第90話 名前を聞く
その人が亡くなったことに、私はしばらく気づかなかった。
壁へ顔を向けて寝ていた兵隊さんだった。水の器を持って通るたび、肩が通路へ出ていたので、足を置くところに気をつけていた。
高橋さんに背中を拭くよう言われ、声をかけた。
「身体、少し動かしますね」
返事はなかった。
眠っているのだと思い、肩へ手を置いた。上着は湿っていたが、その下の身体が、ほかの患者さんとは違って感じられた。
私は手を止めた。
「高橋さん」
呼ぶと、すぐに顔を上げてくれた。
「この人、返事がありません」
高橋さんはそばへ来て、身体をこちらへ向けた。顔が見えた。頬が痩せ、少し開いた口の端に、乾いたものがこびりついていた。
高橋さんが呼びかけ、手首へ触れた。
私は桶を膝へ引き寄せたまま、待った。
*
軍医が確かめに来るまで、私はその人のそばを離れられなかった。
どのくらい前から返事がなかったのだろう。
ここへ来たときには、すでに壁へ顔を向けていた。眠っている人を起こさないように、私は足元ばかり見て通った。
水を欲しがる人には飲ませた。布を替えてほしいと呼ばれれば、その人のところへ行った。
この人に、水は要りませんかと聞いただろうか。
思い出そうとすると、別の顔ばかり浮かんだ。
軍医が離れたあと、高橋さんが上着を直した。
「あとで、外へ運びます」
私は顔を上げた。
「私も、運ぶんですか」
「兵隊さんに頼むけど、人手が足りなければ手伝ってもらう」
高橋さんは少し間を置いた。
「今は、顔へ布を掛けてあげて」
桶の縁に置いていた布を持ちかけ、止まった。身体を拭くために湿らせたものだった。
乾いたものを探しに戻った。
*
夜まで、その人は同じ場所にいた。
顔へ布を掛けても、身体の幅は変わらなかった。通る人が肩へ触れそうになり、私は何度か声をかけた。
近くにいた患者さんが、布の下を見て聞いた。
「死んだのか」
私は頷いた。
その人は顔を背けた。
「昨日、話してたんだが」
「何をですか」
「水が来るかって」
私は掛けた布を見た。
足りない水を運びながら、この人も待っていたのだと思った。
隣の兵隊さんが、身体を少しずらした。
「学生さん、悪いが、俺の器をこっちへ」
私は器を寄せた。
その人の腕では届かなかった。さらに近づけると、指が縁を掴んだ。
「ありがとう」
小さな声だった。
私はその手が器を持てたのを確かめてから、立ち上がった。
*
外へ運ぶことになったのは、辺りが暗くなってからだった。
その人のほかに、もう一人亡くなっていた。奥に寝ていた患者さんで、私には顔も名前も分からなかった。
兵隊さん二人が、広げた布の上へ身体を移した。
上着の下から強い匂いが出た。便で汚れていたところがあり、床に敷いていたものまで染みていた。私は思わず顔を引いたが、すぐ横で良子が布の端を持っていることに気づいた。
「こっち、持てる?」
良子が聞いた。
私は頷いた。
布の端を折り、両手で握った。持ち上げると身体が中央へ沈み、思っていたよりもずっと重かった。兵隊さんが持ち方を直す間、頭が横へ傾いた。
顔に掛けていた布が落ちた。
私は拾おうとしたが、手を離せなかった。
「あとで掛ける。先に上げるぞ」
兵隊さんが言った。
私たちは入口へ向かった。
坂を上がる途中で、膝の傷が痛んだ。身体を庇うと、私の持つところだけが下がった。
「下げないで」
良子の声がした。
私は腕を上げた。
布越しに身体の重さが伝わってきた。生きている患者さんなら、痛いと言われれば止まれた。揺らせば顔を見て、ごめんなさいと声をかけた。
今も同じように運ばなければと思ったが、私が持ち直すたび、その人の身体は黙ったまま動いた。
*
壕の外では、野原さんが道を確かめていた。
