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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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番外編 歩けるようになるかな



 食事の皿を片づけていると、美羽が立ち上がった。


「私も運ぶ」


 重ねようとした皿の上へ、私は手を添えた。


「二枚ずつでいいよ」


 美羽は私を見て、それから笑った。


「さっきのお皿の話、思い出した?」


「うん」


 二人で台所へ運んだ。お母さんが洗い始めていたので、私は空いている場所へ皿を置いた。蛇口から流れる水が、皿の表面を滑り、排水口へ吸い込まれていった。


 居間へ戻ると、文子は背もたれへ身体を預けていた。娘さんが足元の鞄を動かし、少し休みやすいように椅子を寄せていた。


「疲れた?」


 私が尋ねると、文子は顔を上げた。


「少し。でも、ここに座っているよ」


 私は隣へ座った。


 先生は湯飲みを卓へ置き、私たちが落ち着くのを待っていた。


 美羽が、私の向かいに座り直した。


「理恵が、映画のあと、話せなかった人のことって……春子さんだけじゃないんだよね」


 私は膝へ目を落とした。


「うん」


「名前、聞いてもいい?」


 すぐに答えられなかった。


 名前を知ってもらいたいと思っていた。それなのに、口にする前から、あの人に呼ばれたときの声が戻ってきた。


 文子の手が、私の隣へ置かれた。


「照子のこと、話そうか」


 私は、その手を見て頷いた。


     *


「石川照子」


 声に出すと、美羽が小さく頷いた。


「同じクラスだった。壕で、怪我をして」


 私は自分の膝へ手を置いた。


「そのあと、傷が悪くなったの」


 そこから先をどう話せばいいのか、考えた。


 足元へ屈んだときの匂いを覚えていた。湿った布を外す前から、ほかの人のそばとは違う匂いがした。傷を見るのも、見られている照子の顔を見るのも、怖かった。


「布を替えに行くと、私の顔を見てた」


 私は卓の端を見つめた。


「傷より、私の顔を」


 先生が、少し身を寄せた。


 私は照子の目を思い出した。こちらが目を逸らすと、追うように顔を動かした。痛みのことを聞いても、その答えだけでは済まないと分かっていた。


「歩けるようになるかなって、聞かれた」


 美羽の手が膝の上で止まった。


「理恵に?」


「うん」


 私は頷いた。


「私に聞いても、分からないのに。でも、分からないって言えなかった」


     *


 壕の中で、照子は寝たまま私を見上げていた。


 誰かの足音が近づくと、通路の方へ顔を向けた。人が荷物をまとめる音にも、すぐ気づいた。


 私はそばへしゃがみ、布を整えていた。照子の身体を動かさないように気をつけても、触れると眉が寄った。


『歩けるようになるかな』


 そのときも、照子は私の顔を見ていた。


 私は傷へ目を落とした。


 答えを知っているわけではなかった。けれど、歩けるようになるのを待ってくれる時間が、もうないことは分かっていた。


「傷を悪くしないようにしようって、答えたの」


 私は言った。


「照子が聞いたことに、答えなかった」


 お母さんが台所から戻ってきた。椅子へ座ったが、声はかけなかった。


「今、できることをしようと思ったんですね」


 先生が言った。


 私は首を振りかけ、止めた。


「それも、あった。でも、それだけじゃないです」


 文子がこちらを見ていた。


「本当のことを聞かれるのが、怖かった。移動するとき、自分はどうなるのかって」


 私は指を握った。


「私が答えたら、照子は、その言葉を聞いたまま、あそこに残ることになるから」


     *


 美羽が、ゆっくり尋ねた。


「理恵は、何て言ったの?」


 私はしばらく黙った。


 文子も、先には答えなかった。


「連れていくみたいに、話した」


 声が小さくなった。


「照子がそう思えるように」


 美羽は口を開いたが、すぐに閉じた。


「そう思ってほしかったんだよ。私も」


 私は続けた。


「運べるかもしれないって、考えた。誰かに頼めば、何とかなるんじゃないかって。でも、ほかにも歩けない人がいて、運ぶものも、人も足りなかった」


 文子が膝の上で手を重ねた。


「動ける子も、誰かを支えたり、荷物を持ったりしていたね」


「うん」


「一人を運ぶのに、何人も必要だった」


 私は頷いた。


 それは、あのときも分かっていた。


 分かっていることと、照子の顔を見て諦めることは、同じではなかった。持てるものを減らせば、腕が空く人はいないだろうか。途中で交代すれば、運べないだろうか。考えるたびに、どこかで行き詰まった。


