第85話 袋を開ける
京子の息を数えていた。
口元が動き、少し遅れて胸が上がる。下がったあと、次が来るまで待つ。その間が長くなると、私は握っている手へ力を入れ、名前を呼んだ。
返事はなかった。
軍医がもう一度そばへ来た。高橋さんが灯りを寄せ、私は邪魔にならないよう身体を引いたが、手だけは離せなかった。
京子の手首へ、軍医の指が触れた。
その指が外れるのを待った。外れたら、また名前を呼ぼうと思っていた。けれど軍医は胸元を確かめ、顔へ近づき、それから高橋さんを見た。
高橋さんが小さく頷いた。
「先生」
私が呼ぶと、軍医は顔を向けた。
「亡くなった」
声は近くで聞こえたのに、言われたことが分からなかった。
私は京子の口元を見た。さっきまで動いていたところだった。水をほしがり、美代を呼び、お母さんと言った口が、少し開いたままになっていた。
「もう一度、見てください」
自分の声が聞こえた。
軍医は京子を見てから、私へ目を戻した。
「……もう、息をしていない」
私は京子の手を握り直した。
指が私の掌の中で動いた。握り返されたのだと思い、顔を上げた。
けれど、それは私が動かした分だけだった。
*
美代が京子を呼んだ。
私は返事をする代わりに、顔を向けた。
「京子、寝たの?」
美代は私と高橋さんを見比べた。
高橋さんがそばへ移り、膝をついた。
「美代さん」
名前を呼ばれ、美代の顔が変わった。
「嫌」
高橋さんが続きを言う前だった。
「戻ってきたでしょう。さっき、話したでしょう」
美代は肘をついて身体を起こした。腿が動き、顔を歪めたが、そのまま京子の方へ手を伸ばした。
千代が背中を支えた。
「足、動かさないで」
「京子」
美代は千代を見なかった。
伸ばした手が、京子の上着へ届いた。袖口を掴み、少し引いた。
「起きて。袋、ここにあるから」
私は握っていた手を、布の上へ戻せなかった。
美代が呼ぶたび、まだ聞こえているかもしれないと思った。私たちの声が聞こえていて、返事をする力だけがなくなっているのかもしれなかった。
高橋さんが、美代の手へ自分の手を添えた。
美代は袖を離さず、顔を伏せた。
*
京子についていた兵隊さんが、壁際からこちらを見ていた。
足へ布を巻かれ、片膝を伸ばして座っていた。野原さんがそばへ屈み、何かを伝えると、その人はしばらく黙っていた。
「連れてきたんだがな」
低い声だった。
私はその人を見た。
「昼は、話してた」
兵隊さんは自分の掌へ目を落とした。
「暗くなれば迎えが来るって、言ってたんだが」
先生がそばへ行った。
「一緒にいてくださって、ありがとうございました」
兵隊さんは首を振った。
それ以上は話さなかった。伸ばした足の先を見つめ、軍服の裾を握っていた。
私は京子の顔へ戻った。
一人ではなかったと、京子は言った。
その言葉を聞いたときには、ここまで帰ってこられたことが、何かを取り戻したように思えた。
*
高橋さんに言われ、私はようやく手を離した。
京子の腕を身体のそばへ戻すと、袖が捲れていた。そこへ土が入り込んでいたので、指で払った。すぐに文子が布を持ってきた。
二人で顔の泥を拭いた。
水はほとんど残っていなかった。濡らした布の一角を使い、頬を拭いては折り返した。目の下に残っていた筋が消えると、京子の顔が少し見慣れたものに近づいた。
学校で隣の席へ顔を向けるとき、こんなふうに髪が頬へ掛かっていた。
私はその髪を耳の後ろへ寄せた。
文子が口元へ布を当てた。手が止まり、また動いた。
「痛くないね」
文子が言った。
私は返事をしなかった。
もう痛くないことを、よかったとは思えなかった。
*
京子の袋を、先生の前へ置いた。
「中を確かめておこう」
先生が言った。
「家の人へ渡せるものは、分けておきたいから」
美代も近くにいた。横になったまま、袋へ顔を向けていた。
結び目は固く締まっていた。
私は爪を差し入れた。紐は湿っていて、引くとさらに締まりそうだった。文子が袋の口を寄せ、少し緩んだところを私が引いた。
京子は朝、一度ほどいて結び直した。
その手つきを見ていたのに、同じようには開けられなかった。
ようやく紐がほどけた。
袋の中には、畳んだ手拭いと、小さな裁縫道具の包みがあった。着替えの布は底へ押し込まれ、角が湿っていた。
先生が一つずつ取り出した。
薄い紙が、手拭いの間から出てきた。
「それ」
美代が言った。
「家からの」
先生は手を止めた。
「お母さんの手紙?」
美代は頷いた。
「前の壕で、何度も読んでた」
先生は紙を開かず、乾いている布の上へ載せた。
私は折り目を見た。何度も開いたところが白く擦れ、角が丸くなっていた。
家の人は、その紙を京子へ渡した。
京子が読むことを考えて、字を書いた。
*
裁縫道具の包みを戻そうとすると、美代が顔を上げた。
「針、貸してもらってた」
私は手を止めた。
「返した?」
尋ねると、美代は少し考えた。
「分かんない。自分のと一緒になって」
美代はそばの袋へ手を伸ばしたが、届かなかった。千代が取って渡すと、中を探り、小さな包みを出した。
針を見ても、どれが京子のものかは分からなかった。
「返さなきゃ」
美代が言った。
先生がその手を包むように押さえた。
「今は、しまっておこう。なくさないように」
美代は包みを閉じた。
膝の上へ置いていた手が、ゆっくり布の上へ下りた。
私は京子の手紙を手拭いで包み、先生へ渡した。先生は自分の荷物の中へ入れ、ほかのものを袋へ戻した。
誰も、これを家へ届けられると約束しなかった。
*
夜のうちに、京子を外へ運んだ。
私は入口まで一緒に持った。反対側を千代が支え、敏子と良子が外で待っていた。
同じ担架だった。
戻ってきたときには、岩へぶつけないよう気をつけ、少し傾くたびに京子へ声をかけた。今も、私は同じところを支えた。
「ここ、上げるよ」
言ってから、返事を待っていることに気づいた。
千代は持ち手を握ったまま、私を見なかった。
入口で担架を渡した。京子の顔には布が掛けられていたが、足元の端が外れた。私はそれを直し、下に押し込んだ。
敏子が頷いた。
四人が斜面を上がっていった。
外は暗く、遠いところが時折白くなった。私は入口の内側へ戻り、その光がこちらまで届かないことを願った。
*
空いた場所へ戻ると、京子の袋が置いてあった。
美代は壁の方を向いていた。信子は目を開け、佳代から話を聞いていた。
信子が私を見た。
「連れて帰ったのに」
私はそばへ座った。
信子の唇が震えた。
「帰ってきたのに」
私は掛けていた布の端を握った。
信子を連れてきた美代と郁子も、京子を連れてきた敏子と良子も、身体を痛め、外の音に伏せながら戻ってきた。
それでも、京子は死んだ。
私は信子の手が出ているところへ、自分の手を置いた。傷を響かせないよう、握らずに触れた。
しばらくして、信子が目を閉じた。
隣で美代が寝返りを打とうとして、痛みに息を漏らした。千代が支え、文子が足元の布を直した。
私は立ち上がった。
京子のいた場所を通るとき、袋を踏まないように足を避けた。入口へ戻る友達のために、通路の器を壁際へ寄せた。




