第78話 向こうにいる人
空が白み始めても、私たちは歩いていた。
暗いうちは、前の人の荷物と、泥から抜ける足しか見えなかった。明るくなるにつれ、道だと思っていたところが畑の縁だったと分かった。石垣は途中で崩れ、その向こうに掘り返された土が広がっていた。折れた茎が泥へ伏せ、ところどころに、人が横たわっていた。
私は足を置くところだけを見た。
文子の背中を見失わないようにしながら、地面へ目を戻す。その繰り返しで歩いていると、前方から、頭を低くするようにという声が伝わってきた。
野原さんが、崩れた石垣のそばで待っていた。
「ここから先、身体を起こさないで。前の人について」
私は荷物の紐を肩へ掛け直した。腰を曲げると、膝の傷が突っ張った。もんぺの内側で布が傷へ貼りつき、動くたびに剥がれるような痛みがあった。
後ろから千代の手が触れた。
「荷物、持つ?」
私は首を振った。
千代も同じように疲れていた。腰を屈めた姿勢のまま、片手を自分の腿へつき、足を進めていた。
*
石垣の切れ目を越えようとしたとき、前を歩いていた兵隊さんが伏せた。
すぐ後ろの先生も膝をついた。
何があったのか見ようとして顔を上げた私の肩を、野原さんが押した。
「下へ」
私は両手をついて伏せた。泥が指の間へ入り、胸へ冷たい水が染み込んだ。荷物が背中からずり落ち、首の横へ紐が食い込んだ。
文子がすぐ前にいた。額に巻いた布の端が濡れ、泥へ触れそうになっていた。
誰も声を出さなかった。
後ろで履物が擦れ、人が地面へ身を沈める音が続いた。清美を支えていた信子と幸子が、何かを囁いた。
そのとき、石垣の向こうから声が聞こえた。
意味の分からない、短い言葉だった。
私は息を止めた。
これまで聞いていたのは、兵隊さんや看護婦さんや、壕へ入ってきた人たちの声だった。砲弾を撃っている人は、どこか遠くにいた。見えないところから音と破片だけが届いていた。
今は、その人たちの声がした。
私は頭を動かさず、目だけを石の隙間へ向けた。
畑の向こうに、兵士がいた。
丸い鉄の帽子を被り、銃を抱えていた。一人が足を止め、身体をこちら側へ向けた。その後ろにも、同じような服の人が見えた。
どれほど離れているのか、分からなかった。
顔までははっきり見えない。それでも、そこに目があり、その目で畑を見ていることが分かった。
私は頬を泥へ近づけた。
*
後ろで、清美が息を漏らした。
すぐに布の擦れる音がした。信子が支える位置を変えたのだと思ったが、振り返ることができなかった。
私の膝でさえ、伏せるだけで痛んだ。清美は傷めた足を曲げなければならない。声を出すなと言われても、身体が言うことを聞かないときがある。
私は唇を噛んだ。
向こうの兵士が、何かを言った。
もう一人が近づいた。二人とも立っている。その足元で、畑の茎が揺れた。
こちらを見ているのだろうか。
私たちの髪や、背中や、荷物の端が、石垣から出ていないだろうか。
自分の身体がどこまで隠れているのか確かめられず、私は肘を胸へ引き寄せた。袖の中へ泥水が入り、掌の傷に沁みた。
文子の手が、ゆっくり後ろへ伸びてきた。
私はその指先へ触れた。
握ると、文子の手も冷たかった。
先生は少し先で、口元へ指を当てていた。誰か一人に向けた仕草ではなかった。顔を上げかける生徒を見つけるたび、同じようにしていた。
遠くで銃声がした。
続けて、短い音が重なった。
私は肩を縮めた。すぐに撃たれたと思ったが、身体に痛みは来なかった。向こうの兵士が屈み、銃を構えた方向は、石の陰からは見えなかった。
私たちへ向けたのか、別のところへ向けたのかも分からない。
そのまま、次の音を待った。
*
野原さんが私たちの間を這うように戻ってきた。
「一人ずつ、後ろへ。立たないで」
先生が頷いた。
来た道へ戻るのだと分かっても、私はすぐには動けなかった。前へ進むことだけを考えてきた足を、どう引けば音を立てずに戻れるのか分からなかった。
千代が私の荷物を引いた。
私は文子の指を離し、肘で地面を押した。身体を後ろへずらすと、膝の傷へ石が当たった。痛みに息が詰まり、口を開けたまま声だけを止めた。
濡れた土が上着の腹へ入り込んだ。
