↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/124

第96話 渡されたもの



 水の器を戻してから先生のところへ行くと、みんなは壁に沿って座っていた。


 美代は郁子に支えられ、傷のある脚を通路へ出していた。清美も座ったままだった。和子がそばにいる人の名前を小さく確かめ、返事を聞くたびに頷いていたが、紙には何も書かなかった。


 私は文子と千代の間へ入った。


 先生の横に、軍医と兵隊さんが立っていた。足元には袋が置かれていた。兵隊さんが口を開き、中へ手を入れると、硬いものの触れ合う音がした。


「一人ずつ、受け取れ」


 差し出されたものを見て、誰もすぐには手を伸ばさなかった。


 手榴弾だった。


 先に受け取った和子が、膝の上へ両手を置いた。その手の中に収まったものを、私は見つめた。土のついた軍服や、傷を拭く器具と同じように、今まで壕の中で見てきたものだった。それなのに、友達が持っていると、ひどく大きく見えた。


 兵隊さんは一人ずつ前へ進んだ。


「落とすな。粗末に扱うな」


 私の前へ来たとき、掌を出せと言われた。


 両手を差し出した。載せられた重みで、手首が少し下がった。指が触れたところは冷たく、ざらついていた。


 私は息を吐こうとして、喉を詰まらせた。


 教科書の写真で見たものが、今、自分の手にある。


 それをどこへ置けばいいのか分からず、私は膝の上で持ち続けた。


     *


「これを、どうするんですか」


 夏子が尋ねた。


 兵隊さんの手が袋の中で止まった。


「万一のためだ」


「万一って……」


「敵に捕まるようなことがあってはならん」


 夏子は口を閉じた。


 隣で、美咲が手榴弾へ目を落とした。袖の端を引き、金属へ直接触れていた指を布の上へ移した。


 千代の膝が、私の膝に当たっていた。


 小さく震えていることに気づいた。いつもは布の足りないところを見つけ、荷物を結び直し、私より先に手を動かしてくれる千代が、今は受け取ったものを持つだけで、両腕へ力を入れていた。


「先生」


 清美が言った。


「家へ帰っても、いいんですか」


 先生は答える前に、軍医を見た。


 私はその一瞬で、何を言われるのか分かった気がした。


 軍医が、壁際へ集まった私たちを見渡した。


「この病院は、これ以上、今までのように活動を続けることができない」


 患者さんの呻きが、すぐ後ろから聞こえた。


「本部との連絡は途絶えている。薬品も食糧も、補充の見込みはない。負傷者を別の病院へまとめて移す手段もない」


 私は通路を見た。


 昼に運び込まれた兵隊さんが、まだそこに寝ていた。足へ当てた布が赤く濡れ、その先にある器は空だった。


「学徒の任務を解く」


 軍医が言った。


「本日をもって、解散とする」


     *


 誰も立ち上がらなかった。


 私は先生の顔を見た。聞き間違えたのかと思った。終わったのなら、次にどこへ行くのか言われるはずだった。


 学校へ戻るのか。


 家へ帰る道を、兵隊さんが案内してくれるのか。


 おばちゃんに、私が帰ると知らせてもらえるのか。


「軍が全員を引率して移動することはできない」


 軍医は続けた。


「これからは、それぞれで行動してもらう」


「それぞれって、どこへ」


 郁子が尋ねた。


 軍医は少し黙った。


「家族を頼れる者は、家族のところへ。そうでない者も、安全な場所を探すように」


「安全な場所は、どこですか」


 今度は佳代だった。


 軍医は答えなかった。


 外から低い音が届いた。足元が揺れ、先生の肩へ土が落ちた。誰かが頭を伏せたが、軍医は壁へ片手をついただけで、話を続けようとした。


 安全な場所があるなら、どうして私たちは、ここまで来たのだろう。


 北から逃げ、傷のある友達を残し、南へ南へと歩いてきた。そのたび、次の壕まで行けば休めると思った。着いた壕には、もう別の人が寝ていた。


 これ以上、どこへ行けばいいのか。


 私たちは、その答えを自分で探さなければならなかった。


     *


「負傷している生徒は、どうなりますか」


 先生が尋ねた。


 美代が顔を上げた。


「歩ける者と一緒に行動してもらうほかない」


「運ぶ人を、つけていただけませんか」


「約束はできません」


 先生は唇を結んだ。


 私は信子の声を思い出していた。


 行かないで、と言われたとき、私は何も約束できなかった。今、先生も同じように、私たちの前で言葉を失っていた。


 軍医が離れると、先生は私たちのそばへしゃがんだ。


「一人では出ないで」


 さっきまでと違い、小さな声だった。


「近くにいる人と、必ず一緒に。暗くなるまで待ちましょう。入口へ大勢で集まらないようにして」


「先生も、一緒ですか」


 美咲が尋ねた。


「できるだけ、一緒にいます」


 できるだけ、という言葉が耳に残った。


 先生は美代の脚を見てから、郁子へ何かを頼んだ。和子がそばへ寄り、清美も先生の袖を掴んだ。


 私は両手へ目を落とした。


 手榴弾は、まだそこにあった。


     *


 集まりが終わっても、患者さんは水を求めた。


 高橋さんは傷の布を替えていた。私がそばへ行くと、いつものように器を渡された。


「これを、あちらへ」


 受け取ろうとして、片手を空けられないことに気づいた。


 高橋さんが私の手元を見た。


 何も言わず、小さな布を差し出した。私は手榴弾を包み、荷物の中へ収めた。袋を持ち上げると、底へ重みが集まった。


 水を運び終え、文子と千代のところへ戻った。


「一緒に行こう」


 文子が言った。


 私は頷いた。


 千代が私の袋の口を結んでくれた。結び終えても、その手をすぐには離さなかった。


「離れないでね」


「うん」


 外の光が薄くなっていた。


 帰りたかったはずなのに、入口を見ると、脚が動かなくなった。ここには血も膿も、糞尿の臭いも、死んだ人の身体もあった。それでも、頭の上には岩があった。


 その岩の外へ出ることが、解散だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。