第81話 戻った声
入口に影が差すたび、美代が顔を上げた。
荷物を運ぶ兵隊さんが入ってきても、知らない女の人が子供を抱いて下りてきても、そのたびに立ちかけ、違うと分かると座り直した。京子の袋は膝に載せたままだった。腕に垂れていた紐を袋へ巻きつけ、ほどけると、また巻き直していた。
私は患者さんのそばで布を畳んでいた。
外へ出た兵隊さんは、まだ戻っていなかった。水汲みに行った三人のことを、先生が入口で尋ねていたが、聞かれる人も知らなかった。
どのくらい待ったのか分からなくなったころ、斜面を下りる足音がした。
入口にいた人が、誰かの腕を取った。
「学生さんだ」
私は布を置いた。
入ってきたのは、佳代だった。
*
佳代は、入口の石へ手をついたまま止まった。
背中が大きく上下していた。髪はほどけ、片側の頬へ貼りついている。腰の紐が緩み、もんぺの片脚が膝までずり上がっていた。
持っていった容器はなかった。
「佳代」
私が呼ぶと、佳代は顔を上げた。
口を開いたが、息ばかりが出た。島袋先生がそばへ行き、身体を支えて中へ入れた。
「座って。まず、座ろう」
佳代は先生の腕へ縋り、壁際へ膝をついた。
美代が袋を抱えたまま近づいた。
「京子は?」
佳代の顔が歪んだ。
答えようとする前に咳き込み、両手を地面へついた。喉から唾が垂れた。私は背中へ手を置いたが、佳代はその手にも驚いて身を縮めた。
高橋さんが来た。
「どこか、怪我した?」
佳代は首を振った。それから、自分の腕を見た。
肘の下に擦り傷があり、土と血が混じっていた。傷へ目を落としたまま、佳代は言った。
「信子が、まだ」
高橋さんが屈んだ。
「どこにいるの」
「水のところから戻る道。石垣が、崩れてるところ」
佳代は息を吸い、途中で肩を震わせた。
「京子も。二人とも、動けなくて」
*
飛行機の音がして、案内の兵隊さんが伏せるように言ったのだという。
水を汲んだあとだった。容器を持って歩いていて、すぐそばに身を隠せる場所がなかった。
「畑の端へ入ろうとして」
佳代は自分の膝を見ていた。
「そこで音がして。土が跳ねて、信子が倒れた」
私は信子の顔を思い浮かべた。
今日、膝はどうかと聞いてくれた。私を中に残して、空の容器を持ち上げた。
佳代は両手を握り合わせた。
「京子も伏せたと思ったんだけど、起きなくて。呼んだら、返事はしたんだけど…。」
「兵隊さんは?」
先生が尋ねた。
「腕を怪我して。でも、信子のところにいてくれて。私に、人を呼んでこいって」
佳代はそこで顔を上げた。
「早く、行ってください」
声が大きくなった。
「二人とも、生きてたんです。私が出たときには」
先生はすぐに立ち、入口へ向かった。
美代がその後を追った。
「私も行きます」
私は自分の膝へ手を置いた。
立とうとしたとき、高橋さんに呼ばれた。
「寺田さんは、担架を用意して。戻ってきたときの場所も」
私は美代の背中を見たまま頷いた。
*
担架は一つしか、すぐに使えなかった。
私は千代と一緒に入口の脇へ出し、畳まれていた布を広げた。木の持ち手へついた泥を手で払い、文子が運んできた布を横へ置いた。
美代と郁子が、先生のそばで待っていた。
兵隊さん二人が外を確かめ、一人が戻ってきた。
「場所の分かる者は」
佳代が立ち上がろうとした。
膝が崩れ、壁へ手をついた。高橋さんが支えたが、佳代はその腕を押し返そうとした。
「私が行かないと」
「入口で、道を伝えて」
先生が言った。
「走れなくなったら、戻れなくなる」
佳代は唇を噛んだ。
入口まで支えられて行き、外へ手を伸ばした。崩れた石垣の形や、道を曲がるところを何度も説明した。兵隊さんが聞き返すと、焦って言葉が重なった。
その間にも、外から低い音が届いた。
佳代は話すのをやめ、肩を竦めた。
誰もすぐには出なかった。
「早く」
佳代が言った。
兵隊さんは斜面の上を見ていた。
