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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第79話 膝を寄せる



 隣の人の肘が、私の脇腹へ触れていた。


 少し身体を動かすと、その向こうにいた子供の足へ当たった。私は謝り、伸ばしかけた足を戻した。膝を曲げたままでは傷が痛んだが、伸ばせるだけの場所はなかった。


 子供は母親の膝へ頭を載せていた。四つか五つくらいの男の子だった。片方の足には履物がなく、踵に乾いた泥がついていた。母親が上着の裾でそこを拭くと、男の子は足を引き、喉の奥で小さく唸った。


「ごめんね。起こしたね」


 私は言った。


 母親は首を振った。


「ずっと、ちゃんと眠れてないから」


 その人も、目の下に深い影があった。髪を結んだ紐が緩み、耳のそばへ落ちた髪を直すこともせず、子供の背中を撫でていた。


 文子が自分の荷物を抱き上げた。足元にあった袋一つ分の隙間へ、母親が子供の足をそっと置いた。


「ありがとう」


 文子は頷いた。


 抱えた荷物が胸へ当たるせいで、文子は身体を横へ向けなければならなかった。額の布の下から、汗が頬へ流れた。


     *


 目が慣れると、私たちのいる場所より奥にも、人が詰まっていることが分かった。


 壁へ寄りかかっている老人がいた。その前に女の人が座り、老人の手を自分の膝へ載せていた。もう少し先では、赤ん坊を抱いた人が、布を何度も掛け直していた。


 横になる場所のある人は少なかった。寝ている人の足元へ別の人が座り、その肩の後ろにも顔があった。


 誰かが咳をすると、すぐ近くの人が身体を引いた。けれど、離れられる距離はわずかだった。湿った息も、洗えない服の匂いも、そのまま隣へ届いた。


 通路の低いところには、水が溜まっていた。


 入口から持ち込まれた泥だけではなかった。壁を伝って落ちる水が、土を溶かし、人の踏んだ跡へ流れ込んでいた。そこへ布の切れ端や藁が沈み、誰かが足を置くたび、黒い水が滲み出した。


 奥から、便を入れた容器が運ばれてきた。


 持っていた女の人が通れるよう、私たちは膝を引いた。蓋の代わりに布が掛けられていたが、近づく前から匂いが分かった。男の子が母親の服へ顔を押しつけ、私は口を閉じたまま鼻で息をした。


