第88話 同じ列に
出発するまで、信子は担架の上で待っていた。
床へ置かれている間は、布が身体の下で弛んでいた。持ち上げると腰が沈むため、高橋さんは傷のそばへ当てる布の位置を何度も確かめた。
佳代が信子の顔へ屈んだ。
「寒くない?」
信子は首を振った。額に汗が浮いていたが、足先は冷えていた。佳代は掛け物を引き上げ、担架から垂れた端を折り込んだ。
私は入口へ行き、タエさんの袋を受け取った。
小さな包みだと思っていたのに、持つと重かった。着物の下へ器や食べ物を入れているのかもしれなかった。紐を手首へ掛け直すと、タエさんがすぐに手を伸ばした。
「いいよ。ここで」
「上まで持ちます」
正夫は母親の背中にいた。首へ腕を回し、片方の頬を肩へ押しつけている。足に巻いた布がタエさんの腰へ触れるたび、足先を引いていた。
入口へ続く坂を上がると、外の匂いが入ってきた。
壕の中の、湿った身体や便の匂いとは違った。焦げた草と、土と、その奥に腐ったものの匂いがあった。風が吹くたび濃くなり、私は口を閉じた。
タエさんへ袋を渡した。
「学生さんは、どっちへ行くの」
私は道を指せなかった。
「兵隊さんについていくので……」
タエさんは斜面の上を見た。暗がりを歩いていく人の肩が、時々重なって見えた。
「途中までは、後ろを歩いてもいいかね」
私は頷きかけ、入口の方へ振り返った。
野原さんが、担架を通すところの石を退けていた。
「この親子も、後ろから来てもいいですか」
野原さんはタエさんと正夫を見た。
「道は同じでしょう。ただ、向こうに入れるかは分かりません」
「はい」
タエさんはすぐに答えた。
「道だけでも、分かれば」
袋の紐を肩へ掛け、ずり落ちないように片手で押さえた。もう片方の手は、正夫の尻の下へ回されていた。
*
美代は、兵隊さんに背負われることになった。
担架はほかの患者さんにも使われていた。歩こうとしていた美代を見て、先生がもう一度頼みに行き、戻ってきた兵隊さんが壁際へしゃがんだ。
「腕を回して」
美代はその肩へ手を置いた。
傷のある足を動かすと、息が詰まった。千代が足を支え、私が背中へ手を添えた。身体が持ち上がったところで、美代の顔が兵隊さんの肩へ伏せられた。
「すみません」
「掴まっていてくれ」
兵隊さんは立ち上がり、腰を少し曲げた。
郁子が美代の袋を持った。自分の袋も同じ肩へ掛け、怪我をしていない腕で押さえた。
清美には幸子と文子がついた。
私は信子の担架へ戻った。千代が反対側へ来て、先を持つ兵隊さん二人と足の向きを合わせた。
「上げるぞ」
木を握り、膝を伸ばした。
信子が短く声を出した。高橋さんが顔のそばへ屈み、担架の布へ載せた腕を直した。
私は持ち手を握り直した。
入口の坂では、前の二人が先に高くなる。私たちは手を上げ、担架が傾きすぎないようにした。肘が伸び、傷のある膝へ重さが掛かった。
足元の石を越えるとき、千代が声をかけた。
「こっち、先に」
私は半歩待った。
信子の身体が揺れ、布を掴んだ指が見えた。
*
壕を出ると、空が見えた。
雲の下がぼんやり明るく、地面には黒い窪みがいくつもあった。畑を分けていたはずの石垣は崩れ、道との境が分からなくなっていた。
前を行く兵隊さんの足が、突然低くなった。
「穴だ。右へ」
担架が傾き、私は持ち手を持ち上げた。
信子が息を吸ったまま止めた。
「ごめん」
口から出た。
前の兵隊さんは返事をせず、足を置くところを探していた。私も同じところへ足を運んだが、兵隊さんの歩幅では届かず、間にもう一歩入れなければならなかった。
泥が履物の底へ貼りついていた。足を上げるたび、重さが残った。
途中、道の端に人が寝ていた。
顔は反対側を向き、片腕が身体から離れていた。袖の先に見えた手へ、蠅が集まっていた。
担架を通すため、私はその人の足元を避けた。
避けた先にも、誰かの身体があった。
布を掛けられている人も、何も掛けられていない人もいた。暗くて顔は見えなかったが、近づく前から匂いが分かった。息を止めても、持ち手を持って歩けばすぐに苦しくなり、私はまた口を開けた。
「止まるな」
前から声がした。
私は足元を見続けた。
*
照明弾が上がったとき、列が縮んだ。
前にいた人が身を低くし、その後ろの人が追いついた。誰かが伏せろと言った。
「担架、下ろすぞ」
兵隊さんの声に合わせ、私たちは膝を曲げた。
信子を地面へ下ろすと、高橋さんが掛け物を押さえた。佳代は担架の横へ伏せ、顔の方へ手を伸ばした。
