母さんが椅子を出すと、先生は鞄を足元へ置き、文子の娘さんとも挨拶を交わした。


 人が一人増えるだけで、卓の周りは少し狭くなった。


 けれど、誰かが立ち去らなければならないほどではなかった。椅子を寄せ、お菓子の皿を動かせば、みんなで座れた。


 先生は卓の上を見てから尋ねた。


「何のお話をしていたんですか」


「春子のこと」


 私は答えた。


「学校で、私と喧嘩したこととか。縫い物のこととか」


 先生は頷いた。


「資料館で、理恵さんが見ていた方ですね」


「うん」


 先生の前に置かれた湯飲みから、細い湯気が上がっていた。


 私はそれを見ながら、さっきまで話していたことを、どこから伝えればいいのか考えた。


     *


「母が、こんなふうに学校の話をするのを、あまり聞いたことがなかったんです」


 文子の娘さんが言った。


 先生は娘さんへ顔を向けた。


「お友達のお話も?」


「名前は知っていました。千代さんには、私も会っています。でも、春子さんのことは……亡くなったお友達だと、それくらいしか」


 娘さんは文子を見た。


「どんな声で話す人だったのか、何をすると笑ったのか。今日、初めて聞いたことがたくさんありました」


 文子は湯飲みへ目を落とした。


「話そうとすると、そのあとのことも出てくるからね」


 娘さんは、すぐには頷かなかった。


 母親の言葉を確かめるように、少し待ってから、そうだったの、と答えた。


「春子が笑っているところを思い出しても、最後に見た顔へ戻ってしまうんだよ。そこまで話せる気がしないと、初めから話さないこともあった」


 私は文子を見た。


 さっき、私にも同じことが起きた。


 縫い物の話をしていたはずなのに、気づけば、担架の持ち手を握った指を思い出していた。


「でも、今日は理恵が、私の覚えていなかったことを言ってくれる」


 文子が続けた。


「そうすると、その前のことも思い出せるんだよ。春子がまだ教室にいて、次の日も会うつもりでいたころを」


 先生は、膝の上で両手を重ねていた。


 鞄から何かを出そうとはしなかった。


「続きを聞かせていただいても、いいですか」


 尋ねられ、文子は私を見た。


 私は頷いた。


     *


 私は、食堂で縫い物をした日のことを話した。


 学校から帰って、持っていた布を卓へ広げた。おばちゃんに教わったとおりに縫おうとしていたが、糸が何度も絡まった。引っ張れば何とかなると思い、余計に結び目を固くしてしまった。


