第93話 水を置いて
高橋さんは、器を持ってきた人の前へ立った。
「口へ入れることはしません」
静かな声だった。
軍服の男が、入口から振り返った。
「命令は伝えたはずだ」
「嫌がっている人には、飲ませません」
高橋さんの手が、上着の脇で握られていた。私たちへ声をかけるときには見せない、固く曲がった指だった。
男は高橋さんを見て、それから、奥に残っている患者さんたちへ目を向けた。
「なら、置いていけ。出発を遅らせるな」
それだけ言って、通路を上がっていった。
私は信子の手を握っていた。
飲ませなくてもいいのだと分かった瞬間、胸に詰まっていた息が少し出た。
けれど、信子はここに残る。
そのことは、何も変わっていなかった。
*
高橋さんが信子のそばへ屈んだ。
器は持っていなかった。
「具志堅さん」
信子は私の手を握ったまま、高橋さんを見た。
「あれは、普通のミルクではありません。青酸カリが入っています」
佳代が顔を伏せた。
信子の指が、私の手の上で動いた。
「飲まなくて、いい?」
「無理に飲ませることはしません」
高橋さんが答えた。
信子はその顔を見続けた。
「飲まなかったら、連れていってもらえる?」
高橋さんの口が、わずかに開いた。
返事は出なかった。
信子は私へ顔を向けた。
「そういうことじゃ、ないんだね」
私は頷けなかった。
高橋さんは信子の掛け物を直した。汗で湿った襟を緩め、首の下に挟まっていた布を引き出した。
いつもと同じように、苦しくないか尋ねた。
信子は答えず、私の手を胸元へ引いた。
*
器を運ぶ役を頼まれた。
私は立ち上がれず、千代が代わりに受け取った。両手で持ち、信子から少し離れたところへ膝をついた。
白いものが、器の中で揺れた。
信子はそれを見た。
「置かないで」
千代の手が止まった。
「私のところには、置かないで」
私は高橋さんを見た。
高橋さんは器を受け取り、いったん後ろへ下げた。
通路にいた兵隊さんが、早くしろと言った。奥にもまだ残る人がいるのだと、器を指した。
信子は私の顔へ近づこうとした。
「理恵、それより、水を置いていって」
私は頷いた。
今度は、すぐに頷けた。
「水、持ってくる」
「戻ってくる?」
「うん。水を持って、ここへ戻る」
何のために離れるのか、どこへ戻るのか、私ははっきり言った。
信子の指が一本ずつ緩んだ。
*
水の容器は、もう出発の荷物のそばへ寄せられていた。
私は器を持って、野原さんを探した。
「信子の分を、残したいです」
野原さんは容器を見た。
持っていけば、次の壕で飲める水だった。途中で怪我をした人へも使うのだろう。私はそれを分かっていて、器を引かなかった。
「ほかの、残る人にも」
言い足すと、野原さんがそばの兵隊さんへ声をかけた。
「小さい容器を探してくれ」
蓋の欠けた器が一つ、空の缶が二つ運ばれてきた。
底に土が入り込んでいた。私は布で拭き、使えるものを高橋さんに確かめてもらった。
水を分ける間、文子が器を押さえた。
どれも満たすことはできなかった。それでも、一口でなくなってしまう量にはしたくなかった。少し足しては、ほかの器を見た。
文子も同じように見ていた。
「信子、自分で持てる器がいいね」
文子が言った。
私は一番小さいものを選んだ。
重すぎず、口へ運びやすいものだった。
*
信子は、私が戻ると顔を動かした。
「水だよ」
器の中を見せた。
信子は手を伸ばしたが、持ち上げようとすると腕が震えた。私は背中へ手を入れ、佳代が器を支えた。
一口飲んだ。
信子の喉が動いた。少し休んで、もう一口飲んだ。
「残して」
器を傾けかけた佳代へ言った。
「あとで、飲むから」
佳代は頷いた。
私たちは信子を寝かせ、器を頭のそばへ置いた。腕を伸ばせば届くか、信子自身に確かめてもらった。
指が縁へ触れた。
「ここで、いい」
私は器の下へ布を敷いた。傾いた石の上ではこぼれるため、土を少し寄せ、置き直した。
信子はその間も見ていた。
水を置く場所が決まると、私の袖へ手を伸ばした。
*
奥の兵隊さんは、白い器を受け取らなかった。
「そっちへ置け」
胸に写真を押し当てたまま、顔を背けた。
高橋さんが器を遠ざけ、文子が水を置いた。
「これは、水です」
兵隊さんは器を見た。
「水は、こっちへ」
