番外編 帰る時間
信子の話を終えると、私はコップを持ち上げた。
水はまだ半分以上残っていた。飲もうとして口元へ寄せたが、喉が狭くなったようで、少ししか飲み込めなかった。
文子も黙っていた。
手を離してもらってから、私は掌を膝へ伏せた。握っていたところだけが温かかった。
お母さんが時計を見た。
「今日は、このくらいにしようか」
私は顔を上げた。
居間の灯りがついていた。いつの間にか、窓の外より室内の方が明るくなっていた。
「文子さんも、長く座っていらっしゃるし」
娘さんが頷いた。
「そうですね。そろそろ、戻る支度をしましょう」
私は文子を見た。
まだ、話していないことがあった。
思い出せたのに、口にできなかったこともあった。文子に確かめたいことも、途中まで話して止まったことも。
けれど、文子は今日、沖縄から来た友達であると同時に、立ち上がるときには支えの必要な人だった。
「疲れたね」
私が言うと、文子は少し笑った。
「理恵も、疲れただろう」
「うん」
今度は、そう答えた。
*
先生が足元の鞄を持ち上げた。
立とうとしてから、私を見た。
「感想用紙のこと、今日は話さなくて大丈夫だからね」
私は、先生の顔を見た。
「忘れてないんですか」
「忘れてはいないよ。でも、提出するために、今日のお話をまとめなくてもいい」
美羽が隣で頷いた。
私は膝の上へ目を落とした。
あの用紙は、まだ家にあった。折れた端を伸ばして、ほかのプリントと一緒にしまっていた。
ふざけるな、と書いた自分の字を見るたび、書き直すように言われた日のことを思い出した。
「今日、少し分かった気がします」
私は言った。
先生は鞄を下ろし直した。
「何が?」
「何を書きたかったのか」
すぐに文章にはできなかった。
照子が私の顔を見ていたこと。信子が佳代の帰りを確かめたこと。春子が、戻ったら服を縫うつもりでいたこと。
映画に映っていなかったのは、汚れや傷だけではなかった。
「帰るつもりだったんです」
私は言った。
「みんな、少し先のことを考えてた。あとで縫おうとか、歩けるようになるかなとか。私も、戻ったら針を出すつもりだった」
先生は黙って聞いていた。
「それが途中で、できなくなった。初めから、死ぬためにそこにいたんじゃない」
言い終えると、胸が痛んだ。
私は服の上から、そっと手を当てた。
「でも、私が見ていない人のことまで、そうだって書くのも違うと思って」
「今、話してくれたように書けばいいと思う」
先生が答えた。
「理恵さんが覚えている人のことと、理恵さん自身が感じたことを。分からないところは、分からないと書いていい」
私は小さく頷いた。
「すぐじゃなくても?」
「すぐじゃなくても」
先生は、同じ言葉で答えてくれた。
*
娘さんが文子の上着を広げた。
私は立ち上がり、反対側の袖を持った。文子が腕を通す間、娘さんは背中の布を整えていた。
「こんなにしてもらわなくても、着られるよ」
「分かってる。でも、私も手伝いたいの」
私が言うと、文子は腕を止めた。
それから、素直に袖へ手を通してくれた。
上着の肩を整えると、薄い髪が襟へ入り込んでいた。私は指で外へ出した。
「理恵、今日は、よく話したね」
文子が言った。
「文子も」
「うん」
娘さんが襟を直しながら、母親の顔を見た。
「帰ったら、少し休もうね」
文子は頷いた。
私はその会話を聞いて、ようやく、文子にも帰る場所があることを思った。
今日はここを出ても、隠れる場所を探さなくてよかった。休む場所があり、娘さんが一緒にいた。
*
玄関へ向かう途中、文子が足を止めた。
「理恵」
私は振り向いた。
文子は私の後ろにいたお母さんを見て、それから、もう一度私へ目を戻した。
「今日は、ここへ帰ってきたんだね」
私は頷いた。
「毎日、帰ってくるよ」
「そうだったね」
