第95話 入口が空かない
女の人の腕から子供を受け取ると、私の首へ小さな手が回った。
頬を肩へ押しつけられ、汗で湿った髪が顎に触れた。抱き上げた拍子に、もんぺの膝へ温かいものが染みた。子供は何も言わず、私の襟を握っていた。
母親は、それを見て謝ろうとした。
「すみません、その子……」
途中で息が詰まり、脇腹へ当てた手に力が入った。指の下から血が滲み、上着の裾を伝って落ちていた。
「大丈夫です。お名前は」
「陽子。陽子って……」
私は子供の背中を支え直した。
「陽子ちゃん、お母さん、ここにいるよ」
陽子は顔を上げなかった。首へ回した腕が強くなり、私もその身体を抱き寄せた。
美咲が母親の肩を支え、高橋さんの指した場所へ寝かせた。床には、前にそこへいた人の血が残っていた。上へ敷いた布の端が濡れ、母親の髪に触れそうになったので、私は片手で折り返した。
母親の視線は、ずっと陽子を追っていた。
「そばにいてください」
「ここにいます」
私は母親から見えるところへ膝をついた。
*
入口で、また担架を呼ぶ声がした。
下りてきた兵隊さんは、別の兵隊さんの腕を首へ回していた。支えられている人の足が石へ引っかかり、二人とも壁へぶつかった。
「誰か、こっちを持ってくれ」
千代が駆け寄った。
反対側へ入り、垂れていた腕を肩へ載せた。軍服の背中が濡れていた。血なのか汗なのかと思ったが、近づくと便の匂いがした。
その人は歩くたびに呻いた。片足の履物がなく、裸足の爪の間へ泥が詰まっていた。
「すまん」
千代の肩へ体重をかけたまま、兵隊さんが言った。
「すまん、汚して」
「ここへ座ってください」
千代は答え、ゆっくり身体を下ろした。
別の担架が、その横を通った。
載せられた人の手が外へ落ち、指先が床を擦っていた。運んできた兵隊さんが腕を戻したが、担架を下ろすと、また同じように落ちた。
「さっきまで返事をしていた」
その人は軍医へ言った。
「途中では、まだ」
軍医が首元へ指を当て、胸を確かめた。
私はその手が離れるところを見てしまった。
運んできた兵隊さんは、担架の持ち手を握ったまま立っていた。軍医に呼ばれても、すぐには顔を上げなかった。
*
高橋さんに頼まれ、私は美咲へ陽子を預けた。
陽子は襟から手を離さなかった。母親が声をかけ、美咲が私のすぐ隣へ座って、ようやく指を一本ずつ外すことができた。
立ち上がると、濡れた膝の布が皮膚へ貼りついた。
棚へ行き、乾いた布を探した。
上に重ねてあったものは、もうなかった。下の布を広げると、茶色い染みが残っていた。洗っても落ちなかった血なのか、泥なのか分からない。端へ顔を近づけると、湿った臭いがした。
「それでも、持ってきて」
高橋さんが言った。
私は何枚か抱えて戻った。
母親の傷から上着を離すと、布が貼りついていたところで、また血が滲んだ。母親は顔を横へ向け、陽子に聞かせないようにしているのか、唇を閉じたまま息を吐いた。
「ここ、持っていて」
高橋さんに言われ、私は灯りを近づけた。
傷の縁に細かな土が入っていた。高橋さんは布を替えながら拭ったが、使える水はわずかしかなかった。
器具を求める声が奥からした。
「そちらが終わったら、こっちへ」
看護婦さんが答えた。
母親は、そのやり取りの間、何も言わずに待っていた。額から汗が流れ、耳の下へ溜まった。
陽子が美咲の腕から手を伸ばした。
「お母さん」
「ここにいるよ」
母親は目を開けた。
私は灯りを持つ腕を動かさないようにして、その顔を見ていた。
*
いつ昼になったのか、分からなかった。
入口から入る光が少し強くなったころには、通路へも人が座っていた。奥へ運ぶ場所がなく、傷に布を当てたまま待っている人がいた。
壁際の兵隊さんが、水を求めた。
文子が器を持っていくと、その人は両手で掴もうとした。指が震え、器の縁へ歯が当たった。
「少しずつ」
文子が支えた。
飲み終えても、その人は口を開けていた。
「もう、ないのか」
文子は器の底を見た。
返事をする前に、入口で声がした。
「横を空けろ。まだ来る」
寝ている人の足を避け、荷物を寄せた。誰かが痛いと声を上げ、担架を持つ人が謝った。
私は床へ置かれた布を拾いかけた。
端を掴むと、裏側から酸っぱい臭いが上がった。吐いたものが染み込んでいた。手を止めた私へ、高橋さんが別の布を渡した。
「それは、分けておいて」
分けたところで、あとで洗う水があるのかは分からなかった。
壁際には、使い終えた布が溜まっていた。血の黒くなったものと、まだ赤く濡れているものが重なり、その間へ蠅が潜っていた。
*
外の声に気づいたのは、入口にいた兵隊さんが顔を上げたときだった。
砲声とは違っていた。