文子が近づけると、指が触れた。
その人はしばらく縁を掴んでいたが、やがて手を離した。
「写真、濡らさんようにせんとな」
胸元から出した写真を、上着の内側へ戻した。折れないようにする指の動きが丁寧で、私はその手を見ていた。
別の患者さんは、白い器へ布を掛けてくれと言った。
誰かは何も答えず、壁を見ていた。
私たちは一人ずつ声をかけた。聞こえているのか分からない人には、顔のそばへ屈んで繰り返した。
誰もが同じ返事をするわけではなかった。
だから、置いたあとも、すぐには離れられなかった。
*
島袋先生が、信子のそばへ来た。
佳代はまだ座っていた。袋は文子が持っていたが、受け取ろうとしなかった。
「私、ここにいます」
佳代が言った。
先生は膝をついた。
「一緒に来なさい」
「信子、一人になる」
声が震えた。
「私が走って、人を呼んだのに。戻ってきてもらったのに」
先生は佳代の肩へ手を置いた。
佳代は首を振った。
「また、置いていくの」
信子が二人を見ていた。
佳代へ帰れとも、行っていいとも言わなかった。
私へも、手を離してくれなかった。
私はそれを望んでいる自分に気づいた。
信子が離してくれれば、立ち上がれる。行っていいと言ってくれれば、その言葉を持って出ていける。
そんな言葉を、信子に言わせようとしていた。
私は袖を引かれるまま、もう一度近づいた。
「ごめん」
言うと、信子の顔が歪んだ。
「謝らないで」
私は口を閉じた。
「謝られると、もう決まったみたい」
*
入口から、学生を先へ出すようにと声がした。
清美が幸子と美咲に支えられて上がっていった。美代も兵隊さんの背中に載せられ、郁子が袋を持って後を追った。
信子はその列を見ていた。
自分の袋が足元にあることを確かめ、私へ尋ねた。
「これ、どうするの」
「ここへ、置く?」
信子は少し考えた。
「開けて」
私は紐をほどいた。
手拭いと、替えの布と、小さな裁縫の包みが入っていた。信子はそれを見て、また袋へ戻すよう言った。
「母さんが、入れたの」
私は畳み直した。
布の下へ手を入れたとき、信子が止めた。
「そのままでいい」
「うん」
「私のそばへ」
袋を肩の横へ置いた。
信子は紐を指へ巻きつけた。持っていかれないようにするような仕草だった。
*
先生が佳代を立たせた。
佳代は信子の手を両手で包んでいた。離してからもしゃがみ直そうとし、文子が腕を支えた。
千代が私の袋を持った。
私はまだ、信子のそばにいた。
高橋さんが掛け物を直し、器の位置をもう一度確かめた。白い方の器は水から離され、信子の肩越しに、中身が見えないよう布を掛けられていた。
「寺田さん」
先生が呼んだ。
私は信子を見た。
信子も私を見ていた。
「私、まだ生きてるよ」
「うん」
「今も」
「分かってる」
信子の指が私の袖へ食い込んだ。
私はその手へ、自分の手を重ねた。
立ち上がるためには、外さなければならなかった。
すぐにはできず、握られたところを見ていた。信子が息を吸い、口を開いた。
「理恵」
私は顔を寄せた。
「母さんに、会いたい」
私は頷いた。
伝えておくとも、きっと会えるとも言えなかった。
先生の手が私の肩へ置かれた。
私は信子の指を、一本ずつ袖から離した。手を袋の上へ戻すと、すぐにまた持ち上がった。
その手を、私はもう一度取った。
先生に呼ばれ、今度は離した。
*
入口の坂を上がる途中、信子の声がした。
振り返ると、灯りの届くところに顔が見えた。
「水、あるよね」
「ある。右の、すぐそば」
私は答えた。
信子の腕が動いた。
器へ届いたのを見てから、先生に肩を支えられ、上へ進んだ。
外へ出ると、風が顔へ当たった。千代が私の袋を渡した。私は受け取ったが、肩へ掛けることができず、紐を握ったまま立っていた。
壕の中から、また声が聞こえた。
学生さん。
待ってくれ。
誰か、一人。
先へ進むよう言われた。
私は入口を見ていた。あの坂を下りれば、まだ信子のところへ戻れた。水の器を支え、背中へ手を入れれば、もう一口飲ませることができた。
文子が私の腕へ触れた。
歩き出してからも、私は何度も振り返った。
岩に隠れ、入口が見えなくなった。
それでも、信子の手が水の器へ届いているか、確かめたい気持ちは消えなかった。




