第74話 布を裂く
布が足りないと言われ、美咲が荷物から着替えを出した。
何度も洗った薄い上着だった。膝へ広げ、縫い目を確かめてから、高橋さんに見せた。
「これ、使えますか」
高橋さんは袖の内側へ触れた。
「洗って、使えるところを分けましょう」
美咲は頷いた。
私は水を運んだ。昨日汲んできた分を使うため、桶へ全部は入れなかった。少しだけ移すと、美咲が上着を浸し、布同士を擦り合わせた。
水がすぐに灰色になった。
袖口や襟には、汗と泥が染み込んでいた。美咲は内側を外へ返し、肩のところを洗った。
「これ、もう着ないの?」
私が尋ねると、美咲は布を絞りながら答えた。
「今着てるのがあるから」
今着ている上着も、裾が破れていた。
私は自分の荷物を見た。替えを一枚出し、美咲の横へ置いた。
*
乾くまで待てる分ばかりではなかった。
頭に布を巻いた人が入口から運ばれ、そのすぐあとに、背中を傷めた兵隊さんが入ってきた。軍医は奥で別の人を診ていて、高橋さんが先に傷を確かめた。
私は膝をつき、切り開いた軍服を持った。
背中の布が血で貼りついていた。持ち上げると患者さんが声を上げたため、高橋さんが少しずつ湿らせて剥がした。
肩甲骨の下に傷があった。
縁へ黒い汚れが入り込み、その周りに赤い擦り傷が広がっていた。呼吸に合わせて背中が動くと、傷の間から血が滲んだ。
「学生さん、顔の方へ回って」
高橋さんに言われ、私は患者さんの口元へ器を置いた。
その人は顔を横へ向けていた。唾と泥が唇についていたため、布で拭いた。
「ここへ、顔を向けてください」
軍医が来ると、身体の下へ入れるものを求めた。
高橋さんが棚代わりの箱を開けた。
畳んである布は、もう僅かだった。
*
軍医の手が傷へ触れるたび、患者さんの腰が浮いた。
千尋が肩を押さえた。幸子が反対側へ回り、動かさないでくださいと声をかけた。
私は顔のそばにいた。
患者さんは歯を食いしばっていたが、途中から声が漏れた。喉で止めようとして、息が続かなくなっていた。
「待ってくれ」
軍医の手は止まらなかった。
「待って、少し」
その人が私の腕を掴んだ。
指が食い込んだ。私は手を引かず、ここにいますと答えた。言ったあとで、返事になっていないと思った。
待ってほしいと頼まれていた。
ここにいるだけでは、痛みは止まらなかった。
高橋さんが新しい布を求めた。
私は顔のそばを文子に代わってもらい、箱へ向かった。残っていた一枚を取り、戻った。
次に呼ばれたときには、箱の底が見えた。
*
美咲が洗った上着を持ってきた。
湿ったままだった。高橋さんが傷へ直接当てるものと、その上から押さえるものを分け、使う場所を指示した。
美咲は裾へ切り込みを入れた。
そこから両手で裂いた。
布が裂ける音が、患者さんの声の間に聞こえた。袖も外し、縫い目の厚いところを避けて細くした。
私は受け取った布を畳んだ。
前は制服のほつれを見つけると、これ以上広がらないように縫っていた。今は自分たちで端を破り、もう着られないものにしていた。
美咲が襟のところで手を止めた。
小さな縫い取りがあった。家で目印につけたものだという。
「ここ、厚いから避けよう」
私が言うと、美咲は頷いた。
襟だけが膝の上へ残った。
*
処置が終わったあと、患者さんの呼吸が変わった。
さっきまで声を出していたのに、急に静かになった。眠ったのかと思い、私は顔へ近づいた。
目は開いていた。
私を見ているようで、視線が動かなかった。
「高橋さん」
呼ぶと、高橋さんはすぐに膝をついた。
軍医も戻った。
私は横へ寄せられた。文子が持っていた灯りを動かし、軍医の手元を照らした。
患者さんの胸が一度大きく動いた。
そのあと、次の息までの間が長くなった。
私は器を持って待っていた。喉が渇いたと言われたら、すぐ口元へ寄せられる場所にいた。
軍医が胸元を確かめ、手首へ指を当てた。
患者さんの名前を、私はまだ知らなかった。
*
高橋さんが、もう器は置いていいと言った。
私は床へ下ろした。
そばにいた兵隊さんが軍医に何か尋ねた。短い返事があり、その人は顔を伏せた。
文子が灯りを少し離した。
私は患者さんの腕を見た。
さっきまで私を掴んでいた指が開いていた。爪の下に泥が残り、手の甲に小さな傷が幾つもあった。
高橋さんが顔へ布を掛けた。
すぐ隣の患者さんが、その動きを見ないように顔を背けた。私は置いた器を拾い、口元についていた汚れを拭いた。
器の中には、水が残っていた。
*
身体を壁際へ寄せるため、佳代が呼ばれた。
私も足の方へ回った。
動かすと、敷いていた布が床から剥がれた。血が裏まで染み、濡れた土へ貼りついていた。
身体はまだ温かかった。
持ち上げた拍子に口元の布がずれ、私は顔を見た。痛みに歪んでいたときとは違う顔だった。
その違いを、楽になったのだとは思えなかった。
呼吸が戻れば、また痛いと言ったはずだった。それでも、生きていてほしかった。
下ろしてから、高橋さんが所持品を確かめた。
小さな手帳が出てきた。濡れた表紙を開き、名前を先生に伝えた。先生が紙へ書いた。
私はその名前を聞き取ろうとした。
奥から学生さんを呼ぶ声が重なり、もう一度尋ねる前に、高橋さんがそちらへ向かった。
*
文子が私の腕を見た。
袖を少し上げると、患者さんの指が当たったところに赤い跡が並んでいた。
「痛い?」
「少し」
私は答えた。
文子はそっと袖を戻した。
壁際に置かれた身体へ目を向け、そのあと、私へ顔を寄せた。
「理恵が話してくれたこと、覚えてる」
声は周りに聞こえないほど小さかった。
「でも、私、今日の人が死ぬかもしれないって、途中まで思わなかった」
私も同じだった。
傷がどこにあるか見えた。声が聞こえ、手を握る力もあった。先生が来て、手当てをすれば、そのあとも水を飲ませたり、身体を拭いたりするのだと思っていた。
「私も」
私は答えた。
文子は目を閉じ、額の布を押さえた。
未来の戦争の結末を覚えていても、目の前の息がどこで止まるのかは、分からなかった。
*
美咲は残った布を分けていた。
長く使えるものと、小さく畳むものを膝へ並べた。裂いた上着の襟は、荷物の上に置いてあった。
私は隣へ座った。
「これ、持ってていい?」
美咲が襟を指した。
「うん」
答えると、美咲は小さく畳み、自分の風呂敷へ入れた。
そのあと、私の出した着替えを広げた。
「こっちも、いい?」
私は頷いた。
切り込みを入れた布を受け取り、美咲と反対側へ引いた。途中で止まり、もう一度力を入れると、裾から肩の方へ裂け目が伸びた。
おばちゃんの家で、洗って干した服だった。
着替えるとき、少し乾きが足りなくても、着ていればそのうち乾いた。窓のそばへ掛ければ、夜のうちに風が通った。
私は縫い目を避け、もう一本裂いた。
奥から、高橋さんが布を求めた。
美咲が畳んだものを私へ載せた。
私は両手で受け取り、低い通路へ入った。声のする場所まで、こぼさずに持っていかなければならなかった。