「そこで春子が、そんなに引っ張るからだって言ったの」


 先生の口元が少し緩んだ。


「見ていて、気になったんですね」


「うん。じゃあやってみてって渡したら、春子も解けなくなって」


 文子が笑った。


「それを、千代に見つかったんだね」


「二人とも何してるのって」


「千代も、解こうとしたんだよ。結局、おばちゃんに持っていった」


 お母さんが、私の手元を見た。


「それで、教えてもらったの?」


「うん。引っ張る前に、どこで絡んでるか見なさいって」


 今なら、少しはできた。


 当時の私には、早く先へ進みたいという気持ちの方が強かった。縫い終わらなければ片づけられない。みんなも待っている。そう思うほど、指へ力が入った。


「おばちゃん、怒った?」


 美羽が尋ねた。


「呆れてた。でも、ほどいてくれた」


「そのあと、お茶を出してくれたね」


 文子が言った。


 私は顔を向けた。


「そうだった?」


「四人で座ったでしょう。春子が、もう少しやってから帰るって言った」


 そこまでは、覚えていなかった。


 私は目を伏せ、食堂の卓を思い浮かべた。布があり、糸があり、文子が隣に座っていた。千代は、手を伸ばすときに卓の上のものを動かして、春子に注意されていた。


「……千代が、布を袖で引っかけた」


「そう。せっかく整えたのにって、春子が怒ったんだよ」


 私と文子が顔を見合わせると、美羽が笑った。


 先生も、少し笑っていた。


 お母さんは湯飲みを置き、私たちの続きを待っていた。


     *


「母が作ったハンカチ、私、今も持っています」


 娘さんが言った。


 文子がそちらを見た。


「ずいぶん前のものだよ」


「だから、しまってあるの。使うと傷みそうで」


 娘さんは、私へ顔を向けた。


「理恵さんも、お母さんへ作ったんでしょう」


 お母さんが頷き、脇に置いた鞄を開けた。


 取り出したのは、紫の花を縫った白いハンカチだった。


 先生が少し身を寄せた。


「きれいですね」


「私、最初は、どこで覚えたのか分からなかったんです」


 お母さんは刺繍へ指を添えた。


「事故の前には、こんなことをしているのを見たことがなかったから」


 私は、その指先を見た。


 おばちゃんに教わり、文子たちと一緒に覚えた縫い方が、お母さんの手の中にあった。


「帰ってきてから、知らないことが増えた気がしました」


 お母さんが静かに言った。


「理恵ができるようになっていたことも、怖がるようになったことも。私は三か月、病院で見ていたのに、その間のこの子のことを、何も知らなかったんですね」


 先生はお母さんの言葉を聞き、私へ目を向けた。


 私はハンカチを見たまま答えた。


「話せなかった」


「うん」


 お母さんは、ハンカチを畳み直した。


「今、聞いてるよ」


     *


 先生が、少し間を置いて言った。


「私も、学校で見ている理恵さんのことだけで、考えていたと思います」


 私は顔を上げた。


「映画の感想を読んだときも、何に怒っているのか知りたいと思いました。でも、知りたいと思うことと、話せるようになるまで待つことは、同じではなかったんですね」


「先生、待ってくれたよ」


「そう言ってもらえるのは、ありがたいけれど」


 先生はそこで言葉を止めた。


 文子が、静かに聞いていた。


「何を聞けば分かるのか、私には見えていませんでした。今日、こうしてお話を聞いても、まだ分からないことはたくさんあります」


 美羽が頷いた。


「私も。理恵から聞いたら、分かると思ってたんですけど、聞いたら、もっと考えることが増えました」


「そうだね」


 先生は答えた。


「今日、聞かせてもらえたことに感謝しています。これまで話せなかったことを、ここで話してくださっているんですから」


 文子は、すぐには返事をしなかった。


 卓の端に置いた手を少し動かし、それから先生を見た。


「話さなかったことが、全部同じ理由ではないんですよ」


 先生は頷いた。


「怖くて言えなかったこともある。思い出したくなかったこともある。口にしてしまうと、その人のことが、それだけになりそうで、言わなかったことも」


 私は膝の上で手を握った。


 春子の最後だけを話せば、春子は、傷ついて亡くなった友達になる。


 それも春子だった。けれど、私に言い返し、縫いかけの布へ手を伸ばした春子もいた。


「何から話せばいいのか、長い間、分からなかったんだよ」


 文子が私を見た。


「理恵と会って、やっと、途中からでも話せると思った」


     *


 私は、文子の手のそばへ右手を置いた。


 文子はその指へ触れ、少しだけ握ってくれた。


「まだ、話せないこともある?」


 私が尋ねると、文子は頷いた。


「あるよ。覚えていても、言葉が出ないこともある」


「私も」


 声にすると、少し楽になった。


 再会できたからといって、何もかも話せるようになったわけではなかった。文子が覚えていることと、私が覚えていることも、全部同じではない。


 先生は、私たちを交互に見た。


「今日、ここで聞いたことを、私からほかの方へ伝えることはしません。学校でどう話すかということも、今、決めなくて大丈夫です」


 文子の娘さんが頭を下げた。


「ありがとうございます。母も、私も、少しずつ考えたいです」


 お母さんは私を見た。


 私も頷いた。


 美羽が、卓の上に置いた私の手へ目を向けた。


「聞いてほしいとき、また呼んで」


「うん」


「うまく聞けないかもしれないけど」


「今日みたいで、いいよ」


 美羽は少し笑った。


     *


 お母さんが、空になりかけた菓子の皿を見て立ち上がった。


「何か、少し食べますか。もう、お茶ばかりではお腹が空いたでしょう」


 文子が、すぐに顔を上げた。


「理恵、手伝っておいで」


 私は思わず笑った。


「おばちゃんみたい」


「言われなくても、行くところだったでしょう」


「うん」


 私は椅子を引いた。


 台所へ行くと、お母さんが小皿を重ねていた。私はそれを受け取り、人数を数えた。


 六枚あった。


 居間から、先生が文子へ尋ねる声が聞こえた。


「食堂には、よく行かれたんですか」


「行きましたよ。理恵がいるかどうか、戸のところから覗いて」


「お客さんの邪魔をしないように?」


「そのつもりでした。でも、おばちゃんには、すぐ分かったんでしょうね。理恵を呼んでくれました」


 私は皿を持ったまま、振り向いた。


 文子がこちらを見ていた。


「理恵、呼ばれてるよ」


 美羽が言った。


 私は皿を一枚ずつ卓へ置き、文子の隣へ戻った。


「今日は、ここにいるよ」


 文子は私の顔を見て、頷いた。


 先生も、美羽も、娘さんも待っていた。お母さんが料理を運んできたので、私たちは湯飲みを少しずつ脇へ寄せた。


 食べながら、文子が食堂の話を続けた。


 私は覚えているところで口を挟み、覚えていないところは、みんなと一緒に聞いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。