第80話 外へ出る仕事
目が覚めたとき、文子の肩へ頭を預けていた。
首を起こすと、頬に上着の縫い目の跡が残っていた。文子も眠っていたが、私が動いたことで目を開けた。額の布が少しずれ、その下に乾いた血が見えた。
「ごめん」
「いいよ」
文子は肩を回しかけ、途中でやめた。私の頭が載っていたところを、反対の手で揉んでいた。
入口から届く光は、眠る前より強くなっていた。正夫は母親の膝で眠っている。タエさんは壁へ頭をつけ、片手だけを子供の背中に置いていた。
私ももう一度目を閉じようとしたが、通路から名前を呼ばれた。
「寺田さん。起きていたら、こちらへ」
高橋さんだった。
私は膝を確かめながら立った。巻き直してもらった布は湿っていたが、傷へ直接もんぺが当たらないだけ、歩くのは楽だった。
高橋さんのそばに、美咲がしゃがんでいた。
昨日運び込まれた兵隊さんが、同じ場所へ寝かされていた。胸元には布が掛かっていたが、その下が動いていなかった。
「亡くなったの」
高橋さんは、私が尋ねる前に言った。
「外へ運ぶから、足元を空けてくれる?」
私は頷き、そばの荷物を持ち上げた。
置き場所を探しているうちに、持ち主の女の人が両手を出した。昨日、包みを膝へ載せていた人だった。
「私が持ってるから」
私はその手へ包みを返した。
*
兵隊さん二人が来て、担架の布を直した。
掛けられていた布がずれ、亡くなった人の頬が見えた。昨日は血と汗で濡れていた顔が、今は乾いていた。口が少し開き、顎の下に黒い筋が残っていた。
運び上げると、身体の重さで担架の中央が沈んだ。
私は足元の布を押さえた。出ていた片足が揺れ、履物の底から乾いた泥が落ちた。生きている人を運ぶときのように、痛くないか声をかけそうになり、口を閉じた。
入口のところで、担架が止まった。
外を見ていた兵隊さんが手を上げていた。
その向こうから、低い音が聞こえてきた。
初めは砲声の続きだと思った。けれど、途切れずに響き、少しずつ大きくなった。誰かが飛行機だと言うと、入口にいた人たちが壁へ寄った。
私は布を押さえたまま、天井を見た。
岩の向こうに空がある。
その空を、何かが動いている。
音は入口の上を通ったように聞こえたが、姿は見えなかった。どちらへ行ったのかも分からないまま、私たちは担架のそばで待った。
やがて音が薄くなると、兵隊さんが外を確かめた。
「今のうちに」
担架が持ち上げられた。
私と美咲は、入口の石へ布が引っかからないよう押さえた。運ぶ二人の背中が斜面の向こうへ消えると、私は壕の中へ戻った。
*
水の容器は、底が見えるほどになっていた。
高橋さんが器へ少し移す間、私は傾けた容器を支えた。水が流れる音は短く、すぐに止まった。
「これ、飲ませる分ですか」
「うん。傷に使う分も残さないといけないから」
私は容器を元へ戻した。
正夫の足や、自分の膝を洗うためにも、水を使っていた。布を濡らすときには少なく感じた量が、容器の底を見ると、取り返しのつかないものに思えた。
和子が当番の紙を持ってきた。
紙を置ける平らな場所がなく、自分の膝へ載せていた。鉛筆を動かしながら、そばにいる人の名前を確かめた。
「水汲み、信子と佳代。それから、京子」
呼ばれた京子が顔を上げた。
「今?」
「外を見て、出られるときにって」
京子は足元の袋から紐を出した。荷物の口を結び、隣の美代へ渡した。
「これ、置いといて」
美代は袋を受け取り、自分の荷物の上へ重ねた。
それは、いつもの当番のやり取りだった。
私は京子の手元を見ていた。紐の端が長く残り、京子は一度ほどいて結び直した。
信子が空の容器を持ってきた。
「理恵、膝は?」
「歩ける」
「今日は中にいて。私たちで行くから」
私は返事をしようとして、喉を鳴らした。
代わると言いたかった。外で見た兵士の姿を思い出すと、言えなかった。
*
入口で待っている間、三人はほとんど話さなかった。
案内の兵隊さんが先に外を見ていた。野原さんは別の用事で奥へ呼ばれ、戻ってきていなかった。
佳代は容器の持ち手を確かめ、信子は腰の紐を結び直した。京子は袖口を上げてから、やはり下ろした。
私は三人のそばへ行った。
「さっき、飛行機が」
「聞こえた」
佳代が答えた。
「音がしたら、隠れる」
その言葉は私を安心させるためのようでも、自分へ言っているようでもあった。
入口の方から、行くぞ、と声がした。
信子が容器を持ち上げた。京子と佳代も続いた。
「戻ったら、少し寝かせてね」
京子が美代へ言った。
「分かった。起こさない」
美代が答えた。
三人は身体を屈め、外へ出た。
私は入口に残っていたが、後ろから患者さんに呼ばれた。振り返ると、寝ていた人が器を指していた。
私は中へ戻った。
*
その人は、水を飲むために頭を上げられなかった。
背中へ手を入れると、上着が湿っていた。身体を少し起こしただけで顔を歪めたため、私は高橋さんを呼び、支えるところを教えてもらった。
口へ器を近づけると、唇が縁を探した。
水が少しこぼれ、顎から首へ流れた。私は布で拭き、もう一度傾けた。その人は一口飲み込んでから、目を閉じた。
「もう少し」
言われて、器の中を見た。
高橋さんが頷いたので、残りを飲ませた。
空になった器を膝へ戻すと、外から飛行機の音が聞こえた。
私は入口を見た。
正夫が目を覚まし、母親の袖を引いていた。タエさんは子供へ顔を寄せ、何かを囁いていた。
音はさっきより近く感じた。
私は器を置き、立ち上がった。
入口へ着く前に、乾いた音が続いた。
砲弾が落ちるときの、一つずつ身体へ響く音とは違った。細かな音がひとまとまりになり、短く途切れて、また続いた。
入口の兵隊さんが、身を引いた。
「下がれ」
私は壁へ寄った。
飛行機の音が大きくなり、通り過ぎた。
そのあとも、耳の中には音が残っていた。外で誰かが叫んだように聞こえたが、言葉は分からなかった。
私は入口へ近づこうとした。
兵隊さんの腕が、前へ出た。
「まだだ」
「水汲みの人が」
「分かってる。ここで待て」
私はその腕の向こうを見た。
明るい斜面しか見えなかった。
*
美代が来た。
京子の袋を抱えていた。
「今の、どこ?」
私は首を振った。
近いところだったのか、遠いところだったのか。水汲みへ向かった道の上だったのか、別の畑だったのか。
何も分からなかった。
美代は袋を抱え直した。結び直した紐の端が、腕へ垂れていた。
しばらくして、兵隊さんが外へ出た。
私たちは入口の内側で待った。高橋さんに呼ばれ、私は一度奥へ戻ったが、器を運びながら何度も入口を見た。
水の容器が置かれていた場所は、空いたままだった。
誰かがそこへ荷物を置こうとして、和子に止められた。
「戻ってくるから、空けといて」
私はその声を聞き、入口へ顔を向けた。
外の明かりを遮るものは、まだなかった。




