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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第86話 ひと口の分け方



 敏子たちが戻ってきたとき、私は信子のそばにいた。


 入口から下りてきた良子が、担架の持ち手を壁へ立てかけた。木が石に当たる音がして、美代が顔を上げた。


 誰も載っていない布には、京子を運んだときの跡が残っていた。


 良子はそれを内側へ折った。敏子が反対側を持ち、二人で畳もうとしたが、片方の端がうまく揃わなかった。いつもなら引き直すところを、そのまま重ねて入口の脇へ置いた。


 美代は何か尋ねようとして、口を閉じた。


 島袋先生が二人のそばへ行った。小さな声で話す間、敏子は足元を見ていた。良子のもんぺの膝には土がつき、爪の間にも黒いものが入り込んでいた。


 私は信子の手から、自分の手を抜いた。


「布、持ってくるね」


 信子は頷かなかった。目だけが私を追い、それから担架の方へ戻った。


     *


 翌日、ご飯を運んできた和子は、器を置いてもしばらく手を離さなかった。


 中には、芋の欠片と、米の混じった薄い汁が入っていた。底に沈んだものをかき混ぜると、小さな白い粒が浮き、すぐにまた見えなくなった。


「これで、ここにいる学生の分」


 和子が言った。


 千代が器の中を見た。


「もう一つ、来る?」


 和子は首を振った。


 私はそばに置いた空の器を数えた。京子へ使っていたものも、昨日洗って重ねてあった。


 手に取ってから、戻した。


 和子がそれを見たが、何も言わなかった。


「先に、寝てる人の分を分けよう」


 千代が膝を寄せた。


 汁を掬うと、芋の欠片が一つ、匙へ載った。千代はそれを信子の器へ入れ、次の匙では底を探った。けれど、同じ大きさのものはなかなか出てこなかった。


 私は器を押さえた。


 芋を細かくすれば、みんなのところへ入れられる。千代も同じことを考えたらしく、匙の縁で欠片を割ろうとした。煮崩れたところだけが離れ、固い芯が器の底へ滑った。


 それを追ううちに、千代の手が止まった。


「誰の分か、分からなくなる」


 声が低かった。


 私は並べた器を見た。汁の深さを揃えても、底に入った米や芋の量までは揃わなかった。


「一つずつ、回して入れよう」


 文子が言った。


 私たちは器を並べ直した。一度に満たさず、少しずつ順番に掬った。最後には匙へ載るものがなくなり、和子が元の器を傾けて、残った汁を集めた。


     *


 信子は身体を起こす前から、顔をしかめた。


 高橋さんに教わったように、佳代と二人で背中を支えた。腰の傷へ体重がかからないようにすると、身体が片側へ傾き、佳代の腕へ重さが掛かった。


「これで、どう?」


 私が尋ねると、信子は浅く息をした。


「少しだけ」


 私は器を口元へ近づけた。


 唇が乾き、細かく割れていた。汁が触れたところを舌で湿らせ、信子は一口飲んだ。それから目を閉じた。


 飲み込むまで待って、もう一度傾けた。


「佳代は、食べた?」


 信子が聞いた。


「あとで食べるよ」


 佳代が答えた。


「先に、信子」


 信子の視線が器へ落ちた。


 私は底に残った芋を匙へ載せた。小さな欠片だったが、信子は口を開けず、その後ろにいる佳代を見た。


「半分」


「私のもあるから」


 佳代はすぐに答えた。


 けれど、信子は口を閉じたままだった。背中を支えられていることにも耐えられなくなったのか、額に汗が浮き、指が布を掴んだ。


「横になる?」


 私が聞くと、ようやく頷いた。


 器を置き、二人でゆっくり寝かせた。傷のそばに敷いた布は、昨日より湿っていた。血だけではない、濁ったものが布の端へ滲み、身体を動かした途端に、甘く腐ったような匂いが上がった。


 私は掛けていた布を戻した。


「高橋さん、呼んでくる」


 信子は目を閉じたまま、佳代の袖を握っていた。


     *


 自分の分を飲んだあとも、腹は空いていた。


 器の内側に米粒が一つ残り、私は指で寄せて口へ入れた。爪の間に入り込んだ土は、拭いても取り切れなかった。指先の匂いが口元まで来たが、米を落としたくなくて、そのまま舌で取った。


