第91話 私も行く
信子の熱は、夜が明けても下がらなかった。
掛け物を外してほしいと言ったあとで、寒いと言った。佳代が足元へ布を戻すと、今度は腰に触れるところを嫌がった。どこへ掛けても痛むらしく、最後には胸の上へだけ載せた。
私は額の汗を拭いた。
布を離しても、すぐに細かな汗が浮いた。髪の生え際に砂が残り、湿った束になって皮膚へ貼りついていた。
「理恵、今日は何日」
信子が尋ねた。
「あとで、和子に聞いてくる」
「もう六月?」
私は手を止めた。
ここへ来るまでに、雨の夜を幾つ越えただろう。眠った回数では日にちを数えられなかった。朝まで起きていることも、昼に短く眠ることもあった。
「たぶん、もう」
答えると、信子は天井を見た。
「家で、何してるかな」
「お母さん?」
「うん」
それから、少し息を整えた。
「私の着物、虫干ししてくれてるかな。帰ってから着ようと思ってたの」
私は布を畳み直した。
「どんな着物?」
「青いの。袖、少し短くなってて」
信子の口元がわずかに動いた。
「母さん、伸ばせるって言ってた」
私は続きを待った。
けれど信子は目を閉じ、次に口を開いたときには、水が欲しいと言った。
*
昼前、入口から戻ってきた野原さんの服に、白い土がついていた。
島袋先生がそばへ行った。二人は通路から外れたところで話したが、すぐ後ろに患者さんが寝ていて、声を低くしても聞こえた。
「道が切られる前に出ます。今夜です」
先生が奥を見た。
「担架は、何人まで」
「向こうの入口は狭い。途中も、前のようには運べません」
「学生に一人、まだ歩けない子がいます」
野原さんは答えなかった。
私は器を持ったまま立っていた。
先生がもう一度、信子の名前を言った。
「具志堅さんです。前の移動では運んでもらいました」
「分かっています。軍医殿と相談してください」
野原さんの声には、いつものような落ち着きがなかった。こちらを見ると、私の器へ目を落とし、道を空けるよう身体を引いた。
私は通った。
器の中の水が揺れた。両手で持ち直しても、揺れは止まらなかった。
*
軍医は、患者さんを順に見ていった。
傷を確かめる前に、立てるかと尋ねた。
腕を吊った兵隊さんは頷いた。片脚に布を巻いた人は、棒があればと言った。腹を押さえていた人は返事をせず、もう一度聞かれると、起こしてくださいと頼んだ。
信子のところへ来ると、佳代が場所を空けた。
「移動するんですか」
信子が聞いた。
軍医は傷へ掛けた布を持ち上げた。信子の指が床を掴んだ。
「足を動かしてみなさい」
信子は膝を曲げようとした。
わずかに踵が滑り、そこで止まった。息を吸い、もう一度動かそうとして、顔を横へ向けた。
「昨日より、痛いだけです」
軍医は高橋さんへ何か伝えた。
私はその顔を見た。高橋さんは傷の布を戻し、信子の上着を下ろした。
「先生」
信子が呼んだ。
「担架は」
軍医は立ち上がりかけたところで止まった。
「全員を運ぶ人手はない」
佳代が顔を上げた。
「私たちが持ちます」
「道が違う。途中で動けなくなれば、ほかの者も止まる」
「交代します。前も、交代して」
「今は、ほかを診る」
軍医は通路へ出た。
佳代が追おうとしたが、信子が袖を掴んでいた。
*
「私、まだ決まってないよね」
信子は、私を見て言った。
私は膝をついた。
「先生が、頼んでる」
「運んでもらえるか、聞いてくれてるんでしょう」
「うん」
信子は佳代の袖を離した。
「だったら、私も聞く」
肘を床へつき、身体を起こそうとした。腰が浮く前に声が漏れ、佳代が背中へ手を入れた。
「今は、寝てて」
「起きないと」
信子は私の腕を掴んだ。
「起こして。少しだけでいいから」
私は高橋さんを呼んだ。
信子の手に力が入った。
「呼ばなくていい。立ってみるだけ」
高橋さんが来たときには、信子は片足を引き寄せていた。もんぺの腰の辺りが濡れ、布の下から新しい血が滲んでいた。
「具志堅さん、傷が開く」
「歩けるか、見てもらわないと」
「横になって」
「寝てたら、置いていかれる」
その声が、近くの患者さんにも聞こえた。
高橋さんは信子の肩を支えたまま動かなかった。私も、佳代も、すぐには何も言えなかった。
