第87話 持っていけるもの
水が届いたのは、夜が明ける少し前だった。
野原さんと、もう一人の兵隊さんが容器を下ろした。外へ出ていた良子と敏子も戻り、入口の脇へ腰を下ろした。良子は容器から手を離したあとも、指を曲げたまま掌を見ていた。
私は高橋さんに呼ばれ、器を持っていった。
「こぼさないようにね」
言われる前から、両手で支えていた。
水面には細かなものが浮いていた。それでも、底が見えるほどしか残っていなかった昨日の容器とは違った。掬うと重さが手へ掛かり、そのことだけで胸が緩みかけた。
野原さんが、島袋先生を入口へ呼んだ。
「次は、同じところへ行けません」
私は立ち止まった。
「向こうまで来ています。戻るとき、道を変えました」
先生は外へ目を向けた。まだ暗く、入口から見える空は岩の隙間に細く残っているだけだった。
「では、水は」
「別を探します。ただ、ここに残るかどうかも、先に決めんと」
高橋さんが私の器へ手を添えた。
「先に、飲ませてきて」
私は頷き、奥へ戻った。
信子の口元へ器を持っていくと、目が開いた。昨日より長く飲もうとして、途中でむせた。私は慌てて傾きを戻し、背中を支えた。
「ゆっくり。まだあるから」
そう言うと、信子の指が私の腕へ触れた。
その手は離れなかった。器を下ろしても、次に飲めるのを待つように、私の腕へ載っていた。
*
朝のうちに、壕の入口へ土が崩れた。
最初の砲弾は、どこへ落ちたのか分からなかった。低い音のあと、天井から砂が降り、私は信子の顔へ布を掛けた。
次は近かった。
入口の明かりが一度、土煙で塞がった。外にいた兵隊さんが飛び込み、奥へ下がれと叫んだ。誰かの足が器へ当たり、水が床へ広がった。
タエさんが正夫を抱き上げた。
正夫は眠っていたらしく、突然持ち上げられて泣き始めた。タエさんは子供の頭を胸へ抱え、自分の背中を入口へ向けた。
私は信子の布を押さえたまま、伏せた。
揺れがおさまっても、土の落ちる音は続いた。歯の間へ砂が入り、舌で押し出すと、唾がざらついた。
「怪我した者は」
兵隊さんの声がした。
返事が重なった。大丈夫だと言う声の間に、入口が埋まっていないか尋ねる声が聞こえた。
敏子が立ち上がろうとして、先生に止められた。
先に兵隊さんが外を確かめた。戻ってきたとき、肩と帽子に細かな土がついていた。
「通れます。上の縁が崩れただけです」
私は信子の顔から布を外した。
瞼にも土がついていた。指で払おうとすると、信子が首を動かした。
「今の、入口?」
「近くだったみたい」
「出られる?」
「通れるって」
信子は入口を見ようとしたが、身体を捻りかけて顔を歪めた。私は肩へ手を置き、横になったままでいいと伝えた。
その言葉を聞きながらも、信子の目は入口の方へ向いていた。
*
昼を過ぎ、島袋先生が私たちを呼んだ。
全員が一度に集まれる場所はなかった。歩ける子が壁際へ寄り、先生は寝ている信子や美代にも聞こえるところへ膝をついた。
「今夜、ここを出ることになりました」
誰もすぐには動かなかった。
郁子が包帯の腕を抱え直した。清美は隣に座っていた幸子の顔を見た。
先生は続けた。
「先に兵隊さんが行って、移る場所を確かめています。持つ荷物は少なくしてください。歩ける人で、怪我をした人を助けます」
「信子も、連れていけますか」
佳代が聞いた。
先生は信子を見た。
「運ぶように、頼んでいます」
「担架で?」
「そのつもりです」
私は膝の上で手を握った。
そのつもり、と先生は言った。
前にも担架はあった。照子を載せることができ、四人で持ち上げることもできた。それでも、途中で私たちの腕が上がらなくなった。
玲子は顔を伏せていた。
先生が次の話をしている間、私はその膝に載った袋を見た。照子のものだった。玲子は紐を指へ巻きつけ、解いては、また巻き直していた。
*
美代は、自分で立つと言った。
高橋さんが傷を確かめたあと、千代と私で両脇へついた。郁子は怪我をしていない方の手で、美代の荷物を持っていた。