私は担架の端を握り、音が消えるのを待った。待っている間に信子や京子の血が流れていると思うと、手元の木を押し出したくなった。
けれど、空を見に行くことさえできなかった。
*
兵隊さんが合図し、美代と郁子が担架を持ち上げた。
入口の石を越えたところで、一度傾いた。私は後ろの端を支え、二人の足が落ち着いてから手を離した。
美代は振り返らなかった。
京子の袋は、文子に預けてあった。
佳代が入口に残ろうとしたため、高橋さんが中へ戻した。座らされても、佳代は背中を壁につけなかった。
「信子、私に行けって」
私は隣へしゃがんだ。
「京子のところへ行こうとしたら、私が行けって」
佳代は泥のついた掌を擦った。
「一人なら走れるからって。私、走ってきた」
指の間から乾いた土が落ちた。
私はその手を止めたかったが、何と言えばいいのか分からなかった。戻ってきてくれてよかったと言えば、残っている二人のことを置き去りにする気がした。
「場所、伝えられたよ」
文子が言った。
「美代たち、聞いて行ったから」
佳代は文子を見た。
それから、掌を膝へ押しつけた。
*
高橋さんと、寝かせる場所を空けた。
私たちが座っていたところへ、布を敷いた。タエさんは正夫を抱き上げ、隣の人へ頭を下げながら奥へ寄った。
「足、当てないようにするから」
私は言った。
タエさんは頷き、正夫の足を自分の腕へ載せた。
そのすぐ横で、老人を支えていた女の人が、荷物を肩へ掛けた。立っている方が場所を空けられるからだと分かり、私はその人の膝元にも布を寄せた。
敷き終わった布を見た。
二人を寝かせられる幅には足りなかった。千代が自分たちの袋を重ね直し、文子が壁へ寄った。私も、もう少し詰められないか足を動かした。
今は、戻ってくる場所が必要だった。
*
外で、また音がした。
佳代が顔を覆った。
私は入口へ行きかけたが、今度は途中で止まった。そこへ立っても二人を迎えに行けるわけではなく、担架が戻ったときの邪魔になるだけだった。
高橋さんが包みを開いた。
使える布と器具を、手の届くところへ並べていた。私はその横へ器を置き、水の容器を持った。
底に残っていた水を見て、手が止まった。
信子たちは、これを汲みに行った。
倒れたところに、汲んだ水も残っているのだろうか。血のついた手で容器を持っていたのだろうか。
「寺田さん」
高橋さんに呼ばれ、私は顔を上げた。
「ここへ置いて」
言われた場所へ置いた。水面が揺れ、容器の底が見えたり隠れたりした。
*
戻ってきた足音は、揃っていなかった。
先に兵隊さんが下り、担架の端を受け取った。郁子が入口の石へ膝をつき、美代が後ろから持ち手を押した。
担架の上にいたのは、信子だった。
髪へ土が入り、片腕が胸元で曲がっていた。腰のあたりに当てられた布が赤く濡れ、その下のもんぺも色が変わっていた。
「信子」
私は顔のそばへ屈んだ。
信子の目が動いた。
「……佳代」
「戻ってる。ここにいるよ」
私が答えると、信子は目を閉じた。
高橋さんが担架を置く場所を指し、私たちは敷いた布の上へ下ろした。持ち手を離した美代が、その場へ座り込んだ。
京子がいなかった。
私は入口を見た。
案内をしていた兵隊さんが、もう一人に支えられて入ってきた。腕に巻かれた布から血が垂れていた。
その後ろに、人の影はなかった。
「京子は」
文子が尋ねた。
美代は息を整えようとしていた。郁子が隣へしゃがみ、その肩へ手を置いた。
「まだ、向こう」
美代が言った。
私は入口へ一歩近づいた。
信子が低く呻き、高橋さんが私を呼んだ。
「寺田さん、こちらを支えて」
振り返ると、信子の手が布の上を探っていた。
私はその手のそばへ膝をついた。高橋さんの指示で肩を支えると、信子は歯を食いしばり、私の袖を掴んだ。
美代が後ろで言った。
「もう一度、行かないと」
その声を聞きながら、私は信子の身体が動かないよう、腕へ力を入れた。