少し動いては止まり、また石垣の向こうの声を聞いた。まだ人がいた。私たちが動いている間にも、その声は途切れたり、近くの別の声へ変わったりしていた。
清美のところまで戻ると、信子がこちらを見た。
幸子と二人では、清美の身体を地面につけたまま動かせずにいた。清美は片足を横へ伸ばし、歯を食いしばっている。
千代が足元へ回った。
「持つよ」
声は、息に紛れるほど小さかった。
私も清美の肩の下へ手を入れた。信子と一緒に上半身を支え、幸子と千代が足を動かした。
清美の顔が私の腕へ押しつけられた。
唇から熱い息が漏れたが、声にはならなかった。
少しずつ後ろへ動かした。清美のもんぺが泥を擦り、引っかかるたびに止まった。その間、私は石垣の向こうを見なかった。見れば、手を離して自分だけ伏せてしまいそうだった。
先生が清美の荷物を持ち、先に隙間を通した。
「もう少し」
清美に言ったのか、自分に言ったのか分からなかった。
*
石垣から離れ、低い地面へ下りたところで、ようやく身体を少し起こせた。
前にいた生徒たちが、岩の間へ入っていく。野原さんは、来た道とは違う方へ私たちを導いた。
私は清美を支えたまま歩いた。
肩へ回された腕は軽かったが、清美が傷めた足を浮かせるたび、身体の重さがこちらへかかった。膝が震え、踏ん張れなくなる前に、静子が反対側へ来た。
「少し代わる」
静子は肩を庇いながら、清美の腰へ腕を回した。
信子も戻ってきたので、私は清美の腕の下から抜けた。自分の荷物を受け取ると、その重さだけで前へよろけた。
文子が待っていた。
「見えた?」
私は頷いた。
「人が、いた」
口にしてから、当たり前のことを言っていると気づいた。
文子は何も言わなかった。私の袖についている泥を見て、それから、自分の手を袖の下へ隠した。
さっきまで私たちのそばにあった白い器や、閉じた口や、宮城さんの顔が浮かんだ。
向こうには、銃を持った兵士がいる。
戻れば、私たちが出てきた壕がある。
私は足を止めそうになり、文子に腕を引かれた。
「先生、行ってる」
顔を上げると、島袋先生が振り返っていた。
*
次の壕の入口は、斜面の下にあった。
野原さんが先に入り、少ししてから、先生を呼んだ。中から出てきた兵隊さんが私たちの人数を見て、入口の脇へ寄るように言った。
すぐには入れなかった。
奥から荷物を運び出す人がいた。狭い入口で身体を捻り、私たちのそばを通る。そのたびに、汗と、長く洗っていない服の匂いがした。
私たちは斜面へしゃがんだ。
ここから畑は見えなかったが、それで兵士がいなくなったわけではなかった。私は後ろの高いところを見てしまい、そのたび先生に、頭を下げて、と声をかけられた。
ようやく中へ入るように言われ、清美から先に下りた。
入口の石は濡れていた。文子が一段下へ足を置き、振り返って手を出した。私はその手を借り、膝を曲げて下りた。
壕の中は暗かった。
目が慣れる前に、誰かの足へ触れた。
「すみません」
謝ると、その人は何も言わずに足を引いた。
奥から咳が聞こえた。湿った土の匂いに、糞尿の匂いが混じっていた。身体を寄せる場所を探しながら進むと、壁際に寝ていた人の上着へ、白いものが動いているのが見えた。
私は顔を逸らし、文子の背中へついていった。
先生に示された場所へ荷物を下ろした。三人が並んで座るには狭く、千代が膝を抱え、文子が少し横を向いた。私も身体を縮めて、その間へ入った。
入口の方で、また砲声がした。
誰かが、今まで来た方にも敵がいる、と言った。
私は文子の腕へ触れた。
文子も千代も、まだここにいた。
そのことを確かめてから、私は足元へ目を落とした。泥に埋まったもんぺの膝に、赤黒い水が滲んでいた。
手を伸ばして布を動かそうとしたが、傷へ貼りついていて剥がせなかった。
千代が私の手を止めた。
「高橋さんに見てもらってから」
私は頷き、壁へ背をつけた。
外で見た兵士の顔を、もう一度思い出そうとした。けれど浮かぶのは、こちらへ向いた身体と、その手にあった銃だけだった。
入口から届く薄い明かりを、人の影が何度も遮った。
そのたびに私は顔を上げ、誰が入ってくるのか確かめた。




