番外編 ほどける糸
美羽が持ってきたハンカチには、まだ折り目が残っていた。
白い布を机へ広げ、隅を指で押さえると、美羽は私の手元にある針箱を覗き込んだ。中には針と糸のほかに、小さな鋏と、縫いかけの布が入っていた。
「どこに縫えばいい?」
「最初なら、この辺かな。端に近すぎると、やりにくいから」
私はハンカチの角から少し内側を指した。
美羽はその場所を見てから、持ってきた図案を隣へ置いた。小さな花が三つ、葉と一緒に並んでいた。
「これ、できる?」
「一つずつなら」
「理恵のお母さんのハンカチみたいにしたいんだけど」
「同じじゃなくてもいいよ。美羽の好きな色にしよう」
糸の束を並べると、美羽は青を取り、すぐに戻して、薄い桃色へ持ち替えた。葉の色も二つ並べて迷っていたので、私は布の上へ置いて見せた。
「こっちの方が、花が明るく見えるかな」
「じゃあ、これ」
美羽はようやく決め、糸を指へ巻こうとした。
「そんなに長くしない方がいいよ。絡みやすいから」
「短いと、すぐなくならない?」
「なくなったら、替えればいい」
私が鋏を渡すと、美羽は少し考え、それから糸を切った。
*
針へ糸を通すところで、最初につまずいた。
美羽は糸の先を指で撚り、針の穴へ近づけた。入ったように見えて、指を離すと、糸は横へ逃げた。
「今、入ったと思ったのに」
「少し、先が広がってる」
私が言うと、美羽は顔を近づけた。
「見える?」
「うん」
「理恵、こんな小さいの、よく見てるね」
「初めは、私も通せなかったよ」
美羽はもう一度試した。今度は穴の向こうへ糸の先が出たが、針を持ち替えるときに抜けてしまった。
私は手を出しかけ、膝へ戻した。
美羽が針を見つめていた。
「やってもらった方が、早いかな」
「早いと思う」
「そこは、できるよって言わないんだ」
「できると思う。でも、急いでないから」
美羽は私を見て、少し笑った。
もう一度、糸を近づけた。
今度は通った。向こうへ出た糸を慎重に掴み、ゆっくり引くと、美羽の肩が下がった。
「できた」
「うん」
「もう、一仕事終わった気分」
私は笑い、糸の端へ結び目を作るところを見せた。
*
下書きした花の線に沿って、私は別の布へ何針か縫った。
針を出す場所と、次に入れる場所を、美羽へ見せながら進めた。美羽は私の布を見て、自分のハンカチを裏返し、また表へ戻した。
「どっちから?」
「裏から。結び目を、こっちに隠したいから」
「そうか」
針が白い布から出てきた。
美羽は糸を引いたが、力を入れすぎて、ハンカチが小さく縮んだ。
「あ」
「少し戻してみて」
私は布の端を支えた。
美羽が糸を緩めると、寄っていた皺が少し伸びた。
「こんな感じ?」
「うん。布を引っ張らないくらい」
美羽は次の針を入れた。
縫ったところを眺め、私の布と比べたあと、眉を寄せた。
「長さ、全然違う」
「最初は、そうなるよ」
「でも、理恵の、揃ってる」
「何度もやったから」
私はそう答えてから、自分の布へ目を落とした。
食堂で、同じように見せてもらったことがあった。
おばちゃんの指は迷わず動き、私が見失うと、針を止めてくれた。もう一度と頼めば、同じところから、ゆっくりやり直してくれた。
「理恵?」
美羽に呼ばれ、顔を上げた。
「今、思い出した?」
「うん。おばちゃんに教わったとき」
「こんなふうに?」
「こんなふうに。私は、もっと早く引っ張ってた」
「私より?」
「たぶん」
美羽は自分の縫い目を見て笑った。
「じゃあ、これでも大丈夫だね」
*
花びらを二枚ほど縫ったところで、糸が絡んだ。
美羽は布の裏を見て、糸を引いた。途中で動かなくなり、もう一度強く引こうとしたので、私はその手へ触れた。
「待って」
美羽が動きを止めた。
「引っ張る前に、見よう」
私はハンカチを裏返し、糸が輪になっているところを指した。
「ここ。小さな輪ができてる」
「これ、結び目?」
