↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

83/124

第83話 日が落ちるまで



 郁子の袖を脱がせることができず、美咲が縫い目を切った。


 布が開くと、腕に巻かれたものが見えた。外で押さえてきた布は血を吸って硬くなり、皮膚へ貼りついていた。高橋さんが端を動かすたび、郁子の肩が上がった。


 私は郁子の反対側へ座った。


「手、ここに置いて」


 膝の上へ布を載せると、郁子は傷のない方の手を置いた。指が震えていた。掌には担架を握った跡があり、擦れたところへ泥が入り込んでいた。


「美代は」


「そばにいるよ」


 郁子は私の肩越しに見ようとした。


 美代は横になっていた。腿の処置が終わり、足を動かさないよう言われていたが、入口で人の声がするたびに頭を上げた。そのたび、千代が肩へ手を添えて戻していた。


 郁子は顔を伏せた。


「担架、落としたの」


 私は手元を見た。


「音がして、手を離した。美代も倒れて……私、最初、転んだと思って」


 高橋さんが布を外すと、郁子は言葉を止めた。傷の縁から血が滲み、肘の方へ流れた。


 私は差し出された汚れた布を受け取った。


 温かかった。


     *


 入口には、先生と野原さんがいた。


 野原さんは外から戻ったばかりで、軍服の肩へ白い土がついていた。先生の話を聞き、佳代にも道を尋ねた。


 佳代はまた、石垣の形を説明した。


「上が欠けていて、その下に京子が。信子は、少し手前です」


「そこまで出た道は」


 佳代が入口の向こうを指した。


 野原さんは、その指した方を見ていた。


「明るいうちは、畑を横切れん」


 先生が顔を上げた。


「別の方からは」


「見てくる。ただ、今すぐ連れ戻せるとは言えません」


 佳代が野原さんの袖へ触れた。


「そばにいる兵隊さんにも、京子を置かないでって」


 野原さんは佳代を見た。


「会えたら、伝える」


 佳代の手が離れた。


 私はその返事を聞きながら、照子を残した岩の窪みを思い出した。あのときも、誰かに場所を伝えてもらうことしかできなかった。


 野原さんが入口を上がっていった。


 佳代は背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。


     *


 水を欲しがる声が、壕のあちこちから聞こえた。


 器を持って呼ぶ人もいた。空の水筒を振り、残っていないことを確かめる人もいた。高橋さんは患者さんの顔を見て、残った水を少しずつ分けていた。


 正夫も、母親へ水と言った。


 タエさんは水筒を開け、傾けてから蓋を戻した。


「あとでね」


 正夫はその水筒へ手を伸ばした。


 タエさんが抱き寄せると、身体を捻って嫌がった。巻かれた足が荷物へ当たり、泣き声が上がった。


「足、痛かったね」


 タエさんは謝りながら、正夫の背中を撫でた。


 私は自分の水筒を持った。


 底には、まだ少し残っていた。振らなくても、その重さで分かった。


 差し出そうとして、高橋さんのそばに置かれた空の容器が目に入った。信子も、美代も、あとで水を欲しがるかもしれなかった。私も飲みたかった。


 水筒を握ったまま、しばらく動けなかった。


 正夫が泣きながら母親の胸へ顔を押しつけた。


「少しだけ、あります」


 私はタエさんへ言った。


 蓋に移すと、手が震えて縁からこぼれた。タエさんは何度も礼を言い、正夫の身体を起こした。


 正夫は両手を出したが、蓋を持つのは母親に任せた。飲み終わると、まだあると思ったのか、その手元を見ていた。


 私は水筒を閉じた。


 千代が隣から見ていた。


「理恵の分は」


「まだ、ある」


 そう答えたが、残った量を見せることはできなかった。


     *


 昼を過ぎたことは、入口の光で分かった。


 身体が乾いてくると、上着が皮膚へ貼りついた。脇や背中が痒くなり、襟の内側へ指を入れると、小さなものが爪に触れた。


 私は手を引いた。


 袖の縫い目にも、虱がいた。潰した指を拭こうとして、使える布を探すのをやめた。手当てに使うものを、これ以上減らしたくなかった。


