↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

74/124

第74話 布を裂く



 布が足りないと言われ、美咲が荷物から着替えを出した。


 何度も洗った薄い上着だった。膝へ広げ、縫い目を確かめてから、高橋さんに見せた。


「これ、使えますか」


 高橋さんは袖の内側へ触れた。


「洗って、使えるところを分けましょう」


 美咲は頷いた。


 私は水を運んだ。昨日汲んできた分を使うため、桶へ全部は入れなかった。少しだけ移すと、美咲が上着を浸し、布同士を擦り合わせた。


 水がすぐに灰色になった。


 袖口や襟には、汗と泥が染み込んでいた。美咲は内側を外へ返し、肩のところを洗った。


「これ、もう着ないの?」


 私が尋ねると、美咲は布を絞りながら答えた。


「今着てるのがあるから」


 今着ている上着も、裾が破れていた。


 私は自分の荷物を見た。替えを一枚出し、美咲の横へ置いた。


     *


 乾くまで待てる分ばかりではなかった。


 頭に布を巻いた人が入口から運ばれ、そのすぐあとに、背中を傷めた兵隊さんが入ってきた。軍医は奥で別の人を診ていて、高橋さんが先に傷を確かめた。


 私は膝をつき、切り開いた軍服を持った。


 背中の布が血で貼りついていた。持ち上げると患者さんが声を上げたため、高橋さんが少しずつ湿らせて剥がした。


 肩甲骨の下に傷があった。


 縁へ黒い汚れが入り込み、その周りに赤い擦り傷が広がっていた。呼吸に合わせて背中が動くと、傷の間から血が滲んだ。


「学生さん、顔の方へ回って」


 高橋さんに言われ、私は患者さんの口元へ器を置いた。


 その人は顔を横へ向けていた。唾と泥が唇についていたため、布で拭いた。


「ここへ、顔を向けてください」


 軍医が来ると、身体の下へ入れるものを求めた。


 高橋さんが棚代わりの箱を開けた。


 畳んである布は、もう僅かだった。


     *


 軍医の手が傷へ触れるたび、患者さんの腰が浮いた。


 千尋が肩を押さえた。幸子が反対側へ回り、動かさないでくださいと声をかけた。


 私は顔のそばにいた。


 患者さんは歯を食いしばっていたが、途中から声が漏れた。喉で止めようとして、息が続かなくなっていた。


「待ってくれ」


 軍医の手は止まらなかった。


「待って、少し」


 その人が私の腕を掴んだ。


 指が食い込んだ。私は手を引かず、ここにいますと答えた。言ったあとで、返事になっていないと思った。


 待ってほしいと頼まれていた。


 ここにいるだけでは、痛みは止まらなかった。


 高橋さんが新しい布を求めた。


 私は顔のそばを文子に代わってもらい、箱へ向かった。残っていた一枚を取り、戻った。


 次に呼ばれたときには、箱の底が見えた。


     *


 美咲が洗った上着を持ってきた。


 湿ったままだった。高橋さんが傷へ直接当てるものと、その上から押さえるものを分け、使う場所を指示した。


 美咲は裾へ切り込みを入れた。


 そこから両手で裂いた。


 布が裂ける音が、患者さんの声の間に聞こえた。袖も外し、縫い目の厚いところを避けて細くした。


 私は受け取った布を畳んだ。


 前は制服のほつれを見つけると、これ以上広がらないように縫っていた。今は自分たちで端を破り、もう着られないものにしていた。


 美咲が襟のところで手を止めた。


 小さな縫い取りがあった。家で目印につけたものだという。


「ここ、厚いから避けよう」


 私が言うと、美咲は頷いた。


 襟だけが膝の上へ残った。


     *


 処置が終わったあと、患者さんの呼吸が変わった。


 さっきまで声を出していたのに、急に静かになった。眠ったのかと思い、私は顔へ近づいた。


 目は開いていた。


 私を見ているようで、視線が動かなかった。


