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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第75話 出発の前に



 薬の箱が閉じられた。


 私は洗った布を持って戻ったところだった。軍医のそばにあった器具も包まれ、高橋さんが紐を掛けていた。


「また、移るんですか」


 尋ねると、高橋さんは手を止めずに頷いた。


「暗くなってから。先生が皆に伝えています」


 ここへ着いてから、何度眠ったのか分からなかった。身体が床の形を覚えるより先に、また荷物をまとめることになった。


 私は持っていた布を見た。


「これは」


「まだ使います。そこへ置いて」


 箱の上へ載せると、奥で患者さんが呼んだ。


 高橋さんは顔を上げ、それから私へ向き直った。


「寺田さん、宮城さんのところへ水を」


 私は器を取った。


     *


 宮城さんは、両脚を傷めていた。


 ここへ来た日に名前を教えてもらった。水を飲ませるたびに礼を言い、そのあと必ず、ほかの人にも回してくれと頼んだ。


 今日も器を寄せると、少しだけ飲んで顔を引いた。


「もういい」


「まだあります」


「あとでにする」


 私は枕元へ置いた。


 宮城さんは、荷物をまとめる人たちを見ていた。吊った腕を身体へ寄せ、箱を運ぶ兵隊さんが横を通ると、通りやすいよう肩を引いた。


「今日は、どっちへ」


「まだ聞いていません」


 私は答えた。


「南かな」


 宮城さんが言った。


 私はその顔を見た。


「前も、そうだったから」


 宮城さんは少し笑おうとした。唇の端が動いただけだった。


「今度は、何人で運ぶんだろうな」


 私は足元へ目を落とした。


 その人の身体の下には、担架がなかった。


     *


 島袋先生が、私たちを順に呼んだ。


 歩ける人は荷物をまとめ、支えが必要な生徒には二人ずつつくことになった。清美は前と同じように、信子と幸子が受け持った。


 文子の額の傷も確かめられた。


 私は膝を見せた。立って歩くところまで見られ、荷物を持てるか尋ねられた。


「持てます」


 答えると、先生は頷いた。


 玲子は照子の荷物を自分のものと一緒に結んでいた。


 先生はそれを見たが、何も言わなかった。


 呼ばれた生徒たちが仕事へ戻ると、私は先生のそばに残った。


「宮城さんは、どうなりますか」


 先生は患者さんのいる方を見た。


「今、軍医の先生たちが決めています」


「運ぶ人がいれば」


 言いかけて、私は口を閉じた。


 同じことを照子のときにも言った。


 先生が私の肩へ触れた。


「決まったら、伝えます」


 私は頷いた。


 その返事を待つ時間も、仕事をしなければならなかった。


     *


 昼を過ぎたころ、軍人が奥へ入ってきた。


 軍医と低い声で話し、高橋さんを呼んだ。私は少し離れたところで器を洗っていた。


 話している内容は全部は聞こえなかった。


 運べる人数。


 残る者。


 敵の手に渡る。


 その言葉だけが、器の当たる音の間に届いた。


 私は手を止めた。


 高橋さんが何か言った。軍人は首を振り、もう一度強い声で答えた。


「決まったことだ」


 高橋さんの肩が動いた。


 私は洗い終えた器を置き、文子を探した。文子は千代と一緒に、患者さんの上着を直していた。


 二人ともこちらを見た。


 私は何も言わなかったが、文子が手元の紐を結び終えると、立ち上がった。


     *


 私たち三人と、別の生徒が数人、奥へ呼ばれた。


 軍人の足元に器が並んでいた。


 中には、白い液体が入っていた。


 初めは、どうして今まで出さなかったのだろうと思った。ご飯も、水も、少しずつしか回せなかった。ミルクがあるなら、熱のある人や、食べられない人へ飲ませられたはずだった。