 文子が隣へ座った。


 京子の袋を手元へ持ってきていた。濡れた岩から落ちそうになっていたので、場所を替えたのだと言った。


 私は結び目を見た。


「京子、眠りたいって言ってたね」


 文子は頷いた。


 少し離れたところで、美代が目を開けた。


「私が、代わればよかった」


 声は小さかったが、聞こえた。


 私は美代の方へ向いた。


「水汲み、京子じゃなくて、私が行けば」


 千代が美代のそばへ屈んだ。


「美代も、迎えに行ったでしょう」


「でも、連れてこられなかった」


 千代の手が、掛けた布の端で止まった。


 私は自分の膝を見た。


 怪我をしていなければ、私が行っていたかもしれない。行っていたら、信子のそばで倒れていたかもしれない。ここに残ったことで助かったのかもしれなかった。


 その考えが浮かぶたび、京子の袋を見られなくなった。


     *


 夕方、野原さんが戻ってきた。


 先生がすぐに入口へ行った。佳代も立ち、壁へ手をつきながら後を追った。


 私は信子の顔の汗を拭いていた。


 布を持つ手を止めると、信子が目を開けた。


「誰」


「野原さん」


 信子は息を吸った。


 私は布を器の縁へ置き、先生たちのところへ行った。


「近くまで行けました」


 野原さんが言った。


 佳代が一歩近づいた。


「京子は」


「兵が一人、岩の陰にいた。学生も、そこに」


 私は先生の背中越しに、野原さんを見た。


「生きてますか」


 佳代が尋ねた。


「声をかけたら、返事があった」


 佳代は口を覆った。


 私も、ようやく息を吐いた。


 返事があった。


 まだ、呼べば聞こえるところにいる。


 先生はすぐに尋ねた。


「今から運べますか」


 野原さんは首を振った。


「向こうへ渡るところが、見通しのいい場所です。日が落ちるまで待つ。担架は、すぐ出せるようにしておいてください」


 先生が頷いた。


 佳代は野原さんの顔を見続けていた。


「暗くなったら、行けますか」


「そのときの様子を見て」


 佳代の手が、口元から下りた。


     *


 私は信子のそばへ戻った。


 信子は目を開けて待っていた。顔へ近づき、京子の返事があったことを伝えると、唇が動いた。


「よかった」


 それから、何度か浅く息をした。


 美代にも伝えた。


 美代は頷き、壁の方へ顔を向けた。肩が小さく揺れたので、私は掛けていた布を直した。泣いているところを見られたくないのかと思い、顔を覗かなかった。


 郁子は自分の巻かれた腕を見ていた。


「今度は、誰が持つの」


「まだ、先生が決めてる」


 私が答えると、郁子は傷のない方の手を握った。


「私、片方なら」


「腕、使わないように言われたでしょう」


 文子が言った。


 郁子は手を開いた。


 その掌へ、まだ担架の跡が残っていた。


     *


 担架の布を、千代と替えた。


 血で濡れたものを外すと、木の枠にも赤黒い筋がついていた。新しい布を張り、留まっているか確かめた。


 静子がそばへ来た。


 肩を動かしてみて、持てると言ったが、先生は敏子と良子を呼んだ。二人とも立ち上がる前に、足首を回していた。


 私は持ち手へ巻く布を渡した。


 敏子が受け取り、木へ当てた。


「戻ったら、京子の袋、そばへ置いてあげて」


「うん」


 私は答えた。


 入口は、まだ明るかった。


 良子がそこを見て、壁際へ座った。敏子も隣へ腰を下ろし、荷物を抱えた。


 誰も、支度をやめてはいなかった。


 それでも出られなかった。


 私は京子の袋を持って、寝かせる場所のそばへ戻った。美代と信子の間を空けられないか、千代と荷物を動かした。


 外で、砲声がした。


 私は入口の光を見た。


 もう少し暗くなればと思った。早く日が落ちてほしいと思いながら、その間も京子は待っているのだと考えた。


 袋を置き、結び目へ触れた。


 京子が自分で結び直した紐は、まだ固く締まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。