信子は私たちを見比べた。
「だから、立つの」
*
少し離れたところで、兵隊さんが軍医を呼び止めた。
「俺も行けます。肩を貸してもらえば」
両脚を布に包まれた人だった。身体を起こし、通路へ手をついていた。
「昨夜は入口まで行けなかっただろう」
「今日は行く」
軍医は返事をせず、次の人のそばへ屈んだ。
兵隊さんは腕の力で身体を引いた。床に敷いた藁が擦れ、脚が遅れて動いた。そばにいた学生が止めようとすると、その手を払いのけた。
「まだ生きてるんだぞ」
私は振り返った。
「飯も食える。話もできる。何で置いていく」
声が壕の奥へ届いた。
別のところから、運んでくれという声がした。入口まででいいと頼む人もいた。入口から先をどうするのかは、誰も言わなかった。
私は信子の身体を支えていた。
その腕へ、信子が顔を寄せた。
「私も、話せる」
私にだけ聞こえる声だった。
「水も、自分で飲める」
「うん」
「理恵、私も行くよ」
私は頷こうとした。
けれど、信子を運ぶ担架があるのか、持ってくれる人がいるのか、何一つ確かめられていなかった。
信子は私の顔を見ていた。
私はその視線から逃げられなかった。
*
夕方、文子と千代が来た。
先生へ頼みに行っていたのだという。千代は、布で運べないか、背負えないか、聞いたことを順に話した。
信子は黙って聞いていた。
「まだ、話してくれてる」
千代が言った。
「だから、今は傷を悪くしないで」
信子は頷いた。
そのあと、佳代へ謝った。
「手、痛かったよね」
「痛くない」
「嘘。爪、立てた」
佳代は袖を下ろした。
信子は私の腕も見た。掴まれたところに赤い跡が残っていた。私はそこを自分の手で覆った。
「気にしなくていいよ」
「ごめん」
信子は言った。
謝ったあとも、私たちが離れようとすると、誰かの服へ指を伸ばした。
布を取りに行くだけだと伝えなければ、手を離せなかった。
*
奥で、家へ言伝を頼んでいる兵隊さんがいた。
和子が紙を持って、その人の顔へ近づいていた。
「母へ、帰れんかったと」
和子の鉛筆が動いた。
「住所は」
兵隊さんは村の名を言い、家の場所を説明した。和子が聞き返すと、ゆっくり繰り返した。
途中で声が止まった。
「やめてくれ」
和子が顔を上げた。
「今のは、まだ書かんでくれ」
その人は入口を見た。
「帰れんと、決まったわけじゃないだろう」
和子は紙へ目を落とした。
兵隊さんが、彼女の手首へ触れた。
「学生さん、頼む。誰か一人、肩を貸してくれ」
私は聞いていた。
自分の肩も、文子の肩も、千代の肩もあった。それでも、その人を助ければ信子を運ぶ手が減る。信子を運べば、別の人を残す。
誰に手を伸ばすかを考えたくなくて、私は床へ置いた布を畳んだ。
角を揃えようとしても、指が震えた。
*
出発の支度が始まるころ、私は奥へ呼ばれた。
文子と千代も一緒だった。
小さな灯りのそばに、器が並べられていた。白いものが入っていた。
私は足を止めた。
文子の腕が私に触れた。千代は器を見たまま、身体を動かさなかった。
前の壕で聞いた声が、耳の奥へ戻ってきた。
何を飲ませた。
あのとき床へこぼれた白いものと、今、器の中にあるものが重なった。
「残る患者へ、持っていけ」
軍服の男が言った。
高橋さんが、私たちと器の間へ立った。
「学生には、させないでください」
「手が足りん。出発までに済ませろ」
私は高橋さんの背中を見た。
その向こうに並んだ器を見ないようにしても、縁だけが見えていた。
「残る人って」
自分の声が聞こえた。
誰もすぐには答えなかった。
私は信子のいる方へ振り返った。
掛け物の下から手が出ていた。佳代がそばにいたが、信子は通路を見ていた。私たちが戻るのを待っているのだと分かった。
「具志堅さんも、ですか」
尋ねると、軍服の男がこちらを見た。
「歩行不能の者は残置だ」
私は動けなかった。
信子が私を呼んだ。
壕の中の声に紛れ、最初は名前だけが聞こえた。
もう一度呼ばれた。
「理恵、何、持ってくるの」
私は何も持っていなかった。
両手を握っても、ほどいても、器へ近づけることができなかった。