 女の人の手首が震えていた。


 容器を傾けないよう両手で抱え、足元を確かめながら進んでいた。入口に近いところで立ち止まると、外を見ていた兵隊さんに何かを尋ねた。


「今は出るな」


 その声が聞こえた。


 女の人は容器を持ったまま、その場へしゃがんだ。


     *


 高橋さんが来たのは、私が膝を動かせずにいるのを千代が伝えてくれたあとだった。


「どこで擦ったの」


「さっき、伏せたときに」


「その前から傷はあったね」


 私は頷いた。


 高橋さんは、そばの母親へ少し場所を借りたいと頼んだ。母親が子供を抱き直す間、文子と千代が荷物を重ねた。私は空いたところへ片足を伸ばした。


 もんぺを上げようとすると、内側の布が傷に貼りついていた。


 高橋さんが私の手を止めた。


「引っ張らないで」


 少しずつ布が離れるのを待つ間、私は壁の出っ張りを握った。傷が引かれるたび、腿まで硬くなった。


 剥がれた布の下で、膝の皮膚が赤く剥けていた。縁には泥が残り、乾きかけた血の上へ、新しい血が滲んでいた。


「歩ける?」


 私はすぐに頷いた。


 高橋さんは顔を上げた。


「今、歩かせるために聞いたんじゃないよ」


 私は握っていた石から手を離した。


 指の跡に、濡れた土がついていた。


「痛いです。でも、歩けます」


「痛みが強くなったら、隠さずに言って」


 高橋さんは使える布を確かめた。新しいものは少なく、包みの底には、大きさの違う切れ端が重なっていた。


 千代がその中から長い布を出した。


 巻き終わると、膝はさっきより動かしやすくなった。けれど私は、伸ばしたままの足を見ていた。


 照子は、ここへ来ていない。


 そのことを考えた途端、足を曲げられるか確かめたくなった。高橋さんに見られている間は動かさず、通路へ戻っていったあとで、少しだけ踵を引いた。


 千代が気づいたが、何も言わなかった。


     *


「学生さん」


 隣の母親が、私へ声をかけた。


「この子の足も、見てもらえますか」


 私は高橋さんの行った方を見た。すでに別の人のそばへ屈んでいた。


「伝えます。どこが痛いんですか」


 母親が男の子の足を持ち上げた。


 足の裏に、裂けたところがあった。泥で黒くなった皮膚の一か所だけ赤く、その周りが白くふやけていた。男の子は足を引こうとしたが、母親に呼ばれて止まった。


「正夫、見てもらおうね」


 正夫は私を見た。


 泣きそうな顔だったが、声を出す前に母親の胸へ顔を戻した。


「いつからですか」


「途中で履物がなくなって。それから、歩かせたり、抱いたりしてきたんですけど」


 母親は正夫の踵を包むように持った。


「夜のうちは、こんなになってると思わなくて」


 私も、ここへ入るまでは自分の膝を見ていなかった。


 私は高橋さんを呼びに行こうとして、通路に足を置いた。すぐ前に寝ていた人が腕を動かしたため、跨ぐことができず、いったん戻った。


 千代が、向こうにいた美咲へ声をかけた。


 名前が人の間を伝わり、美咲が顔を上げた。


 正夫は母親の服を掴んだまま、私たちを見ていた。


     *


 入口で、担架が岩へ当たる音がした。


「道を空けてくれ」


 兵隊さんの声に、通路へ出ていた人が引いた。私たちも荷物を抱え、壁へ寄った。


 運び込まれた人は、軍服の胸元を開けられていた。首の下へ巻かれた布が血で濡れ、担架が動くたび、喉から泡の混じる音がした。


 高橋さんが戻ってきた。


 正夫の母親が呼びかけようとして、口を閉じた。


 担架を下ろす場所がなかった。


 兵隊さんが奥を見て、もっと詰めるように言った。座っていた人たちが膝を寄せ、袋を抱き、寝ていた老人が肩を支えられて起こされた。


 それでも、担架は平らに置けなかった。


「この荷物、誰のだ」


 足元にあった包みを、兵隊さんが指した。


 年配の女の人が手を伸ばした。


「私のです」


「抱えていて」


 女の人は包みを膝へ載せた。中で椀がぶつかる音がした。すぐ横の子供が押され、母親が自分の膝へ引き上げた。


 私は正夫の足へ荷物が当たらないよう、袋を胸へ持ち上げた。


 担架が下ろされた。


 寝かされた兵隊さんの顔が、正夫の足のすぐ先にあった。高橋さんが布を替えると、血の匂いがこちらへ届いた。


 正夫が顔を上げた。


「お母さん」


 母親は正夫の頭を胸へ寄せた。


「見なくていいから」


 その声は穏やかだったが、抱いている腕には力が入っていた。


     *


 高橋さんに布を頼まれ、私は荷物を文子へ渡した。


 足を伸ばせる場所は、もうなくなっていた。身体を捻って立ち上がり、美咲から受け取った布を運んだ。


 軍医は、負傷した人の胸へ耳を近づけていた。


 私は高橋さんへ布を渡し、手元を照らす灯りが動かないよう支えた。そばにいた女の人が荷物を抱えたまま壁へ身体を押しつけ、その向こうでは、さっき起こされた老人が呼吸を整えられずにいた。


 正夫の母親は、子供の足を服の裾で包んでいた。


 私はその足を見るたび、高橋さんへ伝えなければと思った。けれど高橋さんは、血のついた布を次々に替えていた。


 しばらくして、正夫の母親が私を見た。


「あとで、いいですから」


 私は頷いた。


 頷いてから、それが約束になることに気づいた。


 春子にも、あとで針を貸すと言った。


 照子には、待っていてと言った。


 私は灯りを持つ手へ力を入れた。今、目の前で必要とされているものを落とさないようにした。


     *


 処置の手が一度落ち着いたところで、私は高橋さんに正夫のことを伝えた。


 高橋さんは隣へ膝を移し、母親に傷を見せてもらった。


 正夫は泣いた。


 母親が抱き、高橋さんが声をかけ、美咲が残った布を持ってきた。私は正夫の足が岩へ当たらないよう、下に畳んだ布を入れた。


 巻かれた足を見て、正夫は母親へ何かを囁いた。


「うん。もう少し、ここにいようね」


 母親が答えた。


 高橋さんが次の人に呼ばれ、立ち上がったあと、母親が私へ頭を下げた。


「仲間タエといいます。この子は正夫」


「寺田理恵です」


 私が言うと、正夫は母親の胸から少し顔を出した。


「りえ」


「うん」


 返事をすると、正夫はまた顔を隠した。


 私は文子のそばへ戻った。荷物を受け取り、残っていたわずかな隙間へ腰を下ろした。


 肩が文子へ触れ、膝が千代へ当たった。向きを変えると、今度はタエさんの肘へ触れた。


 誰かが身を動かすたび、隣の人も動かなければならなかった。


 しばらくして、正夫の寝息が聞こえた。


 タエさんは眠らず、その顔を見ていた。近くに寝かされた兵隊さんの呼吸も聞こえた。どちらの息も途切れないでほしいと思いながら、私は目を閉じた。


 外で爆発があり、足元の水が震えた。


 文子の肩が強張ったので、私は目を開けた。


 正夫はまだ眠っていた。タエさんが耳を覆い、その小さな身体を抱き直していた。


 私は膝を少し引いた。


 正夫の包帯を巻いた足が、私の荷物へ触れずに置けるように。

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