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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第76話 口を閉じた人



 宮城さんは、口を閉じていた。


 器を近づけても、顔を動かさなかった。私の手を見ていた目が上がり、後ろに立っている軍人へ向いた。


「飲まんと言った」


 私は器を止めた。


 背中を支える腕に、宮城さんの重さが掛かっていた。少し起こしているだけでも息が苦しいのか、胸が細かく動いていた。


「学生、何を止まっている」


 後ろから声がした。


 私は振り向けなかった。


 器を上げれば、宮城さんの唇へ当たる。傾ければ、中のものが流れる。そこまでは分かった。


 分かっているから、動かせなかった。


「この人、飲みたくないって」


 言うと、軍人の靴が近づいた。


「貴様に判断を求めてはいない」


 器の縁が鳴った。


 両手で持っているのに、震えを止められなかった。白いものが指に掛かり、巻いていた布へ染みた。


 宮城さんの手が、私の手首へ触れた。


「置いてくれ」


 私は顔を見た。


「それを、そこへ置いてくれ」


 宮城さんは私に向かって言った。


 私は器を下げた。


     *


 軍人が私の肩を掴んだ。


 指が上着へ食い込み、身体が後ろへ引かれた。宮城さんを支えていた腕がずれ、その人の背中が床へ落ちかけた。


 文子が横から支えた。


「動かさないでください」


 文子の声がした。


 軍人は文子を見た。


 私は器を床へ置いた。離した手が震えたまま、膝の上へ戻った。


「命令に背くのか」


 肩を掴む手に力が入った。


 私は首を振ろうとした。


 背くつもりはないと言えば、また器を持つことになる。そう思うと、頷くことも首を振ることもできなかった。


 千代がそばへ来た。


 白く濡れた手を身体の横へ下げ、私の前にしゃがんだ。何か言おうとしたが、唇が動いただけだった。


 高橋さんが戻ってきた。


「生徒を離してください」


 軍人は手を離さなかった。


「この患者は拒否しています」


「だから何だ」


「自分で飲む意思のない人へ、この子たちにさせるのですか」


 高橋さんの声は低かった。


 私はその顔を見た。唇の色が薄く、顎のあたりが震えていた。


 軍人は高橋さんを見返した。


 入口から出発を急かす声がした。


 私の肩にあった手が、ようやく離れた。


     *


「学生は先に出せ」


 軍人が言った。


 高橋さんはすぐに私たちへ向き直った。


「立って。荷物を持ちなさい」


 文子が宮城さんの身体をゆっくり下ろした。私は枕代わりの布を寄せ、頭の下へ入れた。


 器は足元にあった。


 宮城さんがそれを指した。


「そっちへ」


 私は手の届かない方へ動かした。


 軍人が別の患者さんのところへ向かった。高橋さんはそこを見てから、私たちの背中へ手を当てた。


「先生のところへ行って」


 私は立ち上がった。


 膝が伸びきらず、文子の肩へ手をついた。千代が私の腕を取った。


 宮城さんを見下ろした。


 何か言わなければと思った。


 ありがとうも、すみませんも、その場所から出ていく言葉にしてしまうのが怖かった。


 宮城さんは私を見た。


「行きなさい」


 私は動かなかった。


「学生さん」


 もう一度呼ばれた。


「名前は」


「寺田……理恵です」


 宮城さんは小さく頷いた。


 それだけで、私は泣きそうになった。何度も水を飲ませたのに、自分の名前を伝えていなかった。


「理恵さん」


 宮城さんは、その名前を声にした。


 私は返事をした。


 宮城さんは目を閉じた。呼吸は続いていた。


     *


 千代を連れて通路へ戻った。


 千代は、倒れた兵隊さんを見ないようにしていた。それでも、その人のいる場所へ近づくと足が止まった。


 文子が先に回り、狭い隙間を示した。


「ここ、通れる」


 千代は頷かなかった。


 私はその腕を持った。


 千代の指から、まだ白い滴が落ちていた。袖で拭こうとしたが、千代が手を引いた。


「つく」


 小さな声だった。


 私は布を探した。


 ポケットには、汚れたものしかなかった。何も見つからず、手を止めると、千代は自分のもんぺへ掌を押しつけた。


 白い跡が残った。


 千代はそれを見て、擦るのをやめた。


     *


 島袋先生が入口の近くで待っていた。