文子は笑った。
その笑顔を見ているうちに、私も笑おうとして、うまくできなくなった。
「また、来て」
声が震えた。
娘さんが、少しだけ母親の腕を支え直した。文子は私へ手を伸ばした。
「また会おう」
「うん」
「今日の続きを、全部覚えておかなくてもいいよ。忘れたら、また、一緒に思い出そう」
私はその手を取った。
話し残したことがあっても、今日のうちに終わらせなくてよかった。
そう思うまでに、少し時間がかかった。
*
先生が先に外へ出て、迎えの車を確かめてくれた。
お母さんと娘さんが文子を支え、私は鞄を持ってついていった。玄関の段差を下りるとき、文子は足元を見て、一歩ずつ進んだ。
私はその足を見ながら待った。
早くしなくてもよかった。
後ろから怒鳴る声はなかった。車の運転手さんも、扉を開けたまま待っていた。
文子が座ると、娘さんが上着の裾を直した。私は鞄を渡し、窓のそばへ屈んだ。
「着いたら、連絡してね」
「するよ」
文子は答えた。
隣に座った娘さんも頷いた。
「休んでからになるかもしれませんけど」
「うん。それでいいです」
扉が閉まる前に、文子が私を呼んだ。
「理恵」
「何?」
「信子のこと、今日、一緒に話せてよかった」
私はすぐには返事ができなかった。
文子は私を見ていた。
「一人で思い出すと、同じところばかりに戻ってしまうから」
私は頷いた。
「私も」
それだけ言うと、文子は手を上げた。
車が動き出してからも、私はその手を見ていた。角を曲がり、見えなくなるまで、手を振り続けた。
*
先生も帰り、美羽だけが少し残った。
お母さんが居間を片づけている間、私は玄関の上がり框へ座った。美羽は隣に座り、靴へ足を入れかけてから、もう一度こちらを向いた。
「大丈夫?」
「疲れた」
「うん」
「でも、話せてよかった」
美羽は頷いた。
しばらくして、私は尋ねた。
「嫌じゃなかった?」
美羽の手が止まった。
「聞くの?」
「うん。こんな話ばかりになって」
美羽は靴から手を離し、膝の上へ戻した。
「苦しかったよ」
私は目を落とした。
「信子さんのところは、何を言えばいいか、全然分かんなかった。今も、分かんない」
「ごめん」
「でも、聞かなきゃよかったとは思ってない」
美羽は少し身体をこちらへ向けた。
「理恵が一人で覚えてたことなんでしょう。全部は分からなくても、今日、聞けたことは、私も覚えていたい」
私は、自分の指先を見た。
美羽は、そこへ手を重ねなかった。隣に座ったまま、私が顔を上げるのを待っていた。
「また、普通の話もしていい?」
私が尋ねると、美羽は眉を上げた。
「もちろん」
「学校とか。くだらないこととか」
「そのつもりで来たんだよ。今日も」
私は美羽を見た。
美羽は鞄から小さなノートを出した。
「これ、貸そうと思ってた。理恵が休んだ日のところ」
私は受け取った。
ページを開くと、美羽の字が並んでいた。端には、授業と関係のない小さな猫が描かれていた。
「また耳、長いね」
「そこは直さなくていいの」
美羽が言ったので、私は笑った。
*
美羽が帰ってから、居間の椅子を元へ戻した。
六人で座るために寄せた椅子を、いつもの場所へ置いた。お母さんが卓を拭いている横で、私は空いた場所を見ていた。
「寂しくなった?」
お母さんが尋ねた。
「うん」
「また会えるよ」
私は頷いた。
自分の部屋へ戻り、美羽のノートを机へ置いた。プリントをしまった引き出しを開け、感想用紙を取り出した。
五文字の下には、まだ余白があった。
私は鉛筆を持った。
何度か書きかけて止め、それから、一行を書いた。
春子は、戻ったら服を縫うつもりだった。
続きは、まだ書けなかった。
けれど、その一行を消さずに、私は用紙を机へ置いた。
下の階から、お母さんに呼ばれた。
私は返事をして、立ち上がった。