 隣では、千代が器の縁を拭っていた。


 私は見られたくなくて、器を膝の間へ下ろした。千代も顔を上げなかった。


 奥から、正夫の声が聞こえた。


「もっと」


 タエさんが、もうないよ、と答えた。


 正夫は母親の器へ手を伸ばした。タエさんはそれを引かず、自分が飲もうとしていた分を、もう一度子供の口へ持っていった。


 私は自分の器を見た。


 底は空だった。それでも、もし一口残っていたら渡せただろうかと考えた。


 さっきまでは、米粒一つも諦められなかった。


 正夫がまた、もっと、と言った。タエさんは器を裏返して見せ、それから子供を胸へ抱いた。


 私は器を重ねるため立ち上がった。膝の傷が引き攣り、壁へ手をついたとき、目の前が暗くなった。


「理恵」


 文子の声がした。


 返事をしようとしたが、耳の奥で水の流れるような音が鳴っていた。私はその場へしゃがみ、器を床へ置いた。


 文子が肩を支えた。


「少し、待って」


「平気。立つの、急いだから」


 そう言っても、文子は手を離さなかった。


 暗さが薄れてくると、床に置いた器が見えた。縁が欠け、そこへ黒い汚れが入り込んでいた。


 昨日も、同じ器を持って歩けていた。


     *


 午後、軍医が信子の傷を診た。


 私は灯りを持ち、佳代が信子の手を握った。布を剥がすとき、傷へ貼りついた部分が離れず、高橋さんは少しずつ湿らせながら外した。


 信子の息が速くなった。


「待って、ください」


 軍医の手が止まり、高橋さんが顔の方へ声をかけた。


「今、外してるところ。引っ張らないようにするから」


 傷の縁は赤く腫れていた。奥に溜まったものが動くと、信子は佳代の手へ爪を立てた。佳代は痛いと言わず、握り方だけを変えた。


 私は炎を近づけすぎないよう、灯りを持ち直した。


 腕が震えた。


 空腹のせいか、眠っていないせいか、自分でも分からなかった。傷の上へ落とすことが怖くて、もう片方の手で手首を押さえた。


 高橋さんがそれに気づき、文子を呼んだ。


「寺田さんと代わって」


「持てます」


 私は言った。


「代わってもらって。ここへ落ちたら困るから」


 文子が隣へ来た。


 灯りを渡すと、急に腕が軽くなった。その軽さが恥ずかしく、私は何かできるものを探して、使い終えた布へ手を伸ばした。


 布は温かかった。


 信子の身体から出たものが、掌へ滲んだ。


     *


 夕方、和子が当番の紙を広げていた。


 美代と郁子は外へ出せず、信子は寝たままだった。清美も、まだ人に支えられなければ長く歩けない。静子は肩を使う仕事から外されていた。


 和子は名前を書いてから消し、別のところへ移した。


「明日の水は」


 私が聞くと、鉛筆が止まった。


「まだ、先生が兵隊さんに聞いてる」


 紙の隅には、京子の名前が残っていた。


 私はそこを見てしまった。和子も気づき、紙を少し引いた。


「ここ、直さないと」


 私は頷いた。


 けれど、鉛筆は動かなかった。


 やがて和子は、京子の名前へ細い線を引いた。文字が読めるくらいの、一本だけだった。その隣へ、別の友達の名前を書いた。


 次の当番が決まった。


 その子が戻らなかったら、また別の名前を書くのだと思った。


     *


 夜になってから、入口で兵隊さんたちが話していた。


 外の道が昼間より通りにくくなったこと。近くの畑へ砲弾が落ち続けていること。水を取りに行くなら、これまでの道では危ないということ。


 私は布を運ぶ手を止めた。


「ここも、いつまでもおれんぞ」


 一人が言った。


 別の兵隊さんが、奥に寝ている人たちを見た。


「動けるうちに考えんと」


 その言葉を聞き、私は信子の方へ振り返った。


 佳代がそばに座っていた。美代は少し離れたところで、痛む足を伸ばしている。郁子は包帯を巻いた腕を胸へ載せ、眠っているのか、目を閉じているだけなのか分からなかった。


 千代が私の隣へ来た。


「まだ、決まったわけじゃない」


 私の見ている方を見て、小さく言った。


「うん」


 私は答えた。


 前の壕を出るときにも、最初は決まっていなかった。


 照子が、明日なら立てるかもしれないと話していた。そのあと私たちは担架を持ち、何度も交代して、それでも最後まで運べなかった。


 信子のそばへ戻ると、目が開いた。


「明日、水、来る?」


 私は膝をついた。


「先生が、頼んでる」


 信子は頷き、唇を閉じた。喉が動いたが、飲み込むものはなかった。


 私は残っている水の器を手に取った。底にわずかに溜まっていた分を傾けると、信子が顔を上げようとしたので、首の後ろへ手を入れた。


 ゆっくり飲ませた。


 最後の一滴が器の縁に残り、私は角度を変えた。信子の唇へ届いたのを確かめてから、空になった器を下ろした。


 明日の水を汲みに行く友達の名前を、まだ聞けずにいた。

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