第89話 空いた場所
信子の担架を下ろしたところに、畳まれた布が残っていた。
端がほつれ、真ん中に薄い窪みがあった。誰かが長く座っていたのだと思った。高橋さんが置く場所を指したときには見えていたのに、担架を運び入れるうち、私はそれを踏んでしまっていた。
持ち手を離し、足元の布を拾った。
「それ、こちらへ」
近くにいた兵隊さんが手を出した。
「持ち主は」
「外へ出た人のだろう。入口へ置いておく」
私は布を渡した。
兵隊さんは丸めて脇へ抱え、次の担架を通すために身体を引いた。布の隅が、その腕から垂れていた。
信子が私を呼んだ。
振り返ると、佳代が掛け物を外していた。担架の布に血が滲み、腰の下に置いたものまで濡れている。
「寺田さん、灯りを」
高橋さんに言われ、私は荷物のそばへ膝をついた。
ついさっき出ていった人の顔を考えながらも、使える布がどこにあるか、手が勝手に探していた。
*
壕は奥へ曲がっていた。
入口からの明かりは途中で途切れ、その先は灯りを持たなければ人の顔も分からなかった。岩の壁に水が伝い、足元には泥と、踏まれて形のなくなった藁が溜まっていた。
病院の人が入る前から、奥には兵隊さんが寝ていた。
上着を開いたまま胸を押さえている人。片脚を伸ばし、その先を布で包まれている人。壁へ顔を向けて横になり、呼ばれても動かない人。
私たちが運んできた患者さんを寝かせるため、先にいた人たちが少しずつ寄せられた。
呻き声が重なった。
「そこ、足がある」
暗がりから声がして、私は持っていた器を引いた。
下を見ると、泥の上に裸足が出ていた。踵に大きな裂け目があり、乾いた血が黒く縁取っていた。足の持ち主は、少し離れたところから腕を伸ばしていた。
「すみません」
私は言った。
その人は返事をせず、自分の足を引こうとした。動かした途端、歯の間から息が漏れた。
「動かさなくていいです。私が、こっちを通るから」
壁へ肩を擦りつけて、身体を横にした。
これから何度も、ここを通るのだと思った。
*
タエさんが入ってきたのは、信子の布を替えているときだった。
入口の方で言い合う声がして、私は顔を上げた。正夫を背負ったタエさんが、坂の途中で止まっていた。
「この子だけでも、休ませてください」
「住民は出ろと言っただろう」
「足を怪我しているんです。歩けなくて」
正夫は目を覚ましていた。母親の首に回した腕を緩め、眠そうに頬を擦っている。
私は灯りを文子へ渡した。
「ちょっと、行ってくる」
文子は入口を見て、灯りを受け取った。
坂の下まで行くと、タエさんの袋が石のそばへ置かれていた。さっき私が持っていた袋だった。
「あの子、足を切っていて」
私が言うと、入口にいた兵隊さんが振り向いた。
「学生は奥へ戻れ」
「前の壕で、手当てをしました」
「だから何だ。ここは病院だ」
私は正夫の足を見た。
巻いてあるのは、私たちが渡した布だった。血と泥で汚れていたが、結び目は残っていた。
「夜が明けるまででも」
「お前が決めることじゃない」
声が大きくなった。
私は肩を縮めた。奥で清美が帰りたいと言ったときの声を思い出した。銃を持った兵隊さんの前で、誰もすぐには動けなかった。
入口の兵隊さんは銃へ手を掛けてはいなかった。
それでも、私は次の言葉を出せなくなった。
*
野原さんが外から戻ってきた。
タエさんを見て、入口の兵隊さんへ小さな声で話した。二人は坂の上へ移り、私には言葉の一部しか聞こえなかった。
夜が明ける。
子供一人。
奥の場所は使わせない。
タエさんは正夫を背中から下ろした。
ずっと背負っていたせいで腕がうまく動かないらしく、私は子供の身体へ手を添えた。正夫の片足が床へ触れると、身体が強張った。
「痛かったね」
タエさんが抱き直した。
私は袋を拾い、坂の脇へ寄せた。
野原さんが戻ってきた。
「ここで、少し休んでください。夜が明けたら、ほかを探してもらうことになります」
タエさんは何度も頭を下げた。
座れるのは、入口に近い岩の窪みだけだった。人が通るたび膝を引かなければならず、外で音がすると、そのまま土が降ってくるところだった。