「高橋さん」


 呼ぶと、高橋さんはすぐに膝をついた。


 軍医も戻った。


 私は横へ寄せられた。文子が持っていた灯りを動かし、軍医の手元を照らした。


 患者さんの胸が一度大きく動いた。


 そのあと、次の息までの間が長くなった。


 私は器を持って待っていた。喉が渇いたと言われたら、すぐ口元へ寄せられる場所にいた。


 軍医が胸元を確かめ、手首へ指を当てた。


 患者さんの名前を、私はまだ知らなかった。


     *


 高橋さんが、もう器は置いていいと言った。


 私は床へ下ろした。


 そばにいた兵隊さんが軍医に何か尋ねた。短い返事があり、その人は顔を伏せた。


 文子が灯りを少し離した。


 私は患者さんの腕を見た。


 さっきまで私を掴んでいた指が開いていた。爪の下に泥が残り、手の甲に小さな傷が幾つもあった。


 高橋さんが顔へ布を掛けた。


 すぐ隣の患者さんが、その動きを見ないように顔を背けた。私は置いた器を拾い、口元についていた汚れを拭いた。


 器の中には、水が残っていた。


     *


 身体を壁際へ寄せるため、佳代が呼ばれた。


 私も足の方へ回った。


 動かすと、敷いていた布が床から剥がれた。血が裏まで染み、濡れた土へ貼りついていた。


 身体はまだ温かかった。


 持ち上げた拍子に口元の布がずれ、私は顔を見た。痛みに歪んでいたときとは違う顔だった。


 その違いを、楽になったのだとは思えなかった。


 呼吸が戻れば、また痛いと言ったはずだった。それでも、生きていてほしかった。


 下ろしてから、高橋さんが所持品を確かめた。


 小さな手帳が出てきた。濡れた表紙を開き、名前を先生に伝えた。先生が紙へ書いた。


 私はその名前を聞き取ろうとした。


 奥から学生さんを呼ぶ声が重なり、もう一度尋ねる前に、高橋さんがそちらへ向かった。


     *


 文子が私の腕を見た。


 袖を少し上げると、患者さんの指が当たったところに赤い跡が並んでいた。


「痛い?」


「少し」


 私は答えた。


 文子はそっと袖を戻した。


 壁際に置かれた身体へ目を向け、そのあと、私へ顔を寄せた。


「理恵が話してくれたこと、覚えてる」


 声は周りに聞こえないほど小さかった。


「でも、私、今日の人が死ぬかもしれないって、途中まで思わなかった」


 私も同じだった。


 傷がどこにあるか見えた。声が聞こえ、手を握る力もあった。先生が来て、手当てをすれば、そのあとも水を飲ませたり、身体を拭いたりするのだと思っていた。


「私も」


 私は答えた。


 文子は目を閉じ、額の布を押さえた。


 未来の戦争の結末を覚えていても、目の前の息がどこで止まるのかは、分からなかった。


     *


 美咲は残った布を分けていた。


 長く使えるものと、小さく畳むものを膝へ並べた。裂いた上着の襟は、荷物の上に置いてあった。


 私は隣へ座った。


「これ、持ってていい?」


 美咲が襟を指した。


「うん」


 答えると、美咲は小さく畳み、自分の風呂敷へ入れた。


 そのあと、私の出した着替えを広げた。


「こっちも、いい?」


 私は頷いた。


 切り込みを入れた布を受け取り、美咲と反対側へ引いた。途中で止まり、もう一度力を入れると、裾から肩の方へ裂け目が伸びた。


 おばちゃんの家で、洗って干した服だった。


 着替えるとき、少し乾きが足りなくても、着ていればそのうち乾いた。窓のそばへ掛ければ、夜のうちに風が通った。


 私は縫い目を避け、もう一本裂いた。


 奥から、高橋さんが布を求めた。


 美咲が畳んだものを私へ載せた。


 私は両手で受け取り、低い通路へ入った。声のする場所まで、こぼさずに持っていかなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。