「まだ、固くなってないと思う」
美羽は布へ顔を近づけた。
私は針を受け取らず、絡んだところが見えやすいように布を持った。美羽が針先でそっと糸を動かすと、輪が少し大きくなった。
「引いていい?」
「今度は、こっちを少し」
言われた方の糸を引くと、輪がほどけた。
美羽は顔を上げた。
「できた」
「うん」
「危なかった。さっき、思い切り引くところだった」
私は布から手を離した。
「私、それをやって、春子にも千代にも渡して、最後におばちゃんへ持っていったの」
「この前の話だ」
「うん」
美羽は、ほどけた糸を指で伸ばした。
「引っ張る前に、どこで絡んでるか見るんだね」
おばちゃんと同じ言葉だった。
私は頷き、自分の針を持ち直した。
*
昼過ぎ、お母さんが部屋へ顔を出した。
「お茶、下で飲む?」
美羽はハンカチを持ったまま振り向いた。
「もう少しで、この花が終わりそうなんです」
「じゃあ、置いておくから、終わったらおいで」
扉が閉まると、美羽は最後の花びらへ針を入れた。
初めより、糸を引く手がゆっくりになっていた。途中で布が寄ると、自分で少し緩めていた。
私はその横で、葉を一枚縫った。
美羽が手を止め、私の布を覗いた。
「早い」
「美羽も、だんだんできるようになるよ」
「今は、この一個で精いっぱい」
最後の糸を始末して裏側を確かめると、美羽はハンカチを机へ広げた。
花びらの幅は揃っていなかった。一枚だけ少し大きく、中心も、下書きからわずかにずれていた。
美羽はしばらく黙って見ていた。
「……花には見える?」
「見えるよ」
「よかった」
私はハンカチを持ち上げ、裏から引きつれていないか確かめた。
「上等」
美羽が笑った。
「それ、今は分かる」
私は顔を上げた。
「病院では、分かんなかったけど」
美羽は私からハンカチを受け取り、もう一度花を見た。
「褒めてもらったんだよね」
「うん。上手にできた」
*
階下へ下りる前に、針を箱へ戻した。
机の上を確かめ、糸の切れ端を集めた。美羽も床を見て、椅子の下へ落ちていないか覗いた。
私は針の数を、もう一度数えた。
「二本、あるよ」
美羽が言った。
「うん」
「私のも、ここへ戻した」
美羽は箱を指した。
私は頷き、蓋を閉めた。
下へ行くと、お母さんが卓へお茶を並べていた。美羽は座る前に、ハンカチを広げて見せた。
「一つ、できました」
「可愛いね」
お母さんが言うと、美羽は少し照れた顔をした。
「理恵に、ずっと見てもらってました」
「自分で縫ったよ」
私が言うと、美羽はこちらを見た。
「糸を通したところから、自分で」
美羽は笑って、ハンカチを自分の膝へ置いた。
お茶を飲みながら、学校の話になった。美羽が次の小テストの範囲を教えてくれたので、私は途中で部屋へノートを取りに行った。
机には、縫いかけの布が残っていた。
まだ、葉が一枚しかできていなかった。続きを縫うのは、あとでよかった。
*
帰り際、美羽は糸とハンカチを袋へしまい、残っている二つの花を指で示した。
「ここは、家でやってみる」
「分からなくなったら、無理に引っ張らないでね」
「写真送る」
「うん」
玄関で靴を履くと、美羽は振り向いた。
「また、教えて」
「いいよ」
「今度は、葉っぱまで」
私は頷いた。
美羽が出ていってから、部屋へ戻った。机へ座り、自分の布を手に取る。
おばちゃんの縫い目には、まだ届いていなかった。文子のように、迷わず糸を選べるわけでもなかった。
それでも今日、私は、美羽の手を止め、絡んだ糸を一緒に見た。
携帯電話を取り、文子の娘さんへ、花を縫ったハンカチの写真を送った。
美羽に教えたよ。
少しして、返事が来た。
母が、よくできているねと言っています。
続いて、もう一通届いた。
今度、私にも見せてね。
私は写真をもう一度開き、美羽の少し大きな花びらを見て笑った。
針箱を開け、縫いかけの葉の続きを始めた。




