第77話 岩陰の声
前を歩く人の背中が止まったとき、私はすぐには足を止められなかった。
泥に取られた足を抜こうとして身体が前へ傾き、文子の荷物に肩をぶつけた。謝る声も出せないまま踏みとどまると、後ろから来た千代が私の肘を掴んだ。
「止まってる」
その先で、人が小さく身を屈めていた。暗がりに重なる肩や頭の向こうに、道があるのかどうかも分からなかった。
雨は細くなっていたが、服は身体に貼りついたままだった。濡れたもんぺが膝の傷を擦り、一歩ごとに痛んでいたところへ、足を止めた途端、ふくらはぎの奥から別の痛みが上がってきた。
前方から戻ってきた島袋先生が、声を抑えて言った。
「先で人が詰まっています。ここでは道を塞ぐから、そちらへ寄って」
先生の指した先には、低い岩がいくつも突き出していた。その間へ入り込むと、すでに何人かが腰を下ろしていた。軍服の人も、子供を抱いた女の人もいたが、顔を確かめようとする者はいなかった。
千代が先にしゃがみ、文子の腕を引いた。
私も隣へ膝を折った。地面へ腰がつく直前、膝の傷が引きつれて、思わず息を漏らした。
「そこ、石がある」
千代が手で探り、尖った石を脇へ除けてくれた。
座るだけのことが、ひどく難しかった。荷物を下ろすと肩は軽くなったのに、身体のどこへ力を入れて支えればいいのか分からない。私は岩へ背を預け、泥の中へ両足を投げ出した。
文子は座ってからも、手を膝の上に置けずにいた。
両手を少し浮かせたまま、暗い掌を見ている。私はその手を見ないようにして、自分の袖を握った。袖にも、乾いたものと濡れたものが幾重にも染み込んでいた。
*
信子と幸子に支えられて、清美が来た。
腰を下ろすときに顔をしかめ、傷めた足を両手で動かして伸ばした。信子が足元の泥を払おうとしたが、清美は首を振った。
「いい。どうせ、またつくから」
少し離れたところでは、玲子が照子の袋を胸に抱えていた。袋の口から出た紐を何度も結び直している。結び目はもうできていたが、それでも指を動かすのをやめなかった。
島袋先生が人数を確かめながら、私たちの間を通った。
「眠らないでね。動くとき、すぐ立てるように」
その言葉を聞いて、私は初めて、自分が目を閉じかけていたことに気づいた。
眠ってはいけないと思うほど、瞼が重くなった。岩の冷たさが背中を通して身体へ入り込んでくるのに、そのまま横になれたらと思ってしまう。
千代が私の荷物を足元へ寄せた。
「立つとき、これ踏まないように」
「うん」
返事をすると、喉の奥が擦れた。
どこかで水筒の蓋を開ける音がした。すぐに、欲しいと言う子供の声が続いた。母親らしい人が何かを囁き、子供は泣き出す前の長い息を吸った。
私は自分の水筒へ手を伸ばしかけて、やめた。
残りがどれほどあるのか知っていた。次に水が手に入る場所は知らなかった。
*
岩の向こうから、二人の男の人が入ってきた。
一人は肩から袋を提げ、もう一人はその袋の底へ手を添えていた。狭い隙間を通るために身体を横へ向けたとき、袋が岩へ当たり、中で金属の触れ合う音がした。
「そこ、足がある」
千代が小声で言った。
「すみません」
答えた声に、私は顔を上げた。
男の人だと思ったのは、服と、暗がりで見えた身体の大きさのせいだった。近くへ来ると、頬はまだ少年の形をしていた。帽子の下から出た髪が濡れ、額へ貼りついている。
その人も私を見た。
一度、視線が通り過ぎてから戻ってきた。
「……寺田さん?」
名前を呼ばれても、すぐには分からなかった。
声と顔を、記憶の中で合わせようとした。学校へ向かう道。朝の明るさ。文子の横で笑っていた千代。こちらへ声をかけてきた男子生徒。
「森本君?」
直樹は、わずかに頷いた。
笑おうとしたようにも見えたが、口元が少し動いただけだった。
「汐見の人たちかと思ったけど」
文子が顔を上げた。
「健一君も?」
袋の底を支えていた少年が、こちらへ目を向けた。上原健一だった。頬の片側に泥がこびりつき、その下で唇が割れていた。
「うん」
健一は袋を下ろし、息をついた。
それだけで、しばらく話せなかった。
*
直樹たちは、食料を受け取りに行った帰りだと言った。
「道が通れなくなって、回ってきた」
