第84話 名前を呼んで
暗くなっても、すぐには出られなかった。
入口の向こうから白い光が入り、斜面の草が一本ずつ見えた。昼の光とは違っていた。影が急に濃くなり、それまで見えなかった石の縁が浮かんだ。
敏子と良子が、担架を持ったまま屈んだ。
野原さんが手を上げていた。
「待って」
私は入口の下で、二人の足元を見ていた。敏子の履物の紐が緩んでいたので、指を差し入れて直した。立ち上がろうとすると膝が痛み、壁へ手をついた。
光が薄くなった。
外で砲声がして、少し遅れて地面が震えた。良子は担架の持ち手を握り直した。巻いた布の端が外れかけていたが、直す余裕はなかった。
野原さんが先に上がった。
もう一人の兵隊さんが続き、敏子と良子が担架を運び出した。木の枠が入口の岩へ触れ、私は下から押し上げた。
良子の足が斜面へ届いたところで、手を離した。
二人の背中が見えなくなった。
*
京子の袋を、美代のそばへ置いた。
美代は横になったまま、紐へ手を伸ばした。指で結び目を確かめ、それから手を下ろした。
「出た?」
「うん」
「二人とも?」
「敏子と良子。野原さんたちも」
美代は頷いた。
文子がその頭の下の布を直した。美代は動かされる前に息を止め、腿が揺れると眉を寄せた。
信子は隣で目を閉じていた。
佳代が顔の汗を拭いていたが、布を離すとすぐに、また額へ汗が浮いた。呼びかければ目を開けたものの、話すときには何度も息を継いだ。
私は京子を寝かせる場所へ、畳んだ布を運んだ。
先生が患者さんの家族へ頼み、少しずつ場所を空けてもらっていた。タエさんは正夫を抱えたまま岩の出っ張りへ腰を寄せ、足元にあった包みを膝へ載せた。
「ここへ来るの?」
正夫が尋ねた。
「そう。怪我した人が戻ってくるから」
私が答えると、正夫は自分の巻かれた足を見た。
それから、母親の腕へ身体を預けた。
*
待っている間、高橋さんに布を数えるよう頼まれた。
乾いたものを重ね、まだ使えるものを分けた。大きな布は少なく、傷へ当てるための小さなものばかり残っていた。
千代が隣へ座った。
「これも」
差し出されたのは、畳んだ手拭いだった。
「自分の?」
「うん」
私は受け取った。
千代は手を引いてから、膝へ置いた。爪の周りに黒い汚れが入り、指の関節が赤く割れていた。
「帰ってくるよね」
千代が言った。
京子のことなのか、迎えに行った二人のことなのか、分からなかった。
私は入口を見た。
「戻ってきたら、すぐ使えるようにしよう」
千代は頷き、布の端を揃えた。
外で爆発があった。
器の中のわずかな水が揺れた。私たちは手を止め、天井を見た。土が落ちてこないことを確かめてから、また布を畳んだ。
*
足音がしたとき、最初に気づいたのは先生だった。
入口へ向かい、外へ声をかけた。返事があり、すぐに、下を持ってくれ、と野原さんの声が続いた。
私は千代と立った。
担架の先が入口へ入ってきた。低い天井に引っかからないよう傾けられ、良子がその端を支えていた。
京子が載っていた。
顔へ掛かりかけた布を、敏子が直した。
「頭、ぶつけないで」
私は持ち手を受け取り、千代と一緒に下ろした。京子の髪が布へ広がり、そこから湿った土の匂いがした。
「京子」
呼ぶと、瞼が少し動いた。
私はもう一度呼んだ。
「理恵だよ。着いたよ」
唇が開いた。
声は聞こえなかったが、息が出ていた。
美代が起き上がろうとした。
先生が肩を支え、横になったまま顔を向けられるようにした。
「京子、ここ」
美代が言った。
「袋も、持ってるから」