 そのあとで、器が置かれた場所を見た。


 歩けない患者さんの近くだった。


「残る患者に飲ませる」


 軍人が言った。


 私の横で、千代が息を吸った。


 文子の指が私の袖へ触れた。


 私は白い表面を見た。灯りが揺れると、器の縁だけが明るくなった。


「これが……」


 声が出た。


 軍人が私を見た。


「何だ」


 私は答えられなかった。


 前に三人で話した言葉が、今ある器と重なった。


 青酸カリ。


 知っていたはずなのに、白いものを見た瞬間には、食べ物だと思ってしまった。


     *


「何が入っているんですか」


 文子が尋ねた。


 軍人は文子を見た。


「余計なことを聞くな。命令だ」


 文子の手が袖から離れた。


 高橋さんがそばにいた。


 私はその顔を見た。高橋さんは私たちを見ていたが、すぐに視線を器へ戻した。


「歩ける者は出発する。ここで手間取るな」


 軍人が言った。


 千代が小さく首を振った。


「私たちは、看護を……」


「だから頼んでいる」


 言葉が遮られた。


 千代の口が閉じた。


 私は器から目を離した。入口までの通路が見えた。そこへ行けば外へ出られたが、軍人の横を通らなければならなかった。


 清美へ向けられた銃口を思い出した。


 今は銃を上げられていなかった。それでも、断ったあとに何が起きるかを考えると、足が動かなかった。


「一人一つ、持て」


 軍人が言った。


 私はしゃがんだ。


 器を取る指が震え、縁に爪が当たった。


     *


 宮城さんのところへ行った。


 その人は私の持つものを見た。


「ミルクか」


 私は頷けなかった。


「学生さん、どうした」


 膝をついた。器を床へ置こうとすると、後ろから声がした。


「飲ませろ」


 私は止まった。


 宮城さんは私の後ろを見た。それから器へ目を戻した。


 私は背中へ手を入れた。


 いつも水を飲ませるときと同じように、少し起こそうとした。宮城さんは私へ身体を預けた。


 その重さが腕へ掛かった。


 私は器を持ち上げた。


 白い表面が揺れた。口元へ近づける間に、自分の息が何度も途切れた。


「学生さん」


 宮城さんが呼んだ。


「何で、泣いてる」


 私は涙が出ていることに気づいた。


 器を下げようとした。


 後ろで靴が動いた。


「早くしろ」


 私は腕を上げ直した。


 宮城さんの唇へ、器の縁が触れた。


     *


 奥から、吐く音がした。


 誰かが激しく咳き込み、身体を起こそうとしていた。器が岩へぶつかり、白いものが床へこぼれた。


「何を飲ませた!」


 男の人の声だった。


 私は器を引いた。


 宮城さんが顔を向けた。文子も千代も、離れた場所で手を止めていた。


 呻く声が続いた。


 吐いた人のそばにいた生徒が、高橋さんを呼んだ。高橋さんが身体を支え、顔を横へ向けた。


 灯りの下で、口元から白いものが垂れた。


 その人は呼吸をしようとして、肩を持ち上げた。近くの患者さんが身体を引いたが、離れる場所はなかった。


「何を……」


 言葉が途中で切れた。


 私は器を持ったまま、その人を見ていた。


 高橋さんが名前を呼んだ。


 もう一度呼び、手首へ指を当てた。


 返事がなかった。


     *


 宮城さんの手が、私の腕を押した。


「下げてくれ」


 私はすぐに下げた。


 宮城さんは私を見た。


 さっきまでの、飲む前の顔ではなかった。


「もういい」


 その声は静かだった。


 私は器を床へ置いた。


「すみません」


 何について謝っているのか、自分でも分からなかった。


 宮城さんは私から手を離した。


 その隣で、別の負傷兵が器を払った。


 千代が持っていたものだった。白い液体が千代の手へ掛かり、器が転がった。


「あんたに殺されるくらいなら、自分で死ぬ」


 その人が言った。


 千代は動かなかった。


 兵隊さんは上着の内側へ手を入れた。


 近くにいた人が腕を伸ばした。止めようとしたのだと思う。私は何が出てきたのか見る前に、文子に肩を引かれた。


 鋭い音が、壕の中へ響いた。


 私は目を閉じた。


 開けると、千代の前で人の身体が崩れていた。


 千代の手から、白い滴が落ちた。


     *


「何をしている。続けろ」


 軍人の声がした。


 私はその人を見た。


 誰かが死んだばかりだった。奥では、高橋さんがまだもう一人のそばにいた。器を持っている生徒たちは、皆、止まっていた。


 それでも、声は私たちへ向けられていた。


 文子が私の横へ来た。


 持っていた器を、自分の膝の前へ置いた。文子の唇には血の気がなかった。


 千代は転がった器を見ていた。


 私は宮城さんの背中を支えたままだった。


「その患者は、まだだな」


 軍人が私のそばへ来た。


 宮城さんが顔を上げた。


「飲まん」


「貴様も、分かっているだろう」


「この子に、やらせるな」


 宮城さんが言った。


 私は腕の中の重さを感じていた。生きている身体だった。熱があり、息をして、私を庇う言葉を出していた。


 軍人が器を指した。


「学生、持て」


 私は床へ置いたものを見た。


 器の縁には、宮城さんの唇が触れた跡が残っていた。


     *


 指を伸ばした。


 触れる前に、手が震えた。


 後ろへ引けば命令に背く。持てば、もう一度あの口元へ運ばなければならない。


 文子の手が私の腕へ触れた。止めるためなのか、支えるためなのか分からなかった。


 千代が私の名前を呼んだ。


 私は器を持った。


 白いものが縁まで揺れ、指へ掛かった。


 水を汲んで、布を洗い、血を拭いてきた手だった。


 宮城さんは、私の手だけを見ていた。

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