第96話 渡されたもの
水の器を戻してから先生のところへ行くと、みんなは壁に沿って座っていた。
美代は郁子に支えられ、傷のある脚を通路へ出していた。清美も座ったままだった。和子がそばにいる人の名前を小さく確かめ、返事を聞くたびに頷いていたが、紙には何も書かなかった。
私は文子と千代の間へ入った。
先生の横に、軍医と兵隊さんが立っていた。足元には袋が置かれていた。兵隊さんが口を開き、中へ手を入れると、硬いものの触れ合う音がした。
「一人ずつ、受け取れ」
差し出されたものを見て、誰もすぐには手を伸ばさなかった。
手榴弾だった。
先に受け取った和子が、膝の上へ両手を置いた。その手の中に収まったものを、私は見つめた。土のついた軍服や、傷を拭く器具と同じように、今まで壕の中で見てきたものだった。それなのに、友達が持っていると、ひどく大きく見えた。
兵隊さんは一人ずつ前へ進んだ。
「落とすな。粗末に扱うな」
私の前へ来たとき、掌を出せと言われた。
両手を差し出した。載せられた重みで、手首が少し下がった。指が触れたところは冷たく、ざらついていた。
私は息を吐こうとして、喉を詰まらせた。
教科書の写真で見たものが、今、自分の手にある。
それをどこへ置けばいいのか分からず、私は膝の上で持ち続けた。
*
「これを、どうするんですか」
夏子が尋ねた。
兵隊さんの手が袋の中で止まった。
「万一のためだ」
「万一って……」
「敵に捕まるようなことがあってはならん」
夏子は口を閉じた。
隣で、美咲が手榴弾へ目を落とした。袖の端を引き、金属へ直接触れていた指を布の上へ移した。
千代の膝が、私の膝に当たっていた。
小さく震えていることに気づいた。いつもは布の足りないところを見つけ、荷物を結び直し、私より先に手を動かしてくれる千代が、今は受け取ったものを持つだけで、両腕へ力を入れていた。
「先生」
清美が言った。
「家へ帰っても、いいんですか」
先生は答える前に、軍医を見た。
私はその一瞬で、何を言われるのか分かった気がした。
軍医が、壁際へ集まった私たちを見渡した。
「この病院は、これ以上、今までのように活動を続けることができない」
患者さんの呻きが、すぐ後ろから聞こえた。
「本部との連絡は途絶えている。薬品も食糧も、補充の見込みはない。負傷者を別の病院へまとめて移す手段もない」
私は通路を見た。
昼に運び込まれた兵隊さんが、まだそこに寝ていた。足へ当てた布が赤く濡れ、その先にある器は空だった。
「学徒の任務を解く」
軍医が言った。
「本日をもって、解散とする」
*
誰も立ち上がらなかった。
私は先生の顔を見た。聞き間違えたのかと思った。終わったのなら、次にどこへ行くのか言われるはずだった。
学校へ戻るのか。
家へ帰る道を、兵隊さんが案内してくれるのか。
おばちゃんに、私が帰ると知らせてもらえるのか。
「軍が全員を引率して移動することはできない」
軍医は続けた。
「これからは、それぞれで行動してもらう」
「それぞれって、どこへ」
郁子が尋ねた。
軍医は少し黙った。
「家族を頼れる者は、家族のところへ。そうでない者も、安全な場所を探すように」
「安全な場所は、どこですか」
今度は佳代だった。
軍医は答えなかった。
外から低い音が届いた。足元が揺れ、先生の肩へ土が落ちた。誰かが頭を伏せたが、軍医は壁へ片手をついただけで、話を続けようとした。
安全な場所があるなら、どうして私たちは、ここまで来たのだろう。
北から逃げ、傷のある友達を残し、南へ南へと歩いてきた。そのたび、次の壕まで行けば休めると思った。着いた壕には、もう別の人が寝ていた。
これ以上、どこへ行けばいいのか。
私たちは、その答えを自分で探さなければならなかった。
*
「負傷している生徒は、どうなりますか」
先生が尋ねた。
美代が顔を上げた。
「歩ける者と一緒に行動してもらうほかない」
「運ぶ人を、つけていただけませんか」
「約束はできません」
先生は唇を結んだ。
私は信子の声を思い出していた。
行かないで、と言われたとき、私は何も約束できなかった。今、先生も同じように、私たちの前で言葉を失っていた。
軍医が離れると、先生は私たちのそばへしゃがんだ。
「一人では出ないで」
さっきまでと違い、小さな声だった。
「近くにいる人と、必ず一緒に。暗くなるまで待ちましょう。入口へ大勢で集まらないようにして」
「先生も、一緒ですか」
美咲が尋ねた。
「できるだけ、一緒にいます」
できるだけ、という言葉が耳に残った。
先生は美代の脚を見てから、郁子へ何かを頼んだ。和子がそばへ寄り、清美も先生の袖を掴んだ。
私は両手へ目を落とした。
手榴弾は、まだそこにあった。
*
集まりが終わっても、患者さんは水を求めた。
高橋さんは傷の布を替えていた。私がそばへ行くと、いつものように器を渡された。
「これを、あちらへ」
受け取ろうとして、片手を空けられないことに気づいた。
高橋さんが私の手元を見た。
何も言わず、小さな布を差し出した。私は手榴弾を包み、荷物の中へ収めた。袋を持ち上げると、底へ重みが集まった。
水を運び終え、文子と千代のところへ戻った。
「一緒に行こう」
文子が言った。
私は頷いた。
千代が私の袋の口を結んでくれた。結び終えても、その手をすぐには離さなかった。
「離れないでね」
「うん」
外の光が薄くなっていた。
帰りたかったはずなのに、入口を見ると、脚が動かなくなった。ここには血も膿も、糞尿の臭いも、死んだ人の身体もあった。それでも、頭の上には岩があった。
その岩の外へ出ることが、解散だった。




