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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第82話 もう一度、外へ



 信子の指が、私の袖を握っていた。


 高橋さんが腰の布へ手をかけると、その指に力が入った。私は肩を支えたまま、信子の顔へ近づいた。頬に貼りついた髪の間から汗が流れ、耳の下へ溜まっていた。


「動かすよ。少しだけ」


 声をかけると、信子は目を閉じて頷いた。


 もんぺの脇が切り開かれた。傷へ当てられていた布は重く濡れ、持ち上げた端から赤い滴が落ちた。腰の横に傷があり、その周りへ土がこびりついていた。


 軍医が屈み、高橋さんから短く話を聞いた。


 信子は私の袖を引いた。


「京子」


「今、迎えに行く話をしてる」


 私は答えた。


 信子の目が開いた。


「先に、京子を」


 高橋さんが傷のそばへ触れ、信子の声が途切れた。息を吸い込んだまま身体が強張り、私の腕へ爪が食い込んだ。


 私は肩を支え直した。


「ここにいるから」


 信子は首を振ろうとしたが、動かせなかった。


     *


 美代は入口で、兵隊さんへ頼んでいた。


「さっきのところです。もう分かりますから」


 郁子も隣にいた。二人のもんぺは泥に濡れ、担架を握っていた手には擦れた跡があった。


 戻ってきた兵隊さんが、担架の布を持ち上げた。


 信子を運んできたときの血が、中央へ広がっていた。畳み直そうとすると、濡れたところが重なって、低い音がした。


「向こうに、一人残してある」


 兵隊さんが先生へ言った。


「怪我した学生についている。急がんと」


 美代が持ち手へ手を伸ばした。


 先生は一度その手を見たが、止めなかった。


「山城さんも、まだ行けますか」


 郁子が頷いた。


 私は信子のそばから、そのやり取りを聞いていた。さっき美代は持ち手を離した途端に座り込んだ。それでも、もう一度同じ木を握ろうとしていた。


 千代が入口へ布を運んだ。


「これ、持っていって」


 美代は受け取り、腰の紐へ挟んだ。


 京子を包むための布だった。


     *


 信子の処置が続いている間に、二人は出発した。


 私は見送れなかった。


 軍医に灯りを近づけるよう言われ、文子が持つ灯りの下で信子の肩を支えていた。傷の方で器具が触れ合い、信子が声を上げた。


「先生、待って」


 軍医の手は止まらなかった。


 信子は私を見た。何か言おうとして口を動かしたが、次に身体へ力が入り、声が呻きに変わった。


 私は顔を逸らせなかった。


 痛みを代わってあげられないことが、信子にも分かっているはずだった。それでも、その目は私のところへ戻ってきた。


 文子が灯りを持ち直した。


 指先が熱くなっているのが見えた。高橋さんが別の位置を示し、文子はそこへ手を移した。


 入口から、足音が遠ざかった。


 私はその音を聞きながら、信子の名前を呼んだ。


     *


 処置がひと区切りつくと、信子は目を閉じたまま息をしていた。


 身体へ掛ける布を千代が持ってきた。足元を覆い、肩のところだけ高橋さんに確かめてから直した。


 佳代が近づいた。


 信子の顔を見て、膝をついた。


「ごめん」


 信子の瞼が動いた。


「私、容器、置いてきた」


 佳代はそこまで言って、唇を噛んだ。


 信子が薄く目を開けた。


「いい」


 掠れた声だった。


「呼んで、きたから」


 佳代の肩が揺れた。


 信子はもう一度目を閉じた。私は二人のそばへ座り、袖に残った皺を指で伸ばした。信子が握っていたところに、血がついていた。


     *


 飛行機の音が聞こえたとき、佳代は両手で耳を塞いだ。


 私は入口へ顔を向けた。


 音は岩の向こうで膨らみ、そのあと、短い連続音がした。壕の中で話していた人たちが口を閉じた。


 信子が目を開けた。


「行った?」


 私は頷いた。


「美代と郁子が」


 信子は入口を見ようと頭を動かした。高橋さんが肩へ手を置くと、また横になった。


 音が途切れた。


 私は次を待った。何も聞こえなくなると、今度は静かすぎることが怖かった。


 外にいる二人が伏せているのか、走っているのか。