私は窪みの縁へ身体を寄せた。
空が白くなった。横にいる千代の顔も、軍服の背中も、崩れた石の一つずつも見えるようになった。
離れたところに、タエさんがいた。
正夫を背負ったまま屈もうとして、袋が前へ滑っていた。母親の首を掴んでいた正夫の腕が緩み、タエさんは慌てて背中へ手を回した。
私はそちらへ動きかけた。
そのとき、信子が呻いた。
担架の端が石へ載り、身体が斜めになっていた。高橋さんが私を呼んだ。
「こっちを、少し上げて」
私は持ち手へ戻った。
石から外し、平らなところへ置き直した。信子の顔へ掛け物が掛かっていたので、佳代が引いた。
明かりが薄れていく間、私はタエさんの方を見ていた。
誰かが袋を拾って渡していた。タエさんは頷き、正夫を背負い直していた。
*
立ち上がってから、右手の指が痛くなった。
木の角が同じところへ当たり、掌の皮が擦れていた。握る位置をずらすと担架が揺れたため、元へ戻した。
少し進んだところで、敏子が肩へ触れた。
「代わる」
私は首を振りかけたが、敏子はもう持ち手のそばへ手を出していた。
「下ろしてから。先生に言ってある」
兵隊さんが足を止め、私たちは担架を下ろした。
手を離すと、指がすぐには伸びなかった。敏子がそこを握り、良子が千代と代わった。
私は担架の後ろへ回った。
荷物だけで歩く身体が軽く、足を速めそうになった。けれど、担架はゆっくり進んでいた。私はその速さに合わせ、信子の顔が見えるところを歩いた。
千代が私の手を見た。
「布、巻けば」
「次に持つとき、滑らないかな」
千代は自分の掌を擦った。
「少しだけなら」
私は袋から小さな布を出した。歩きながらではうまく巻けず、千代が端を押さえた。結ぶほどの長さはなく、握ったときだけ掌へ挟むことにした。
前で信子が顔を動かした。
「理恵」
「後ろにいるよ」
私は答えた。
信子は目を閉じた。声が聞こえれば、それでよかったようだった。
*
列が二つに分かれたのは、崩れた家のそばだった。
先頭の野原さんが戻り、病院の者は右へ進むと言った。暗がりから、どちらが海か尋ねる声がした。
「右は、壕へ行く道ですか」
タエさんだった。
私は振り返った。
正夫は母親の背中で眠っていた。袋を掛けた肩が下がり、タエさんは身体を傾けて歩いていた。
「そうです。ただ、入れるかどうかは」
「分かっています」
タエさんは言った。
「この子を、一度だけでも下ろしたいんです」
野原さんは道の先を見た。
それから、列の後ろについてくるように伝えた。
私はタエさんのそばへ寄り、袋の底を持った。
「持つよ」
「学生さんも、荷物があるでしょう」
「今は、担架、代わってもらってるから」
紐を肩から外してもらい、自分の袋と一緒に持った。腕へ重さが掛かったが、タエさんの身体が少し真っ直ぐになった。
正夫の頬が、母親の肩から離れた。
寝たまま、口が小さく開いていた。
*
次の壕へ着いたとき、入口に人が立っていた。
先に来ていた兵隊さんが中へ声をかけた。返事があり、野原さんが下りていった。
私たちは外で待った。
担架を置く場所を探すと、足元に荷物があった。紐で縛った布の包みと、蓋のない籠だった。
奥から、女の人の声が聞こえた。
「まだ、中に父がおります」
続いて、強い声がした。
「ここは軍が使う。早く出ろ」
私は入口を見た。
灯りを持った女の人が、坂の途中で止まっていた。その後ろから、背の曲がった老人が這うように上がってきた。片手を石へつき、もう片方の手を女の人へ伸ばしていた。
「今、連れて出ますから」
女の人は灯りを足元へ下ろし、老人の腕を取った。
私はタエさんの袋を持ったまま、動けなかった。
老人が入口を越えると、後ろから布の包みが押し出された。女の人が慌てて受け止め、膝へ載せた。
信子の担架を持つ兵隊さんが、前へ進むよう言った。
「そこ、空けてくれ」
女の人が顔を上げた。
担架を見てから、老人の肩を抱いて横へ寄った。私たちと同じように泥で汚れた服を着ていた。灯りが下から顔を照らし、頬に流れた汗の筋が見えた。
高橋さんが入口の幅を確かめた。
敏子と良子が担架を持ち上げたので、私は前へ回り、岩へ当たらないよう端を支えた。
信子を中へ入れるためには、そこを通らなければならなかった。
女の人の荷物を跨いだ。
足を下ろすとき、紐へ引っかからないように見ていた。そのすぐ横で、老人の手が地面へつかれていた。爪が割れ、指先に土が詰まっていた。
私は何も言えず、その人たちが今までいた場所へ入っていった。




