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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第94話 下ろす前に



 歩き始めてからも、私は右手を開いたり、握ったりしていた。


 信子に掴まれていたところが、まだ熱かった。袖には指の形に皺が寄り、引っ張られた縫い目が少し伸びていた。


 前を歩く千代の袋が揺れていた。


 私はその袋を見失わないようについていった。足を止めれば列が離れる。けれど、一歩進むたび、信子のいる壕から遠ざかっていた。


 後ろで誰かが躓いた。


 振り返ると、佳代だった。文子が腕を支え、足元の石を指した。


「ここ、上げて」


 佳代は言われたとおりに足を動かした。


 私を見ると、口が開いた。


「水……」


 そのあとが続かなかった。


「置いたよ」


 私は答えた。


「手、届いたから」


 佳代は頷いた。


 私たちは、それだけを何度も確かめた。水がある。手が届く。私たちが出たときには、信子はまだ生きていた。


     *


 美代を背負っていた兵隊さんが、岩の陰で膝をついた。


 先生がすぐに近づき、肩へ回された美代の腕を支えた。


「一度、下ろすぞ」


 兵隊さんは息を切らしていた。美代も口元を肩へ押しつけたまま、顔を上げなかった。


 千代と私が足を支え、地面へ座らせた。


 美代の傷に巻いた布は濡れていた。もんぺの切り開かれたところから、暗い色が広がっていた。


「歩く」


 美代が言った。


 先生がしゃがんだ。


「今は休んで」


「少しでも、自分で歩く」


 美代は私の腕を掴み、立とうとした。傷のある足が地面へ触れる前に、身体が傾いた。


 私は脇へ腕を入れ直した。


「まだ、休んでていいから」


「休んだら」


 美代は兵隊さんの背中を見た。


 その人は両手を膝へつき、頭を下げていた。


「この人、もう持てなくなる」


 誰もすぐには答えなかった。


 少しして、兵隊さんが顔を上げた。


「代わりが来る。今、頼んでる」


 美代は私の腕を離さなかった。


 先生がその手へ触れた。


「あなたも連れていく。ここで待っているだけ」


 美代は先生の顔を見て、ようやく座り直した。


 私はそのそばに残った。


 同じ言葉を、信子にも言いたかった。


     *


 道の先が白く照らされた。


 私たちは岩へ身体を寄せた。明かりの下で、畑に残った茎が短い影をつくっていた。土が掘り返され、雨水の溜まった穴が光っていた。


 その向こうに、人がいた。


 何人も、同じ方向へ歩いていた。軍服の人も、荷物を背負った女の人もいた。誰かに肩を借り、片足を引きずっている人が、列から遅れていた。


 遠くで音がした。


 歩いていた人たちが、一斉に低くなった。


 私は美代の肩を抱えた。伏せさせる場所がなく、二人で岩の窪みへ寄った。


 土が顔へ当たった。


 すぐ近くで何かが崩れ、背中へ小石が落ちた。美代が声を上げた。私は頭を下げたまま、身体を引き寄せた。


 耳の奥が鳴っていた。


 音が途切れたあと、道の方から人を呼ぶ声がした。


 さっき見えていた人たちは、暗さが戻ると分からなくなった。


     *


 次の壕へ着いたとき、入口の前で担架が止まっていた。


 列の先頭だと思ったが、私たちが運んできたものではなかった。持ち手を握る兵隊さんの服に、新しい血がついていた。


「中を空けろ」


 声がした。


「こっちは、まだ息がある」


 野原さんが先に下りた。


 島袋先生が入口にいた看護婦さんへ声をかけた。


「汐見の学生です。こちらへ合流するようにと」


「歩ける子は、すぐ手伝ってください。奥まで運ぶ人が足りません」


 先生が頷いた。


 私は入口の岩へ手をつき、中を覗いた。


 ここへ来る途中、兵隊さんに教えられた場所を、頭の中でもう一度確かめた。道も、周りの畑も、私には見分けられなかった。それでも、聞いた壕の名は覚えていた。


 ひめゆりの第三外科壕ではない。


 資料で読んだ、壕へ攻撃を受け、大勢が亡くなった場所とは違う。ここにいるのも、私たち汐見の学生と、別のところから集まってきた人たちだった。


 胸に詰まっていた息が、少し抜けた。


 毒ガスで亡くなった、と覚えていたあの場所ではない。


 ここなら、あの最期にはならないかもしれない。


 私は岩を掴んでいた指を緩めた。ほっとしたことを、文子や千代へ伝えたくなった。


 けれど、場所が違うだけで、何が起きるのかは分からなかった。私が知らないところでも、人は死んでいた。春子も京子も、資料の中で名前を覚えていた子ではなかった。


 奥から叫び声がした。


「布を持ってこい。血が止まらん」


 入口の担架が動いた。


 持ち手から垂れた布の先を伝い、血が私の足元へ落ちた。


 私は壁へ身体を寄せた。


 別の場所だと分かっただけで、助かる道が見つかったわけではなかった。それでも、さっきのわずかな安堵にすがりながら、中へ下りていった。


     *


 湿った空気が顔へ当たった。


 血と便の匂いに、焦げた布の匂いが混じっていた。通路の先では人が身を屈め、担架を受け取っていた。


 高橋さんが下りかけたところへ、男の人が腕を伸ばした。


「看護婦さん、こっちを先に」


 高橋さんは担架へ顔を寄せた。


 その横を、別の兵隊さんが下りてきた。肩に人を担いでいた。運ばれている人の両腕が揺れ、手の先から血が落ちていた。


 私は壁へ寄った。


 背負われた美代を通す場所が、なくなっていた。