直樹は肩を押さえていた。袋を提げていた側の肩だけ、上着が深く食い込んでいる。そこへ触れる指の爪が、一つ欠けていた。
私はその袋を見た。
学校に通っていたころなら、何を入れているのか尋ねられたと思う。今は、中身を見たいと思った自分に気づいて、目を逸らした。
「鉄血勤皇隊に?」
千代が尋ねると、直樹は頷いた。
「俺たちは、運ぶ方が多い。食べ物とか、荷物とか」
「修君は?」
文子が訊いた。
健一が直樹を見た。
「別のところにいる」
直樹は答えたが、そのあとを続けなかった。
別のところ。
私はその言葉を聞いたまま、頷けなかった。生きていると確かめられる言葉ではなかったけれど、それ以上を訊いても、直樹が答えられるとは思えなかった。
近くで砲声が響いた。
健一がすぐに頭を伏せ、直樹も岩へ身体を寄せた。私たちも屈んだ。地面を伝ってきた震えが、座っていた骨へ直接響いた。
少し遅れて、岩の上へ土が落ちた。
直樹は頭を上げずに、袋を手元へ引いた。中身より先に自分の身体を守っていいはずなのに、その手は袋の紐を握っていた。
*
音が遠ざかってから、直樹が私の足元を見た。
「膝、怪我してる?」
「転んだだけ」
私は答えた。
それなら大丈夫、と言ってほしかったわけではなかった。ただ、説明を始めれば、照子を担いでいた道まで話さなければならない気がした。
直樹は自分のポケットを探った。
何かを出しかけてから、中を確かめ、手を止めた。
「布、あればと思ったんだけど」
「巻いてるから」
私がそう言うと、直樹は頷いて手を戻した。
包帯の代わりにした布は、泥と血を吸って固くなっていた。見れば足りないと分かっただろう。それでも直樹は、もう何も言わなかった。
千代が清美の足の位置を直している。文子は岩へ背をつけ、目を閉じては開けていた。直樹と健一は、下ろしたばかりの袋をもう持ち上げる準備をしていた。
久しぶりに会ったのに、誰も学校の話をしなかった。
あの朝、何を話して笑ったのか、私は思い出そうとした。運動会のことだったはずなのに、今は直樹の欠けた爪ばかり目に入った。
「そっちは、これからどこへ?」
直樹が尋ねた。
私は島袋先生のいる方を見た。
「もっと南へ」
答えながら、胃のあたりが冷たくなった。
南へ行く。
歩く人たちの足元ばかり見ているうちに、方向はただ、前の人についていくことになっていた。それでもその言葉を口にすると、教科書で見た地図の下の方が浮かんだ。
摩文仁。
まだ、ここがどこなのかさえはっきりしない。それなのに、向かっている先だけが、少しずつ近づいてくる気がした。
直樹は何も知らない顔で、私の返事を聞いていた。
教えたいと思った。
そちらへ行ってはいけないと。
けれど、直樹の肩には、戻って届けなければならない荷物があった。私の隣には、一人では立ち上がれない清美がいた。ここで別の方向を指しても、その先に通れる道があるとは言えなかった。
「寺田さん?」
呼ばれて、私は直樹を見た。
「ううん」
それだけを答えると、文子が私の袖へ触れた。
何を思い出したのか、訊かなくても分かったようだった。
*
前方から、動くようにという声が伝わってきた。
島袋先生が私たちを呼び、信子と幸子が清美の両側へ回った。玲子は照子の袋を抱え直した。
私は岩へ手をついて立とうとしたが、膝が伸びなかった。
力を入れ直すと、ふくらはぎが攣った。顔を伏せたまま息を止めていると、直樹が袋を健一へ預け、私の腕を支えた。
「ゆっくり」
千代も反対側へ来た。
二人に支えられて、ようやく立った。座っていた時間は短かったはずなのに、身体は歩き方を忘れたようだった。
「もう持てる」
私が言うと、直樹は腕を離した。
健一が袋の片側を持ち上げる。直樹も紐を肩へかけ、二人は私たちと違う岩の隙間へ向かった。
「気をつけて」
文子が言った。
直樹は振り返って頷いた。
「そっちも」
次に会えると言う人はいなかった。
私は二人の背中を見ていたが、先生に呼ばれ、列へ戻った。文子の腕へ手を添え、千代が後ろについていることを確かめてから、一歩を踏み出した。
岩陰を離れると、雨がまた顔へ当たった。
休んだ足は少しも軽くなっていなかった。それでも前の人が進めば、私たちも進まなければならなかった。




