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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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番外編 残してきた器



 照子の学校での話を終えるころには、お茶がすっかり冷めていた。


 美羽は、私が思い出せずに黙ったところでも、続きを求めなかった。文子が覚えていることを話すとそちらを向き、私が頷くと、もう一度こちらへ顔を戻した。


 お母さんが卓の上の皿を下げた。


 先生も自分の湯飲みを少し奥へ寄せ、窓の外へ目を向けた。さっきまで白かった空が、建物の向こうで薄く色づいていた。


「少し、休みましょうか」


 娘さんが文子へ尋ねた。


 文子は頷き、背もたれへ身体を預けた。私はその隣で、両手を膝の上へ戻した。


 誰も話さない時間ができた。


 台所で皿を置く音がした。お母さんが蛇口を閉めると、居間には時計の音が残った。


 私は息を吐き、椅子へ背中をつけた。


 少しして、美羽が小さな声で言った。


「お水、飲む?」


 頷くと、美羽がコップを寄せてくれた。私は両手で持ち、一口飲んだ。


 透明な水だった。


 それを見ていたら、白く濁った、別の器を思い出した。


     *


「信子のことも、話しておきたい」


 私が言うと、文子が顔を向けた。


 美羽はコップから私へ目を移した。


「信子さん?」


「具志堅信子。同じクラスで、水を汲みに行って、怪我をしたの」


 先生は姿勢を変えたが、近づいてはこなかった。


 お母さんが台所の入口で足を止め、そのまま椅子へ戻った。


「信子は、その日、私の膝を気にしてくれた」


 私は膝へ手を置いた。


「私は怪我をしていたから、中に残った。信子たちが水を汲みに行った」


 文子が、ゆっくり頷いた。


「佳代が先に戻ってきたね」


「容器を持っていなかった」


 あの入口が浮かんだ。


 佳代は息が整わないまま、信子と京子が動けなくなったと話した。二人とも生きていたから、早く行ってほしいと言った。


「飛行機に撃たれたの?」


 美羽が尋ねた。


「佳代は、飛行機の音がして、土が跳ねて、信子が倒れたって言った。私はそこを見ていないけど」


 私はコップを置いた。


「戻ってきた信子は、初めに佳代の名前を呼んだ」


 文子が目を伏せた。


「自分のことより、逃げた子が戻れたか、確かめたかったんだね」


「うん。ここにいるよって答えたら、目を閉じた」


 美羽は、膝の上で指を組み直した。


 私は、信子が私の袖を掴んだところまで話した。腰へ当てられた布が濡れていて、身体を動かすと低く呻いたこと。京子はまだ戻っておらず、美代がもう一度行かなければと言っていたこと。