「先に、この子を座らせてください」


 先生が声をかけた。


 高橋さんが振り返り、奥の岩際を指した。美代を背負っていた兵隊さんは頭を下げ、そのまま狭い通路へ入った。


 郁子が袋を持って続いた。


 私も追おうとしたが、入口から次の担架が下りてきた。


     *


 下りた先は、頭を上げられないほど低かった。


 奥へ進むには身体を曲げ、人の足を避けなければならなかった。美代が座ったところへ先生と郁子がつき、私はようやく袋を下ろそうとした。


「学生さん、これを押さえて」


 知らない看護婦さんに呼ばれた。


 振り返ると、軍服の胸元が開かれていた。兵隊さんが横になり、口を開けて息をしていた。傷に当てた布が赤く濡れ、看護婦さんの手の下から血が滲んでいた。


「ここ。手を離さないで」


 私は袋を床へ置き、その人の隣へ膝をついた。


 布へ手を当てると、温かかった。


 看護婦さんが手を抜き、すぐ後ろの患者さんへ移った。


 私は追いかけるように呼んだ。


「このままで、いいんですか」


「そのまま。先生を呼んでくる」


 兵隊さんの目が私を見た。


「学生さん」


「はい」


「息が」


 そこで声が途切れた。


 私は顔へ近づいた。


「先生、来ますから」


 自分の手が正しいところにあるかも分からなかった。血が指へ回り、布の表面が滑った。押さえ直すと、その人の身体が強張った。


「痛いですよね」


 言ってから、何を聞いているのだと思った。


 その人は答える代わりに、私の袖を掴んだ。


     *


 入口の方から、また声がした。


「担架を返せ。外に、まだいる」


 誰かが身体を担架から下ろした。


 寝かせるところを探す間にも、次の人が入ってきた。床へ下ろされると痛がり、通路の端にいる人が、自分の脚を引いた。


「頭を、こっちへ」


「そこは足がある」


「灯りを寄せてくれ」


 声が重なり、誰が誰を呼んでいるのか分からなくなった。


 軍医が私の前へ来た。


 傷を見て、そばの人へ器具を求めた。


「今、あちらで使っています」


「ほかには」


 看護婦さんは首を振った。


 軍医が布を求め、私は近くの包みを見た。


 広げた布は、どれも染みが残っていた。濡れているものと、硬く乾いたものが重なっていた。


 文子が一枚選び、看護婦さんへ渡した。


「乾いているのは、これだけです」


 軍医が顔を上げた。


「薬品を」


「こちらには、もうありません」


 返事をした看護婦さんは、別の人の腕を支えていた。


 軍医は短く息を吐き、また傷へ目を戻した。


 患者さんが私の袖を引いた。


「楽に、してくれ」


 私はその顔を見た。


 汗で濡れた頬が灯りに光り、歯の間から息が漏れていた。


 軍医が手を動かすと、その人が声を上げた。私は身体が動かないように言われ、肩へ腕を回した。


 痛みを抑えるものは、出てこなかった。


     *


 千代が私のそばへ屈んだ。


「理恵、腕、代わる」


 私は首を振った。


 けれど、千代が私の肘へ触れたとき、腕が震えていることに気づいた。


「少しだけ。こっち持って」


 千代が肩を支え、私は布へ手を戻した。


 軍医はまだ処置をしていた。


 後ろで、別の人が先生を呼んでいた。何度も、同じ声で呼んでいた。


「少し待ってくれ」


 軍医が言った。


 私は布へ落とした目を上げなかった。


 呼ぶ声が一度止まり、また聞こえた。さっきより小さくなっていた。


 文子がそちらへ向かった。


 しばらくして、高橋さんを呼んだ。


 軍医が手を止め、後ろを見た。高橋さんは患者さんの顔へ屈んでいた。


 私はその姿を見ていた。


 目の前の兵隊さんが腕を引いたので、振り返った。


 この人の手も、まだ離せなかった。


     *


 ようやく処置が終わり、軍医は次の人へ移った。


 私は患者さんの袖に絡んだ自分の服を、ゆっくり外した。


「水」


 その人が言った。


 私は高橋さんを探した。


 見つける前に、入口から女の人が下りてきた。片腕に子供を抱え、もう片方の手で自分の脇を押さえていた。


 服の下から血が落ちていた。


「お願いします」


 何度も言っていた。


「この子は、怪我してません。私だけです」


 入口の兵隊さんが、そこで止まるように言った。


 女の人は止まれず、膝から崩れた。


 私は立ち上がった。


 子供の身体が母親の腕からずれ、頭が岩へ近づいた。咄嗟に両手を出して受け止めると、女の人が私の腕へ縋った。


 子供が泣き始めた。


 私は抱き直そうとしたが、掌が血で滑った。子供の服へ赤い跡がついた。


「誰か」


 声を出した。


 高橋さんも、文子も、千代も、人のそばへ屈んでいた。


「こっち、お願いします」


 私はもう一度呼んだ。


 女の人の重さが腕へ掛かった。子供を落とさないように抱えると、母親を支える手が足りなかった。


 背後では、さっきの兵隊さんが水を求めていた。


 入口から、また担架が下りてきた。


 私は女の人の背中へ膝を寄せ、身体が倒れないようにした。子供の泣き声が耳元で続いていた。


 ここは、私が恐れていた壕ではなかった。


 けれど今、目の前にいる二人を支えるだけで、誰かを呼ぶことしかできなかった。


 袋は、まだ通路へ置いたままだった。


 どこに座るのかも、どこで眠るのかも決まらないうちに、私は次の人の血で濡れていた。

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