「だから、何もできなかったんだね、で終わるのが嫌なの」


 私は顔を上げた。


「何もできなかったけど、照子は、私の言葉を聞いてたから」


 先生は頷いた。


 それ以上、言葉を足さなかった。


     *


「私は、照子のところへ行った理恵を見ていた」


 文子が言った。


 私はそちらへ顔を向けた。


「何を話していたか、全部は聞こえなかった。呼ばれて、私も動いていたから」


 文子は、ゆっくり話した。


「でも、理恵がなかなか戻らなかったのは覚えているよ。立っても、すぐには離れなかった」


「離れたよ」


 私は言った。


「最後には」


「うん」


 文子は否定しなかった。


 私はその返事を聞いて、目を伏せた。


 離れていないと言われたかったわけではなかった。精いっぱいやったと言われても、照子を置いた場所は変わらなかった。


 文子は、私がそこから歩いたことを知っていた。


 自分も同じ道へ出たから、私の言葉を、別の言葉に直さずに聞いてくれた。


「照子が、そのあとどうなったか、私は見ていない」


 私は美羽へ言った。


「生きていたときに、置いてきた。それからのことは、分からない」


 美羽は目元へ手を当てた。


 娘さんが、静かにティッシュの箱を寄せた。


     *


「母が話さなかったのは、亡くなった方のことだけではなかったんですね」


 娘さんが言った。


 文子は頷いた。


「分からないままの人もいるんだよ」


「探したことは?」


「戦争が終わってから、消息を聞いたり、知っている人に尋ねたりしたよ。でも、聞けば全部分かるわけではなかった」


 文子は私を見た。


「最後に見たところから、先へ進まない記憶もある」


 私は膝へ置いた手を開いた。


 照子は、今も私の中で寝ていた。


 傷へ触れると顔をしかめ、私を見上げて、歩けるようになるかと聞いた。その先へ思い出そうとしても、私が通路へ出たところで終わってしまう。


 先生が、慎重に言葉を選んだ。


「あとから記録を読むと、結果から考えてしまうことがあります。誰が亡くなったのか、どこで何が起きたのか」


 私は先生を見た。


「でも、理恵さんたちは、そのとき、結果を知っていたわけではないんですね」


「知っていたら、何か違ったのかな」


 思わず尋ねていた。


 先生は、すぐには答えなかった。


「私には、分かりません」


 その返事を聞いて、私は小さく頷いた。


 分からないことを、分からないまま一緒に置いてくれる人が、ここにはいた。


     *


 お母さんが、卓の上へ手を置いた。


「理恵」


 私は顔を向けた。


「照子さんに、何を言いたい?」


 答えようとすると、涙が出た。


 謝りたいことは、幾つもあった。連れていけなかったこと。期待させたこと。目を見て、本当のことを言わなかったこと。


 けれど、それを一度に話せば、また私の言葉ばかりになる気がした。


「……あのとき、何を聞きたかったのか、ちゃんと聞きたい」


 お母さんは黙っていた。


「歩けるようになるかだけじゃ、なかったと思う。私たちと一緒に行けるか、知りたかったんだと思う。でも、私がそう思ってるだけで」


 私は涙を拭いた。


「照子が、何て言うか、最後まで待てばよかった」


 文子が、私の手へ触れた。


 美羽は椅子を寄せ、反対側に座った。


「私、照子さんのこと、聞いたことなかった」


 美羽が言った。


「今日、名前を聞いて、理恵が覚えてる声も聞いた」


 私は顔を上げた。


「すぐに、何か言えなくて、ごめん」


「いいよ」


 今は、そう答えられた。


     *


 しばらくして、文子が口を開いた。


「照子、学校では、あんなふうに小さな声で話す子じゃなかったね」


 私は文子を見た。


 壕の中の顔から、教室の顔へ戻ろうとした。すぐには浮かばなかったが、文子は急かさず待っていた。


「……呼ぶときは、もっと大きかった」


「そう。後ろにいても分かった」


 私は頷いた。


 教室で名前を呼ばれたときのことが、少しずつ戻ってきた。振り向くと、照子がこちらを見ていた。私は返事をして、そのそばへ行った。


 まだ、自分の足で立っていた照子だった。


 先生も、娘さんも、美羽も、その話を待っていた。


「学校にいたころのことも、話していい?」


 私が尋ねると、美羽は頷いた。


「聞きたい」


 私は文子の手を握ったまま、照子に呼ばれて振り向いた日のことを、ゆっくり思い出し始めた。

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