入口のすぐ前には置けないと言われ、岩の陰まで運んだ。昼間は出られず、遠くまで連れていく人数もなかった。
そこには、すでに身体が二つあった。
一つには軍服の上着が掛けられ、もう一つは、足だけが暗がりから出ていた。
私は地面を見た。
石の間に草が残っていた。身体を下ろすところへ尖った石があり、足先で退けようとしたが、動かなかった。
「そこへ置くぞ」
「少し、待って」
私は言った。
兵隊さんがこちらを見た。
「石が」
その人は足で石をずらした。
私たちは布を下ろした。
手を離すと、掌に湿った感触が残っていた。服へ擦りつけかけ、やめた。暗くて色は分からなかったが、指を開くと皮膚が引き合うようだった。
良子が、落ちた布を持ってきていた。
顔へ掛け、端を肩の下へ入れた。
私は足元の布を直した。片方の足が外へ出ていたので、覆おうとして引いたが、長さが足りなかった。
「上着を」
近くの兵隊さんへ頼むと、その人は少し迷い、身体の下へ挟まっていた裾を引き出した。
それでも、履物のない足先は見えていた。
*
二人目を運び終えたときには、腕が震えていた。
壕へ戻る前に、私は野原さんへ尋ねた。
「名前、分かりますか」
「どちらの」
「最初に運んだ人です。壁のところにいた……」
野原さんは身体の方を見た。
「ここへ来る前からいた人だな。所属の分かる者に聞いてみる」
「名前が、分からないままですか」
「俺は知らん」
責めるつもりはなかった。
それでも、そう聞こえたかもしれなかった。私は口を閉じた。
野原さんは少し声を落とした。
「分かれば、先生へ伝える」
私は頷いた。
遠くで砲声がした。良子が私の袖を引き、二人で入口へ戻った。
*
壕の中では、さっきまで身体があった場所へ、別の患者さんが寝かされていた。
脚を引きずって来た兵隊さんだった。まだ上着を脱がされていなかったが、袖口から手を出し、高橋さんの服を掴んでいた。
「水を」
「少しずつ飲みましょうね」
高橋さんが答えた。
私は壁際で、自分の手を拭いた。
水は使える分だけと言われ、布へわずかに含ませた。指の間を擦ると、黒ずんだものが布へ移った。爪の際には残り、何度も同じところを拭いた。
匂いは取れなかった。
良子も隣で手を拭いていた。自分の布を見てから、畳む場所を変えて、もう一度掌を擦った。
「ご飯、食べられるかな」
良子が言った。
私は返事をしなかった。
腹は空いていた。
匂いの残る手で器を持つことを考えると喉が詰まったが、それでも、何か来れば食べたいと思っていた。
*
信子のそばへ戻ると、佳代が眠っていた。
壁へ頭をつけ、信子の掛け物の端を握っている。私は起こさないよう膝をつき、器を置いた。
信子の目が開いた。
「どこ、行ってた?」
「外」
「水?」
私は首を振った。
信子は私の手を見た。それから、私の後ろへ視線を向けた。
新しく来た患者さんが、痛いと声を上げていた。
「誰か、亡くなったの」
「兵隊さんが、二人」
信子はしばらく黙っていた。
私は掛け物を直した。足元へ風が入らないよう、端を折り込んだ。
「私の名前は、分かるよね」
信子が言った。
手が止まった。
「分かるよ」
「具志堅信子」
「うん」
信子は息を整え、もう一度言った。
「具志堅信子だから」
私は顔のそばへ寄った。
「知ってる。ちゃんと、知ってるよ」
信子の指が、掛け物から出た。
私はその手を取ろうとして、自分の掌を見た。拭いたばかりなのに、爪の際にまだ汚れが残っていた。
手を引きかけたとき、信子が私の指へ触れた。
私は動くのをやめた。
隣で眠っている佳代の頭が、ゆっくり傾いた。信子の肩へ当たりそうになり、私は空いている手で支えた。
信子は私の指を握っていた。
名前をもう一度確かめる代わりに、私はその顔を見ながら、呼ばれる前に水は要らないかと尋ねた。




