↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

90/124

第90話 名前を聞く



 その人が亡くなったことに、私はしばらく気づかなかった。


 壁へ顔を向けて寝ていた兵隊さんだった。水の器を持って通るたび、肩が通路へ出ていたので、足を置くところに気をつけていた。


 高橋さんに背中を拭くよう言われ、声をかけた。


「身体、少し動かしますね」


 返事はなかった。


 眠っているのだと思い、肩へ手を置いた。上着は湿っていたが、その下の身体が、ほかの患者さんとは違って感じられた。


 私は手を止めた。


「高橋さん」


 呼ぶと、すぐに顔を上げてくれた。


「この人、返事がありません」


 高橋さんはそばへ来て、身体をこちらへ向けた。顔が見えた。頬が痩せ、少し開いた口の端に、乾いたものがこびりついていた。


 高橋さんが呼びかけ、手首へ触れた。


 私は桶を膝へ引き寄せたまま、待った。


     *


 軍医が確かめに来るまで、私はその人のそばを離れられなかった。


 どのくらい前から返事がなかったのだろう。


 ここへ来たときには、すでに壁へ顔を向けていた。眠っている人を起こさないように、私は足元ばかり見て通った。


 水を欲しがる人には飲ませた。布を替えてほしいと呼ばれれば、その人のところへ行った。


 この人に、水は要りませんかと聞いただろうか。


 思い出そうとすると、別の顔ばかり浮かんだ。


 軍医が離れたあと、高橋さんが上着を直した。


「あとで、外へ運びます」


 私は顔を上げた。


「私も、運ぶんですか」


「兵隊さんに頼むけど、人手が足りなければ手伝ってもらう」


 高橋さんは少し間を置いた。


「今は、顔へ布を掛けてあげて」


 桶の縁に置いていた布を持ちかけ、止まった。身体を拭くために湿らせたものだった。


 乾いたものを探しに戻った。


     *


 夜まで、その人は同じ場所にいた。


 顔へ布を掛けても、身体の幅は変わらなかった。通る人が肩へ触れそうになり、私は何度か声をかけた。


 近くにいた患者さんが、布の下を見て聞いた。


「死んだのか」


 私は頷いた。


 その人は顔を背けた。


「昨日、話してたんだが」


「何をですか」


「水が来るかって」


 私は掛けた布を見た。


 足りない水を運びながら、この人も待っていたのだと思った。


 隣の兵隊さんが、身体を少しずらした。


「学生さん、悪いが、俺の器をこっちへ」


 私は器を寄せた。


 その人の腕では届かなかった。さらに近づけると、指が縁を掴んだ。


「ありがとう」


 小さな声だった。


 私はその手が器を持てたのを確かめてから、立ち上がった。


     *


 外へ運ぶことになったのは、辺りが暗くなってからだった。


 その人のほかに、もう一人亡くなっていた。奥に寝ていた患者さんで、私には顔も名前も分からなかった。


 兵隊さん二人が、広げた布の上へ身体を移した。


 上着の下から強い匂いが出た。便で汚れていたところがあり、床に敷いていたものまで染みていた。私は思わず顔を引いたが、すぐ横で良子が布の端を持っていることに気づいた。


