第92話 何のために
私は器を持たず、信子のところへ戻った。
信子は私の後ろを見ていた。文子と千代も手ぶらだと分かると、掛け物から出していた手を引っ込めた。
「何だったの」
私は膝をついた。
佳代が私の顔を見た。何かあったのだと気づいたらしく、信子のそばへ身体を寄せた。
「理恵」
もう一度呼ばれた。
「私、ここに残るの?」
奥では荷物を結ぶ音がしていた。器具を収める箱の蓋が閉まり、兵隊さんが持ち上げた。寝ている人の足を避け、入口へ運んでいった。
私はその箱が通り過ぎるのを待った。
待ったあとも、答えられなかった。
「そうなんだね」
信子が言った。
「先生、頼んでくれてるんでしょう」
佳代が言った。
「まだ、もう一度」
「佳代」
信子は遮った。
「私に聞いてるんじゃないよ。理恵に聞いてる」
私は顔を上げた。
信子の目が濡れていた。
頷けば、本当に置いていくことになる気がした。首を振れば、また立とうとするかもしれなかった。
「運べないって、言われた」
ようやく答えた。
信子は私を見たまま、動かなかった。
*
奥で、器の割れる音がした。
私は肩を竦めた。
「ふざけるな」
男の声だった。
両脚を布に包まれた兵隊さんが、肘で身体を支えていた。そばの地面に白いものが広がり、その中へ器の欠片が落ちていた。
「これを飲めというのか」
軍服の男が、通路に立っていた。
「騒ぐな」
「俺たちに死ねと言うんだろう」
寝ていた人たちが顔を向けた。
私は信子の前へ身体を寄せた。見せたくなかったが、声を聞かせないことはできなかった。
「国のために戦えと言ったのは誰だ」
兵隊さんは、身体を前へ引いた。
脚が床に擦れ、巻かれた布へ赤いものが滲んだ。それでも止まらず、軍服の男を見上げた。
「命令どおり行った。撃たれても戻れと言われるまで戻らんかった。それで脚が使えなくなったら、今度は死ねか」
「敵に捕まれば、軍の情報が漏れる」
「何の情報だ」
兵隊さんの声が大きくなった。
「俺が知ってるのは、自分のいたところが砲弾で潰れたことと、隣にいた奴が死んだことだけだ」
軍服の男が一歩近づいた。
私は息を止めた。
けれど兵隊さんは顔を伏せなかった。
「守ると言ったじゃないか。島も、住民も。何を守った」
*
「黙れ」
軍服の男が言った。
「ほかの者まで動揺させるな」
「動揺?」
兵隊さんは笑おうとして、咳き込んだ。唾を吐き、口元を袖で拭いた。
「ここへ寝かされたときには、治してもらえると思ったんだぞ」
その言葉のあと、声が少し低くなった。
「また歩けるようになると思った」
誰も返事をしなかった。
「家へ帰るつもりだった」
兵隊さんは脚へ目を落とした。
しばらく見てから、巻かれた布を拳で叩いた。身体が強張り、息が喉で詰まった。
「こんなもののために」
もう一度叩こうとしたところへ、野原さんが屈んだ。
「傷を悪くする」
「悪くなったら、どうなる」
兵隊さんが聞いた。
「これ以上悪くなったら、運んでくれるのか」
野原さんの手が止まった。
兵隊さんはその手を見ていた。
やがて顔を上げ、通路の男へ言った。
「このままじゃ、日本は負ける」
壕の中が静かになった。
私は信子の掛け物を握った。
口にしてはいけない言葉だった。ずっと、言えば何が起こるか怖くて、飲み込んできた言葉だった。
「何が大日本帝国だ」
兵隊さんの声が震えた。
「何が、お国のためだ。使えるうちは前へ出して、使えなくなったら捨てるのか」
「貴様」
「クソッタレ!」
声が岩へぶつかり、奥まで響いた。
兵隊さんは泣いていた。
怒鳴り終えた口が歪み、息を吸うたび肩が揺れた。野原さんが身体を支えようとしたが、その手を押し返した。