 私たちを見ると、高橋さんのいる方へ顔を向けた。何があったか尋ねようとしたのかもしれなかったが、出てきたのは、三人ともいるね、という言葉だった。


 先生は一人ずつ肩へ触れた。


 私の荷物は美咲が持っていた。受け取ろうとすると、掌の布を見て、そのまま持っていくと言った。


「自分で持つ」


 私は言った。


 何か持っていなければ、また器の感触が戻ってきそうだった。


 美咲は風呂敷を渡した。


 私は紐を握り、肩へ掛けた。白く濡れた指が結び目へ触れたことに気づき、すぐに手を離した。


 村田さんが、棒をついて通路を進んでいた。


 そばの兵隊さんが脇を支え、先生が足元の荷物を動かした。


 私たちを見ると、村田さんは立ち止まりかけた。


「学生さん」


 私は顔を上げた。


 村田さんの視線が、私の手へ落ちた。


 そのあと、何も尋ねずに入口へ向かった。


     *


 壕を出る順番が来た。


 千代が先に身体を曲げ、文子が続いた。私は入口の石へ手をついた。


 外の空気が顔へ触れた。


 奥から、また声が聞こえた。


 誰の声なのかは分からなかった。名前を呼んでいるようにも、何かを拒んでいるようにも聞こえた。


 私は振り返った。


 人の背中と、運ばれる箱に遮られ、宮城さんの場所は見えなかった。


「寺田さん、頭を下げて」


 先生に言われ、入口をくぐった。


 肩が岩へ擦れた。


 外へ出た途端、息が大きく入った。壕の中では感じなくなっていた匂いが、上着へ染みているのが分かった。


 私は両手を身体から離した。


     *


 列はまだ動き始めていなかった。


 前を確かめる人が戻るまで、岩の陰で待った。私たちは三人でしゃがみ、荷物を膝へ寄せた。


 千代が地面へ指を擦りつけていた。


 泥へ押し込み、引き抜き、また擦った。


「千代」


 文子が手首へ触れた。


 千代は顔を上げなかった。


「私、口まで持っていった」


 私は千代を見た。


「飲む前に、払われた。でも、持っていった」


 文子の手が止まった。


 私も、宮城さんの唇へ器を当てた。


 飲まなかった。宮城さんが口を閉じていたからだった。


 私が止めたからではなかった。


「私も」


 言うと、千代が顔を上げた。


 文子が自分の掌を見た。


「私の人は、一口……」


 そこで声が切れた。


 私は文子の顔を見た。


 さっきまで、文子が誰のところにいたのかも確かめていなかった。奥で人が吐き、千代の前で銃声がして、宮城さんの身体を支えることしか考えられなかった。


「その人、どうなった」


 千代が尋ねた。


 文子は首を振った。


「出るように言われて。まだ、私を見てた」


 文子の声が細くなった。


「何も聞かれなかった。飲んで、私を見てた」


     *


 私は文子へ手を伸ばしかけた。


 掌の布に、白いものが染みていた。


 途中で止めると、文子がその手を取った。


 千代の手も、反対側から重なった。


 三人とも汚れていた。


 血も、泥も、白い跡もついていた。誰の手にも、さっきまでの仕事が残っていた。


 文子は泣いていた。


 声が出るたびに口を押さえ、壕の入口へ顔を向けた。誰かに聞かれれば、また黙れと言われるかもしれなかった。


 私はその肩へ額を寄せた。


 知っていた、と言えなかった。


 前に伝えた、とも言えなかった。


 知っていたことを二人に話して、一緒に考えて、それでも三人とも器を持った。


 千代が私たちの手を強く握った。


     *


 前から、進むように声が伝わってきた。


 私たちは手を離した。


 文子が袖で顔を拭き、千代が荷物を持ち上げた。私も肩の紐を直し、立ち上がった。


 後ろから高橋さんが出てきた。


 私はすぐにその顔を見た。


 宮城さんのことを尋ねたかった。文子が飲ませた人のことも、まだ中にいる人たちのことも。


 高橋さんは私たちを確かめ、先生へ小さく頷いた。


 入口では、次の人が身体を曲げていた。


 私は質問できないまま、列へ入った。


 夜の道は、前に歩いた道と同じように濡れていた。前の人が止まれば止まり、進めば進んだ。


 文子は私のすぐ前にいた。


 何度も、自分の手を見ていた。


 私はその背中を見失わないように歩いた。宮城さんが呼んだ名前が、頭の中で繰り返されていた。


 理恵さん。


 あの人が最後に私を呼んだ声を、私はまだ、最後の声にしたくなかった。

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