「こっち、持てる?」


 良子が聞いた。


 私は頷いた。


 布の端を折り、両手で握った。持ち上げると身体が中央へ沈み、思っていたよりもずっと重かった。兵隊さんが持ち方を直す間、頭が横へ傾いた。


 顔に掛けていた布が落ちた。


 私は拾おうとしたが、手を離せなかった。


「あとで掛ける。先に上げるぞ」


 兵隊さんが言った。


 私たちは入口へ向かった。


 坂を上がる途中で、膝の傷が痛んだ。身体を庇うと、私の持つところだけが下がった。


「下げないで」


 良子の声がした。


 私は腕を上げた。


 布越しに身体の重さが伝わってきた。生きている患者さんなら、痛いと言われれば止まれた。揺らせば顔を見て、ごめんなさいと声をかけた。


 今も同じように運ばなければと思ったが、私が持ち直すたび、その人の身体は黙ったまま動いた。


     *


 壕の外では、野原さんが道を確かめていた。


 入口のすぐ前には置けないと言われ、岩の陰まで運んだ。昼間は出られず、遠くまで連れていく人数もなかった。


 そこには、すでに身体が二つあった。


 一つには軍服の上着が掛けられ、もう一つは、足だけが暗がりから出ていた。


 私は地面を見た。


 石の間に草が残っていた。身体を下ろすところへ尖った石があり、足先で退けようとしたが、動かなかった。


「そこへ置くぞ」


「少し、待って」


 私は言った。


 兵隊さんがこちらを見た。


「石が」


 その人は足で石をずらした。


 私たちは布を下ろした。


 手を離すと、掌に湿った感触が残っていた。服へ擦りつけかけ、やめた。暗くて色は分からなかったが、指を開くと皮膚が引き合うようだった。


 良子が、落ちた布を持ってきていた。


 顔へ掛け、端を肩の下へ入れた。


 私は足元の布を直した。片方の足が外へ出ていたので、覆おうとして引いたが、長さが足りなかった。


「上着を」


 近くの兵隊さんへ頼むと、その人は少し迷い、身体の下へ挟まっていた裾を引き出した。


 それでも、履物のない足先は見えていた。


     *


 二人目を運び終えたときには、腕が震えていた。


 壕へ戻る前に、私は野原さんへ尋ねた。


「名前、分かりますか」


「どちらの」


「最初に運んだ人です。壁のところにいた……」


 野原さんは身体の方を見た。


「ここへ来る前からいた人だな。所属の分かる者に聞いてみる」


「名前が、分からないままですか」


「俺は知らん」


 責めるつもりはなかった。


 それでも、そう聞こえたかもしれなかった。私は口を閉じた。


 野原さんは少し声を落とした。


「分かれば、先生へ伝える」


 私は頷いた。


 遠くで砲声がした。良子が私の袖を引き、二人で入口へ戻った。


     *


 壕の中では、さっきまで身体があった場所へ、別の患者さんが寝かされていた。


 脚を引きずって来た兵隊さんだった。まだ上着を脱がされていなかったが、袖口から手を出し、高橋さんの服を掴んでいた。


「水を」


「少しずつ飲みましょうね」


 高橋さんが答えた。


 私は壁際で、自分の手を拭いた。


 水は使える分だけと言われ、布へわずかに含ませた。指の間を擦ると、黒ずんだものが布へ移った。爪の際には残り、何度も同じところを拭いた。


 匂いは取れなかった。


 良子も隣で手を拭いていた。自分の布を見てから、畳む場所を変えて、もう一度掌を擦った。


「ご飯、食べられるかな」


 良子が言った。


 私は返事をしなかった。


 腹は空いていた。


 匂いの残る手で器を持つことを考えると喉が詰まったが、それでも、何か来れば食べたいと思っていた。


     *


 信子のそばへ戻ると、佳代が眠っていた。


 壁へ頭をつけ、信子の掛け物の端を握っている。私は起こさないよう膝をつき、器を置いた。


 信子の目が開いた。


「どこ、行ってた?」


「外」


「水?」


 私は首を振った。


 信子は私の手を見た。それから、私の後ろへ視線を向けた。


 新しく来た患者さんが、痛いと声を上げていた。


「誰か、亡くなったの」


「兵隊さんが、二人」


 信子はしばらく黙っていた。


 私は掛け物を直した。足元へ風が入らないよう、端を折り込んだ。


「私の名前は、分かるよね」


 信子が言った。


 手が止まった。


「分かるよ」


「具志堅信子」


「うん」


 信子は息を整え、もう一度言った。


「具志堅信子だから」


 私は顔のそばへ寄った。


「知ってる。ちゃんと、知ってるよ」


 信子の指が、掛け物から出た。


 私はその手を取ろうとして、自分の掌を見た。拭いたばかりなのに、爪の際にまだ汚れが残っていた。


 手を引きかけたとき、信子が私の指へ触れた。


 私は動くのをやめた。


 隣で眠っている佳代の頭が、ゆっくり傾いた。信子の肩へ当たりそうになり、私は空いている手で支えた。


 信子は私の指を握っていた。


 名前をもう一度確かめる代わりに、私はその顔を見ながら、呼ばれる前に水は要らないかと尋ねた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。