第83話 日が落ちるまで
郁子の袖を脱がせることができず、美咲が縫い目を切った。
布が開くと、腕に巻かれたものが見えた。外で押さえてきた布は血を吸って硬くなり、皮膚へ貼りついていた。高橋さんが端を動かすたび、郁子の肩が上がった。
私は郁子の反対側へ座った。
「手、ここに置いて」
膝の上へ布を載せると、郁子は傷のない方の手を置いた。指が震えていた。掌には担架を握った跡があり、擦れたところへ泥が入り込んでいた。
「美代は」
「そばにいるよ」
郁子は私の肩越しに見ようとした。
美代は横になっていた。腿の処置が終わり、足を動かさないよう言われていたが、入口で人の声がするたびに頭を上げた。そのたび、千代が肩へ手を添えて戻していた。
郁子は顔を伏せた。
「担架、落としたの」
私は手元を見た。
「音がして、手を離した。美代も倒れて……私、最初、転んだと思って」
高橋さんが布を外すと、郁子は言葉を止めた。傷の縁から血が滲み、肘の方へ流れた。
私は差し出された汚れた布を受け取った。
温かかった。
*
入口には、先生と野原さんがいた。
野原さんは外から戻ったばかりで、軍服の肩へ白い土がついていた。先生の話を聞き、佳代にも道を尋ねた。
佳代はまた、石垣の形を説明した。
「上が欠けていて、その下に京子が。信子は、少し手前です」
「そこまで出た道は」
佳代が入口の向こうを指した。
野原さんは、その指した方を見ていた。
「明るいうちは、畑を横切れん」
先生が顔を上げた。
「別の方からは」
「見てくる。ただ、今すぐ連れ戻せるとは言えません」
佳代が野原さんの袖へ触れた。
「そばにいる兵隊さんにも、京子を置かないでって」
野原さんは佳代を見た。
「会えたら、伝える」
佳代の手が離れた。
私はその返事を聞きながら、照子を残した岩の窪みを思い出した。あのときも、誰かに場所を伝えてもらうことしかできなかった。
野原さんが入口を上がっていった。
佳代は背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
*
水を欲しがる声が、壕のあちこちから聞こえた。
器を持って呼ぶ人もいた。空の水筒を振り、残っていないことを確かめる人もいた。高橋さんは患者さんの顔を見て、残った水を少しずつ分けていた。
正夫も、母親へ水と言った。
タエさんは水筒を開け、傾けてから蓋を戻した。
「あとでね」
正夫はその水筒へ手を伸ばした。
タエさんが抱き寄せると、身体を捻って嫌がった。巻かれた足が荷物へ当たり、泣き声が上がった。
「足、痛かったね」
タエさんは謝りながら、正夫の背中を撫でた。
私は自分の水筒を持った。
底には、まだ少し残っていた。振らなくても、その重さで分かった。
差し出そうとして、高橋さんのそばに置かれた空の容器が目に入った。信子も、美代も、あとで水を欲しがるかもしれなかった。私も飲みたかった。
水筒を握ったまま、しばらく動けなかった。
正夫が泣きながら母親の胸へ顔を押しつけた。
「少しだけ、あります」
私はタエさんへ言った。
蓋に移すと、手が震えて縁からこぼれた。タエさんは何度も礼を言い、正夫の身体を起こした。
正夫は両手を出したが、蓋を持つのは母親に任せた。飲み終わると、まだあると思ったのか、その手元を見ていた。
私は水筒を閉じた。
千代が隣から見ていた。
「理恵の分は」
「まだ、ある」
そう答えたが、残った量を見せることはできなかった。
*
昼を過ぎたことは、入口の光で分かった。
身体が乾いてくると、上着が皮膚へ貼りついた。脇や背中が痒くなり、襟の内側へ指を入れると、小さなものが爪に触れた。
私は手を引いた。
袖の縫い目にも、虱がいた。潰した指を拭こうとして、使える布を探すのをやめた。手当てに使うものを、これ以上減らしたくなかった。