「ゆっくりでいいから」
千代が言った。
美代は壁へ手をつき、片方の足を引き寄せた。もう片方を動かす前に、息が止まった。
「待って」
私たちは動くのをやめた。
美代は唇を噛み、しばらくしてから腰を浮かせた。私の腕へ身体の重さが掛かった。立ち上がると、傷のある足を床へつけられず、千代の肩へ額を寄せた。
「ついた方が、いい?」
「無理しないで。高橋さんに聞こう」
私は答えた。
美代は首を振った。
「つけないと、歩けない」
足先を下ろした。
身体が急に傾き、私は脇へ腕を入れ直した。美代の喉から声が漏れた。高橋さんが近づき、いったん座らせるように言った。
元の場所へ戻ると、美代は私たちの腕を掴んだまま、泣き始めた。
「さっきより、できたよ」
千代が言った。
美代は首を振り続けた。
「これじゃ、途中で」
その先を言わなかった。
私は美代の手を外さず、隣へ座った。歩けるかどうか確かめるために立たせたのに、今はもう一度試そうと言えなかった。
*
荷物を開くと、まだ持っていたのかと思うものが出てきた。
折った手拭い。糸の少なくなった裁縫の包み。使えるところを切り取って、小さくなった布。
私は一つずつ膝へ載せた。
美咲は袋の底から、空の包みを出した。何が入っていたものかは分からなかった。内側へ指を入れ、何も残っていないと確かめてから、床へ置いた。
「これ、捨てる」
私へ伝えるように言った。
私は頷いた。
美咲はしばらくその包みを見ていたが、やがて、ほかの使えない布と一緒に壁際へ寄せた。
文子が私の裁縫の包みへ触れた。
「それは、持っていこう」
「うん」
小さな針だった。
春子に貸すはずだったものが、今も中に入っていた。包みを開かず袋へ戻し、その上へ布を載せた。
持ち手を結ぶと、さっきより軽くなった。
何を置いたのか、もう一度見たくなったが、ほどかなかった。
*
タエさんも荷物を広げていた。
正夫を膝へ載せ、小さな着物を畳んでいる。肩のところに継ぎがあり、袖口は何度も縫い直されていた。
「ここにいる人も、一緒に行くんですか」
私が尋ねると、タエさんは手を止めた。
「兵隊さんは、病院が移るとしか」
正夫が母親の帯へ顔を押しつけた。
「私たちは、自分で行き先を探さないといけないのかね」
私は先生の方を見た。
先生は野原さんと、担架を持つ人数を相談していた。寝ている人を順に見て、誰が歩けるか尋ねている。
タエさんは着物を袋へ入れた。
「この子が歩けたら、両手が空くんだけど」
私は正夫の足へ目を落とした。巻いた布は汚れ、足裏を庇って、床につけないようにしていた。
「荷物、入口までは持ちます」
それより先のことは言えなかった。
タエさんは私の顔を見てから、ありがとう、と言った。
*
暗くなる前に、信子を担架へ移した。
高橋さんの指示で身体を支えると、信子は声を出さないよう口を閉じた。けれど、腰が動いたところで堪えきれず、佳代の名前を呼んだ。
「いるよ」
佳代が顔のそばへ寄った。
「ここにいる」
担架へ下ろしてからも、信子の呼吸は落ち着かなかった。高橋さんが布の位置を直し、足元へ薄い掛け物を載せた。
私は持ち手へ回った。
千代が反対側へ立った。兵隊さん二人がもう一方を持ち、高橋さんの声に合わせて、少しだけ持ち上げた。
信子の身体が布へ沈んだ。
木が掌を押し、傷のある膝へ重さが掛かった。私は足を開いて踏ん張った。
「一度、下ろそう」
高橋さんが言った。
床へ戻すと、私はすぐに手を離した。
掌へついた跡を見ていたとき、信子が私を呼んだ。
「理恵、膝」
私は顔を上げた。
「大丈夫?」
佳代の手を握ったまま、信子が聞いた。
私は頷いた。まだ一歩も運んでいないのに、息が上がっていた。
信子は私の返事を待っていた。
「歩けるよ」
私は言った。
その声を聞いて、信子がようやく目を閉じた。
持ち手のそばへ、もう一度しゃがんだ。今度はすぐに握らず、指を一本ずつ曲げてから、木へ掌を当てた。