 京子のところへ着いたのか。


 考えている間にも、隣の患者さんが私を呼んだ。私は立ち、水のない器を見てから、高橋さんへ尋ねに行った。


     *


 戻ってきたのは、郁子だった。


 入口から名前を呼ぶ声がしたので、私は顔を上げた。郁子は自分で下りてきたが、片腕を胸へ抱えていた。


 指の間から血が落ちていた。


 先生が迎え、高橋さんを呼んだ。


「美代は」


 郁子は先生の顔を見た。


「後ろ。兵隊さんが、連れてきます」


 その言葉のあと、郁子の膝が折れた。


 先生が支え、近くにいた静子が荷物を動かした。郁子は座らされても、入口から目を離さなかった。


「飛行機が戻ってきて」


 声が震えていた。


「伏せたんです。途中で。美代も、伏せて」


 高橋さんが腕を確かめようとすると、郁子は強く抱え込んだ。


「見せて。押さえるところを確かめるから」


 その声に、郁子はゆっくり腕を離した。


 袖の途中が裂け、下の皮膚から血が流れていた。手の甲へ筋になって伝い、爪のところへ溜まっていた。


 私は布を渡した。


 郁子は私の手を見て、それから顔を上げた。


「京子まで、行けなかった」


     *


 美代は、兵隊さんに背負われて戻ってきた。


 入口の石を越えるとき、片脚が岩へ触れ、美代が悲鳴を上げた。背負っていた人が止まり、後ろの兵隊さんが足を支えた。


 担架は畳まれたまま、もう一人の肩に載っていた。


 途中で撃たれ、美代を早く運ぶために背負ったのだという。


 下ろされた美代の腿から、血が滲んでいた。巻かれた布の端まで赤くなり、もんぺへ押しつけられていた。


 私は高橋さんに呼ばれ、美代のそばへ行った。


 美代は息を吸うたび、唇を震わせていた。先生が名前を呼ぶと目を開けたが、すぐに顔を歪めた。


「京子、まだ」


「分かってる」


 先生が答えた。


「今は、あなたの傷を」


 美代が首を振った。


 その動きで足が揺れ、声を上げた。


 郁子は少し離れたところから見ていた。高橋さんが美代の方へ来たため、腕の布を自分で押さえていた。


 私は文子を呼んだ。


 文子が郁子のそばへ行き、千代が美代の頭の下へ畳んだ布を入れた。


 戻ってきた人を寝かせる場所が、また足りなくなった。


     *


 外へ出るな、という声がした。


 入口へ新しい兵隊さんが来ていた。救助に出た人たちから話を聞き、外を確かめてから、もう一度同じことを言った。


「今出せば、またやられる」


 先生は入口の内側に立っていた。


「学生が一人、残っています」


「分かってる」


「負傷しています。誰か、そばについていると」


 兵隊さんは先生を見た。


「その者も動けんのかもしれん。ここからは見えない」


 先生は口を閉じた。


 私は美代の肩を支えながら、その声を聞いていた。


 京子のそばに残っている兵隊さんも、帰ってこなかった。あの人が今も声をかけてくれているのか、それさえ分からなかった。


 美代が私の手首へ触れた。


「袋」


「ここにあるよ。文子が持ってる」


「京子の」


「うん。なくしてない」


 美代は息を吐いた。


 それから、小さく言った。


「寝かせてあげるって、言ったの」


 私は美代の顔を見た。


「戻ったら、起こさないって」


 軍医が足元へ屈み、高橋さんが布を外し始めた。


 美代の手が私の手首から離れ、床の布を掴んだ。


     *


 京子のために空けた場所へ、美代が寝かされていた。


 その隣に信子がいた。郁子は腕へ布を巻かれ、壁へ寄りかかっていた。三人の傷を替えるための布が、私たちの足元へ積まれていった。


 入口は明るかった。


 壕の中から見えるのは、斜面の土と、そこへ落ちる光だけだった。風が吹くと、入口の草が動いた。


 和子が紙を持ってきた。


 鉛筆を握ったまま、京子の名前のところで止まった。


「まだ、戻ってないだけだよね」


 私は頷いた。


 和子は何も書かなかった。


 文子が京子の袋を、濡れていない岩の上へ置いた。紐は結ばれたままだった。


 私はその隣へ、使っていない布を一枚置いた。


 誰かに渡すよう呼ばれるまで、畳んだまま、そこへ残しておいた。

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