 あのときは、信子を運び込めたことに、少しだけ安心していた。


 そばへ戻ってきたのだから、何かできると思っていた。


     *


「でも、壕を移ることになった」


 私は言った。


「そのときには、信子の傷は悪くなっていた。歩いて一緒に出ることは、できなかった」


 娘さんが、文子へ目を向けた。


 文子は私を見ていた。


「そこで、ミルクを置いたの」


 美羽の眉が少し寄った。


 私は、その顔を見たまま続けた。


「青酸カリが入っていると聞かされたミルク」


 居間が静かになった。


 お母さんは卓へ置いていた手を引き、自分の膝へ戻した。


 美羽が、息を吸い直して尋ねた。


「それを……信子さんに?」


 私は頷いた。


「飲ませて、ということ?」


「口へ持っていって、無理に飲ませたんじゃない。そばへ置いた」


 言葉にすると、あの器の重さが戻ってきた。


 手の中には、小さな器しかなかった。それなのに、落とさずに運ぶことが難しかった。見ていると手が震え、視線を外すと、中身を忘れたふりをしているようだった。


「最後に決めるのは、信子だと思いたかった」


 私は指を握った。


「飲まないって言えたから。私たちが、無理に口を開けさせたわけではなかったから」


 文子が、低い声で言った。


「でも、残していくことは、決まっていた」


 私は頷いた。


「うん」


     *


 先生は、しばらく黙っていた。


 やがて、私たちの顔を見ながら尋ねた。


「そのとき、周りには、ほかの兵隊さんもいたんですね」


「いました」


 私は答えた。


「寝ている人も、動ける人も。外へ出る支度をしている人も、まだ、自分も連れていってもらえると思っている人も」


 壕の中では、荷物をまとめる音がしていた。


 布を畳み、器具を包み、持っていくものを選ぶ。誰かが紐を探し、誰かが通路を空けるように言った。そのすぐそばで、寝たままの人が、動いている人の足を見ていた。


「急げって言う声がした」


 私は続けた。


「いつもより、同じことを何度も言ってた。早くしろ、まだなのか、持てるものだけにしろって」


 文子が、卓の端へ指を置いた。


「聞かれたことに答えず、作業のことだけ言う人もいたね」


「うん。俺はどうするんだって聞いても、先に荷物を動かせって」


 先生は目を伏せた。


 私は、寝ていた兵隊さんの顔を思い出そうとした。顔より先に、声が戻ってきた。


「お国のために戦って、怪我をしたら置いていくのかって、言う人がいた」


 声に出した途端、お母さんが私を見た。


「何のために戦ったんだって。大きな声で言ったあと、息が続かなくなって、また言い直してた」


 誰に向けた言葉だったのか、分からなかった。


 命令を出した人は、目の前にはいなかった。その人のそばにいたのは、荷物を持つ兵隊さんや、私たちだった。


「悪態をつく人もいた。くそったれって」


 私は唇を湿らせた。


「それを、怒鳴り返す人ばかりじゃなかった。聞こえないふりをして、通り過ぎる人もいた」


     *


「学生さんに言っても、仕方がないって言った人もいたよ」


 文子が言った。


 私は顔を向けた。


「覚えてる?」


「はっきり、全部ではない。でも、声を荒らげた人のそばで、別の人が言ったのは覚えている」


 文子は少し息を整えた。


「その人も、寝たままだった」


 娘さんが母親の湯飲みを近くへ寄せたが、文子はまだ手を伸ばさなかった。


「私たちを庇ってくれたんだと思う。でも、庇ってくれた人も、そこに残るんだよ」


 美羽の顔が歪んだ。


 私は、それを見て目を落とした。


 怒られても苦しかった。


 優しくされても、苦しかった。


 行っておいでと言われれば、その言葉を使って立ち去ってしまう。気にするなと言われれば、気にしなくていいことにはならないのに、返事をするしかなかった。


「私は、ありがとうって言っていいのか、分からなかった」


 私が言うと、文子は頷いた。


「何を言っても、もう行くんだねって、答えてしまう気がした」


     *


 美羽が、卓の上に置いたコップを見た。


「信子さんは、何て言ったの?」


 私は、その質問が来ることを分かっていた。


 それでも、すぐには話せなかった。


「飲まなかった」


 やっと、それだけ言った。


 文子の手が私の手へ触れた。


「私は、その先を見ていない」


 私は美羽を見た。


「だから、飲んで亡くなったとは言えない。私たちが出たあと、どうしたのかも分からない」


 美羽は頷いた。


 涙が落ちたが、拭く前に、もう一度頷いた。


「置いていくことが、最後に決めるのを任せることだと思ったの」


 私は続けた。


「せめて、無理に飲ませないことくらいは、できると思った」


 お母さんが、少し身を乗り出した。


 けれど、私の言葉を遮らなかった。


「でも、信子が選びたかったのは、ミルクを飲むかどうかじゃなかったと思う」


 喉が詰まった。


「一緒に行きたかったんじゃないかって。そんな二つしか残ってないところに置くことを、優しさって呼んでよかったのか、今も分からない」


 文子は、私の手を握り直した。


「私も、分からないよ」


 その声は震えていた。


     *


 先生は、一度口を開き、閉じた。


 考えてから、静かに言った。


「今、何か言えば、理恵さんたちを慰める言葉になるかもしれません。でも、それで、信子さんに残されたものまで、違う意味にしてしまいたくないと思います」


 私は顔を上げた。


 先生は、私と文子を見ていた。


「聞かせてもらったことを、まず、そのまま受け止めたいです」


 娘さんが、膝の上でハンカチを握った。


「母が、夜、眠れないときがあったんです」


 文子が娘さんへ顔を向けた。


「聞くと、昔のことを思い出しただけだからって。私は、戦争の夢を見たんだろうと、それ以上は聞かなかった」


 娘さんは母親を見たまま続けた。


「何を覚えていたのか、知らなかった」


「これだけではないよ」


 文子が答えた。


「でも、こういうことも、思い出していた」


 娘さんは頷き、母親の手へ自分の手を添えた。


 もう大丈夫とは、言わなかった。


     *


 私は、卓の上の水を見た。


 器を置き、手を離したとき、何かが終わったわけではなかった。立ち上がっても、信子はそこにいた。通路へ出ても、寝ている人の声が聞こえた。


 早く行けという声も、待ってくれという声も、同じ壕の中にあった。


「私、出ていく人の列に入ったんだよ」


 私は言った。


「足は痛かったけど、歩けたから」


 お母さんの目に涙が溜まった。


 私はそちらを見た。


「お母さんに会いたかった」


「うん」


「会いたくて、出てきた。でも、信子にも、会いたい人がいたと思う」


 お母さんは涙を拭き、何度も頷いた。


 美羽が、私のそばへ手を置いた。触れる前に少し待ってくれたので、私は自分からその手を取った。


 文子の手も、反対側にあった。


 私は二人の手を握りながら、息を整えた。


     *


 しばらくして、文子が言った。


「信子、佳代を先に走らせたんだよね」


 私は頷いた。


「一人なら走れるからって」


「怪我をして、自分が動けないときに、佳代に人を呼びに行かせた」


 文子は、そこで言葉を止めた。


 私は、担架の上で信子が目を動かしたところを思い出した。


 自分の傷がどうなっているのかを聞く前に、佳代の名前を呼んだ。


「信子は、戻ってきたときも、佳代を心配してた」


 私は美羽へ言った。


 美羽は涙を拭き、私を見た。


「うん。覚えてる。最初に、そう話してくれたね」


 私は頷いた。


 青酸カリの入ったミルクのことを話すと、その器が信子の顔を隠してしまいそうだった。


 けれど、美羽は、その前の信子も聞いてくれていた。


「私の膝も、心配してくれた」


「うん」


「自分が外へ行く前に」


 声がまた震えた。


 美羽は急かさず、私の手を握っていた。


 私は少しずつ、あの日の朝へ戻った。空の容器を持ち上げた信子が、入口へ向かう前に、こちらを見ていたところから。

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