京子の目が、声の方へ動いた。
*
腰から腿にかけて巻かれていた布は、何重にもなっていた。
高橋さんが確かめると、内側まで血が染みていた。もんぺには泥が固まり、裂けたところから下に着た布が見えていた。
軍医が灯りを寄せるよう言った。
文子が京子の足元へ回り、私は顔のそばへ膝をついた。
身体を動かすと、京子が短く声を出した。その声を聞いて、私は肩の力が抜けかけた。声が出る。痛いと分かる。ここまで連れてこられた。
けれど、軍医の顔は変わらなかった。
高橋さんへ指示を出し、京子の手首に触れ、それから顔を確かめた。
私は京子の頬についた泥を見た。
目の下で乾き、涙の通ったところだけ筋になっていた。唇も乾いていた。
「ずっと、外にいたから」
敏子が背後で言った。
「兵隊さんが、掛けてくれてたけど」
入口から、一人の兵隊さんが支えられて入ってきた。
京子についていた人だった。野原さんに腕を回し、足を引きずっていた。軍服の膝が破れ、その下にも布が巻かれていた。
その人は京子が下ろされた場所を見て、ようやく壁へ背をつけた。
*
「水」
京子が言った。
私は顔を近づけた。
「水、ほしい?」
小さく頷いた。
高橋さんを振り返ると、口を湿らせる分だけ、と言われた。私は器へ手を伸ばしたが、残った水が少なく、布の端を濡らすのにも時間がかかった。
京子の唇へ当てた。
その口が布を追った。
「もう少し」
私は高橋さんを見た。
高橋さんは京子の顔を見てから、もう一度だけ、と言った。
布を濡らし直した。京子は口を開け、そこへ顔を寄せようとしたが、身体を動かす力がなかった。
私は手を近づけた。
「ここ。ここにあるよ」
京子の指が、私の手へ触れた。
冷たかった。
*
処置が続く間、京子は何度か美代を呼んだ。
美代はそのたび返事をした。二人の間には高橋さんや軍医がいたが、美代の声が聞こえると、京子の目はそちらへ向いた。
「美代、寝てる?」
「起きてるよ」
「怪我……」
「手当てしてもらった。今は横になってる」
京子は少し黙った。
「私、呼んでた」
美代の顔が歪んだ。
「聞こえなくて、ごめん」
「ううん」
京子は息を継いだ。
「兵隊さん、いた」
壁際の兵隊さんが顔を上げた。
「一人じゃ、なかった」
美代は頷いた。京子から見えているかどうか分からなかったが、何度も頷いた。
軍医が布を動かすと、京子の肩が強張った。
私は差し出された手を取った。
京子は私の指を握ろうとした。力は弱く、少し動いて止まった。
*
しばらくして、京子の返事が遅くなった。
名前を呼ぶと目を開ける。けれど、何を尋ねたのか伝える前に、また瞼が下りた。
私は手を握ったまま、高橋さんを見た。
高橋さんは軍医に何かを伝えた。軍医が京子の顔へ近づき、胸元を確かめた。
「先生」
私の声に、美代も顔を上げた。
軍医は京子の名前を呼んだ。
瞼が動いた。
「京子、聞こえる?」
私は続けて呼んだ。
唇が動き、耳を近づけると、かすかな声がした。
「お母さん」
私は返事ができなかった。
京子の手を包み直した。指の付け根にも土が入り、爪の端が欠けていた。朝、荷物の紐を結び直していた手だった。
「家に……」
そこで声が途切れた。
私は顔を近づけたまま待った。
京子は目を閉じていた。息をするときだけ、口元がわずかに動いた。
高橋さんが私の肩へ触れた。
「名前を呼んでいて」
私は頷いた。
「京子」
美代が、少し離れたところから同じ名前を呼んだ。
私はその声が終わるのを待ち、また呼んだ。
京子の指を、離さずにいた。