文子が隣へ座った。
京子の袋を手元へ持ってきていた。濡れた岩から落ちそうになっていたので、場所を替えたのだと言った。
私は結び目を見た。
「京子、眠りたいって言ってたね」
文子は頷いた。
少し離れたところで、美代が目を開けた。
「私が、代わればよかった」
声は小さかったが、聞こえた。
私は美代の方へ向いた。
「水汲み、京子じゃなくて、私が行けば」
千代が美代のそばへ屈んだ。
「美代も、迎えに行ったでしょう」
「でも、連れてこられなかった」
千代の手が、掛けた布の端で止まった。
私は自分の膝を見た。
怪我をしていなければ、私が行っていたかもしれない。行っていたら、信子のそばで倒れていたかもしれない。ここに残ったことで助かったのかもしれなかった。
その考えが浮かぶたび、京子の袋を見られなくなった。
*
夕方、野原さんが戻ってきた。
先生がすぐに入口へ行った。佳代も立ち、壁へ手をつきながら後を追った。
私は信子の顔の汗を拭いていた。
布を持つ手を止めると、信子が目を開けた。
「誰」
「野原さん」
信子は息を吸った。
私は布を器の縁へ置き、先生たちのところへ行った。
「近くまで行けました」
野原さんが言った。
佳代が一歩近づいた。
「京子は」
「兵が一人、岩の陰にいた。学生も、そこに」
私は先生の背中越しに、野原さんを見た。
「生きてますか」
佳代が尋ねた。
「声をかけたら、返事があった」
佳代は口を覆った。
私も、ようやく息を吐いた。
返事があった。
まだ、呼べば聞こえるところにいる。
先生はすぐに尋ねた。
「今から運べますか」
野原さんは首を振った。
「向こうへ渡るところが、見通しのいい場所です。日が落ちるまで待つ。担架は、すぐ出せるようにしておいてください」
先生が頷いた。
佳代は野原さんの顔を見続けていた。
「暗くなったら、行けますか」
「そのときの様子を見て」
佳代の手が、口元から下りた。
*
私は信子のそばへ戻った。
信子は目を開けて待っていた。顔へ近づき、京子の返事があったことを伝えると、唇が動いた。
「よかった」
それから、何度か浅く息をした。
美代にも伝えた。
美代は頷き、壁の方へ顔を向けた。肩が小さく揺れたので、私は掛けていた布を直した。泣いているところを見られたくないのかと思い、顔を覗かなかった。
郁子は自分の巻かれた腕を見ていた。
「今度は、誰が持つの」
「まだ、先生が決めてる」
私が答えると、郁子は傷のない方の手を握った。
「私、片方なら」
「腕、使わないように言われたでしょう」
文子が言った。
郁子は手を開いた。
その掌へ、まだ担架の跡が残っていた。
*
担架の布を、千代と替えた。
血で濡れたものを外すと、木の枠にも赤黒い筋がついていた。新しい布を張り、留まっているか確かめた。
静子がそばへ来た。
肩を動かしてみて、持てると言ったが、先生は敏子と良子を呼んだ。二人とも立ち上がる前に、足首を回していた。
私は持ち手へ巻く布を渡した。
敏子が受け取り、木へ当てた。
「戻ったら、京子の袋、そばへ置いてあげて」
「うん」
私は答えた。
入口は、まだ明るかった。
良子がそこを見て、壁際へ座った。敏子も隣へ腰を下ろし、荷物を抱えた。
誰も、支度をやめてはいなかった。
それでも出られなかった。
私は京子の袋を持って、寝かせる場所のそばへ戻った。美代と信子の間を空けられないか、千代と荷物を動かした。
外で、砲声がした。
私は入口の光を見た。
もう少し暗くなればと思った。早く日が落ちてほしいと思いながら、その間も京子は待っているのだと考えた。
袋を置き、結び目へ触れた。
京子が自分で結び直した紐は、まだ固く締まっていた。