「俺は、何のために戦ってたんだ」
*
島袋先生が通路へ出た。
「学生を、こちらへ戻します」
軍服の男へそう伝え、文子と千代に目で合図した。
男はまだ兵隊さんを見ていた。銃の革紐が肩から垂れ、腕が動くたび揺れた。
先生は私たちの前に立ったまま、男が通る場所を空けなかった。
野原さんが低い声で何か話した。
しばらくして、男は入口へ向かった。通り過ぎるとき、床へこぼれたものを踏み、履物の下で欠片が鳴った。
私はその足を見ていた。
男が見えなくなるまで、息を深く吸えなかった。
*
「私も、同じだね」
信子が言った。
私は振り返った。
「違うよ」
佳代が答えた。
「違わない」
信子は自分の腰へ目を向けた。
「動けないから、要らなくなった」
私は首を振った。
信子はそれを見て、眉を寄せた。
「だったら、どうして」
声が掠れた。
「怪我したの、私のせい?」
「そんなこと、誰も」
「水、汲みに行ったんだよ」
私の言葉に重なった。
「行けって言われたから。水がないから、みんな困ってたから」
信子は佳代を見た。
「飛行機が来て、伏せたでしょう。ちゃんと伏せようとしたよね」
佳代が頷いた。
「逃げなかった。仕事、嫌だって言わなかった」
私は信子の手へ触れた。
その手が、私の指を強く掴んだ。
「なのに、どうして私が残るの」
私は何も答えられなかった。
信子の目から涙が流れた。耳の方へ落ち、髪に紛れた。
「帰りたい」
今までで一番、小さな声だった。
「母さんのところへ帰りたい」
*
文子が顔のそばへ布を置いた。
信子は受け取らなかった。私の手を離さず、佳代の袖も掴んでいた。
「家の井戸なら、水なんか、いくらでもあるのに」
信子は天井を見た。
「暑かったら庭へ出て、顔、洗って」
声が途切れた。
私は待った。
「母さんが、そんなに使ったら汲むのが大変だって言って」
信子の唇が震えた。
「私、また汲めばいいでしょうって」
泣き声が漏れた。
佳代が顔を伏せた。信子の腕へ額を寄せ、肩を震わせていた。
私は手を握られたまま、二人を見ていた。
水の出る蛇口を思い出した。
家へ帰れば手を洗えた。風呂にも入れた。飲み残した水を流して、別のコップへ新しい水を入れたこともあった。
その場所へ帰りたいと思っている私の前で、信子も、自分の家へ帰ろうとしていた。
*
奥の兵隊さんが、野原さんを呼んだ。
今度は怒鳴らなかった。
「妻がいる」
私は顔を向けた。
「子供も。一人。まだ、小さい」
野原さんは膝をついて聞いていた。
「写真、上着に入ってる。見てくれ」
差し出されたものへ、野原さんが目を落とした。
兵隊さんはその顔を見ていた。
「俺、帰るって言ったんだ」
野原さんは写真を返した。
兵隊さんは胸元へ押し当てた。
「言わなきゃ、よかったのか」
誰も答えなかった。
「帰るって、言わなきゃよかったのかよ」
私は顔を伏せた。
信子の指が動いた。
「理恵」
呼ばれて、顔を上げた。
「さっきの、白いの」
私は身体を強張らせた。
信子は私の目を見ていた。
「あれ、私にも?」
手を握り返した。
それしかできなかった。
信子の顔が歪んだ。
「いやだ」
声が出た。
「私、飲みたくない」
「信子」
「死にたくない」
その言葉を聞いたまま、私は信子の手を握っていた。
入口では、出発を急がせる声がしていた。友達が荷物を持ち、通路へ並び始めていた。
信子はそちらを見て、私の手を胸の方へ引いた。
「行かないで」
私は膝を動かさなかった。
「お願い。まだ、ここにいて」
手を引かれるまま、顔のそばへ寄った。
信子は泣きながら私を見ていた。私が立ち上がらないか、目を離さずに確かめていた。