最初は、人が何か叫んでいるだけに聞こえた。壕の壁に当たった声が崩れ、奥まで届くころには、言葉の切れ目が分からなかった。
私は手を止めた。
「ニホングンノ、ミナサン……」
千代も顔を上げた。
外で、声が繰り返された。
「モウ、テイコウヲ、ヤメテクダサイ」
通路で話していた人が黙った。
「ブキヲ、ステテ、デテキテクダサイ」
抑揚のある声だった。一つの言葉を言い終えるたびに間があり、その間に、壕の中で誰かが咳をした。
「ブキヲモタズニ、デテキテクダサイ」
私は入口を見た。
明るいところには、下りてきた兵隊さんの背中があった。その向こうは見えなかった。
「ケガヲシテイルヒトモ、デテキテクダサイ」
そばで布を畳んでいた夏子が、膝の上へ手を置いた。
「負けたの……?」
小さな声だった。
けれど、すぐ近くにいた兵隊さんが振り向いた。
「敵の言うことを信じるな」
夏子の肩が縮んだ。
「誘い出そうとしているんだ。聞くんじゃない」
兵隊さんは入口へ顔を戻した。銃を膝へ引き寄せ、外の声が続いていても、こちらを見なかった。
夏子は畳みかけの布を握ったまま、俯いていた。
*
日本が降伏するのは、八月だった。
私はそのことを覚えていた。
六月の沖縄で聞こえるこの声は、終戦を知らせる放送ではない。外へ出るように、抵抗をやめるように、今ここへ向けて呼びかけている。
けれど、それが分かったところで、入口へ歩いていけるわけではなかった。
外にいる兵隊さんが、私をどう見るのか分からない。ここにいる兵隊さんが、私を行かせるのかも分からない。白い布を持てばいいのか、手を上げればいいのか、その前に撃たれるのか。
未来の教科書には、私が今立っている通路のことは書いていなかった。
文子がそばへ来た。
「理恵」
私は顔を上げた。
文子は入口を見てから、私へ目を戻した。
「出たら、助かるのかな」
信子の手を思い出した。
私の袖を握り、行かないでと言った手。水を置いてほしいと頼んだ声。
助かるかもしれない場所へ向かっていると思いたくて、私はあの壕を出た。その先で、また別の壕へ入り、また傷のある人の横へしゃがんでいる。
「分からない」
私は答えた。
文子は何も言わなかった。
千代が、私たちのすぐ後ろにいた。手に持った布を折り直し、膝へ載せた。
外の声は、また初めから繰り返された。
*
母親が、私の袖を引いた。
処置を終え、脇腹へ布が当てられていた。陽子はその胸元へ顔を寄せていたが、母親は片腕で支えるのが苦しいらしく、何度も肘の位置を変えていた。
「今、外で言っているのは」
私は膝をついた。
「出てきなさいって、言っているんですか」
「……はい」
母親は陽子の背中を撫でた。
「この子も、出られるんでしょうか」
私は母親の手を見た。
指の爪が一本欠けていた。爪の下には土が入り、手首にも乾いた血がついていた。その手が、陽子の服へ触れるときだけ、ゆっくりになった。
出られると言いたかった。
陽子を抱いて、母親の肩を支え、二人を明るいところへ連れていけたらと思った。
入口には、銃を持った兵隊さんがいた。
「先生に、聞いてきます」
私が言うと、母親は頷いた。
その顔を見て、すぐ戻ると約束することさえ怖くなった。
*
島袋先生は、入口から来た兵隊さんと話していた。
その人の上着は泥で固まり、片方の袖が肘まで裂けていた。先生が何か尋ねると、兵隊さんは首を振った。
「連絡がつかない」
近づいたところで、その言葉が聞こえた。
「病院へ指示を出していた本部は、砲撃でやられた。戻った者の話では、もう使えない」
「では、次の収容先は」
「分からん。こちらへ回せる人員も、物資もない」
軍医が奥から来た。
兵隊さんは声を落とし、軍医へ話を続けた。私は母親のことを伝えようとして、口を開けなかった。
高橋さんが、私の横へ立った。
手を拭った布を握っていた。指の付け根には血が残り、爪の周りが赤黒くなっていた。
「学生たちは」
軍医が先生へ尋ねた。
「ここにいる者は、呼べます」
先生が答えた。
私は文子を振り返った。
文子は母親のそばへ座り、陽子がずり落ちないように支えていた。千代は、通路にある器を壁際へ寄せていた。
先生が私たちの方へ向いた。
「寺田さん、近くにいる人へ声をかけて」
私は頷いた。
「仕事の手を離せる人から、こちらへ。大事な話があります」
患者さんの向こうに、和子が見えた。美咲が顔を上げ、夏子も立ちかけた。
先生のところへ集まるため、私は寝ている人の足を跨いだ。
その人が私のもんぺへ触れた。
「学生さん、水を」
立ち止まると、先生がこちらを見た。
私は器を取りに戻った。底へ残った水をその人の口へ寄せ、飲み込むのを待った。
外からは、まだ、出てきなさいという声が聞こえていた。