それでも、タエさんはそこへ腰を下ろした。
正夫を膝に載せると、子供の身体が母親へ沈んだ。タエさんはその重さを受け止め、目を閉じた。
私は袋を足元へ置いた。
中へ入れてもらえたのだと喜びかけた自分が、嫌になった。
*
奥へ戻ると、高橋さんが信子の掛け物を直していた。
「入口は」
「少しだけ、休んでもいいって」
高橋さんは私を見た。
それから、小さく頷いた。
私がいない間に、傷の布は替えられていた。使い終えたものが器の中へ入っていた。赤いところと、黄色く濁ったところが重なり、灯りの下で湿って光っていた。
信子の目が開いた。
「正夫くん?」
「お母さんといるよ」
「入れた?」
私は返事に迷った。
「入口で、休んでる」
信子はそれ以上聞かなかった。
私は濡れた布の器を持ち上げた。外へ捨てに行くにはまだ砲声が近く、ひとまず壁際へ置くように言われた。
同じところには、先にいた患者さんのものも溜まっていた。
血のついた布。便で汚れた藁。底に尿の残った器。
身体を屈めると匂いが顔へ上がり、私は息を吐いたまま立ち上がった。奥へ置けば患者さんのそばへ近づき、入口へ置けば人が通れなくなる。
どこに置いても、誰かのすぐ隣だった。
*
少し休むように言われ、文子と千代の間へ座った。
壁に背中をつけると、服へ冷たい水が染みた。膝を伸ばそうとしたが、前に寝ている兵隊さんの足へ当たりそうで、引き戻した。
千代が袋を横へずらした。
「こっち、少し空く」
私は身体を寄せた。
座っているだけでよかった。何も持たず、立たず、次の呼び声が来るまで目を閉じられる。そのことが、どうしようもなくありがたかった。
けれど、瞼を下ろすと、入口の女の人が浮かんだ。
老人の腕を引き、荷物を受け止めていた。あの人たちは今、どこへ行ったのだろう。
「私、ここへ入りたかった」
声が出ていた。
文子が顔を向けた。
「外にいたとき、早く中へって。それしか考えてなかった」
千代は膝へ手を置いたまま聞いていた。
「あの人たちが出されたのに、場所ができて、ほっとした」
私は指を握った。
掌の擦れたところが痛んだ。
文子が、入口の方を見た。
「私も」
しばらくして言った。
「清美を座らせられると思った」
千代が顔を伏せた。
「信子を、下ろしたかった」
誰も、そのあとに大丈夫だとは言わなかった。
奥では患者さんが水を求めていた。入口では正夫が小さく咳をした。
私は目を開けたまま、壁へ背中を押しつけていた。
*
空が明るくなるころ、タエさんが袋を結び直していた。
私は入口へ向かった。
正夫は岩の窪みで眠っていた。母親が立つと目を覚まし、手を伸ばした。
「もう行くの」
「うん。別のところへ」
タエさんは子供を抱き、背中へ回そうとした。
私は袋へ手を掛けた。
「外まで、持ちます」
タエさんは昨日と同じように、ありがとうと言った。
坂を上がると、外は灰色だった。
畑の向こうに煙が残っていた。どこかで砲声がして、タエさんが足を止めた。正夫の身体を背中へ引き寄せ、音のした方を見た。
私は袋を渡した。
「どこへ行きますか」
「もう少し向こうで、入れるところを聞いてみる」
向こうがどちらなのか、私には分からなかった。
タエさんは袋を肩へ掛け、正夫の足へ触れた。巻いた布の端がほどけかけていたので、私はしゃがんで結び直した。
立ち上がると、奥から私の名前を呼ぶ声がした。
タエさんも聞いていた。
「戻りなさい。待ってる人がおるよ」
私は正夫を見た。
正夫は母親の肩越しに、壕の入口を見ていた。そこへ戻れると思っているのか、何も言わず、タエさんの襟を握っていた。
私は道の端へ退いた。
タエさんが歩き始めた。最初はゆっくりだったが、開けたところへ出る前に足を速めた。
袋が腰へ当たり、正夫の足が揺れた。
私は二人が岩の向こうへ見えなくなるまで立っていた。
もう一度名前を呼ばれ、壕へ戻った。坂を下りると、さっきまでタエさんが座っていた窪みが空いていた。
通りやすくなったところを、器を持った友達が上がってきた。
私は壁へ寄り、道を空けた。




