第73話 水を汲む
桶の底が見えていた。
高橋さんが残った水を器へ分け、傷を拭く分だけを脇へ置いた。私たちは空になった桶を見ていた。
前の壕では、どこに置いてあるかを確かめればよかった。ここでは、次の水がいつ来るのか分からなかった。
「今夜、汲みに行きます」
高橋さんが言った。
信子と佳代、それに私が呼ばれた。野原さんが連れていってくれることになっていた。
私は掌に巻かれた布を見た。
「持てますか」
尋ねられ、桶の取っ手を握った。傷のところへ食い込んだが、空の桶なら持ち上がった。
「はい」
高橋さんは私の手元を見た。
「帰りは重くなるから、途中で代わってもらいなさい」
私は頷いた。
*
暗くなるまで、患者さんの口元を湿らせる仕事をした。
水を求める人へ、小さな布を当てた。布の水気を吸おうとして唇が動く。そのあと、もっとと言われると、桶の方を見せずに、あとで持ってきますと答えた。
村田さんも水を求めた。
「夜に汲んできます」
私が言うと、顔が上がった。
「外へ出るのか」
「三人で。野原さんも来ます」
村田さんは少し黙った。
「器を落としても、取りに戻るなよ」
私は顔を見た。
「水がこぼれてもだ」
「……はい」
返事をしたが、照子が戻ってきたときの言葉を思い出していた。
水、落としました。
脚から血を流していたのに、先にそのことを謝った。
私は村田さんの口元へ、もう一度布を当てた。
*
玲子は桶を持つ私を見て、立ち上がった。
「私も行く」
「人数は決まってるよ」
「荷物、持つから」
私は桶を置いた。
玲子は入口へ目を向けた。肩に掛けようとしている風呂敷は、照子のものだった。
「水を汲みに行くだけだよ」
私は言った。
「そっちの道を通るかもしれない」
「分からない」
「分からないなら、見てきて」
玲子の指が風呂敷へ食い込んだ。
私は入口の方を見た。
汲みに行く場所も、ここからどちらへ進むのかも、まだ教えられていなかった。照子のいる岩まで行けるとは言えなかった。
「野原さんに、聞く」
そう答えると、玲子はゆっくり座った。
私は桶を持ち直した。
入口の近くで待っていた文子が、袖へ触れた。
「戻ってきてね」
「うん」
千代もそばにいた。荷物から細い布を出し、桶の取っ手へ巻いてくれた。
「これなら、手に直接当たらないから」
結び終えてから、二人とも私の顔を見た。
私は桶を少し持ち上げてみせた。
「行ってくる」
*
外へ出ると、雨は細くなっていた。
空は見えたが、星はなかった。野原さんの後ろを信子、私、佳代の順に進んだ。
壕から離れると、横になっている人の声が聞こえなくなった。
代わりに、遠くで砲声が続いていた。
濡れた草を踏む音が、自分たちのものなのか、別の誰かのものなのか分からなかった。道の脇で枝が動くと、私は桶を身体へ寄せた。
野原さんが止まった。
私たちも止まった。
しばらくすると、前の暗がりから人が出てきた。荷物を背負った男の人が二人、低い声で野原さんと言葉を交わし、私たちの横を通った。
歩き出してから、私は尋ねた。
「照子のいたところは、こっちですか」
野原さんは振り向かなかった。
「今夜の道とは違う」
私は桶の取っ手を握った。
「戻る道が、分かったら」
「先生に伝える」
それ以上は聞けなかった。
*
水のある場所には、先に人がいた。
低い窪みへ降り、岩の間へ器を入れていた。灯りは使わず、手で深さを確かめていた。
私たちは後ろで待った。
足元へ水が流れてきた。履物の縁から入り、傷のある膝まで冷たくなった。
順番が来ると、野原さんが水の溜まったところを指した。
「底を掻き回さないように」
信子が器を入れた。
汲み上げた水を桶へ移す音がした。私と佳代は桶が傾かないよう支えた。
少しずつ重くなった。
暗いため、どのくらい濁っているのか分からなかった。私は水面へ顔を近づけ、泥の匂いを感じた。
飲む前に、沸かせるだろうか。
壕に持っていったあと、火を使う場所があるのかも分からなかった。
佳代が桶の縁を押さえたまま言った。
「もう少し入る」
信子がまた器を沈めた。
そのとき、頭の上で音がした。
*
野原さんに肩を押され、私は桶から手を離した。
岩へ身体を寄せた途端、少し離れたところで爆発した。水面が跳ね、岩の上から土が落ちた。
桶が傾くのが見えた。
私は手を伸ばした。
「触るな」
野原さんの声がした。
指が桶の縁に届く前に、次の音が来た。
私は両腕で頭を覆った。伏せる場所が浅く、背中が外へ出ているように感じた。もっと低くなろうとして、頬を濡れた石へ押しつけた。
土と小さな石が水へ落ちた。
水を汲んでいた人たちの気配が消えた。皆が伏せているのだと思ったが、顔を上げて確かめられなかった。
爆発のあと、誰かが呻いた。
私は信子を呼んだ。
「いる」
すぐに返事があった。
佳代も答えた。
私は二人の声が聞こえたところへ顔を向けた。何も見えなかったが、そこにいると分かるだけで、少し息ができた。
*
動いていいと言われたとき、桶は横になっていた。
底に水が残っていた。周りの泥へ、汲んだ水が広がっていた。
佳代が起こそうとした。
野原さんが先に持ち上げた。
「皆、動けるか」
私たちは頷いた。
少し先で、男の人がもう一人の肩を支えていた。支えられている人は片腕を押さえ、指の間から血を流していた。
野原さんが声をかけたが、その人たちは自分たちで戻ると言った。
私たちは桶を確かめた。
信子の桶には水が残っていた。佳代の持っていたものも、半分ほど入っていた。私の足元にあった桶だけが、ほとんど空だった。
「もう一度、汲みます」
私は言った。
野原さんが水の方を見た。
「少しだけだ。長くいるな」
私は器を受け取った。
手が震えて水面を叩き、底の泥が浮いた。場所を変えようとすると、信子が私の手から器を取った。
「私がする。桶、持って」
私は両手で桶を押さえた。
水を入れる音を聞きながら、また頭の上へ音が来るのを待っていた。
*
帰りは二人で一つの桶を持った。
取っ手へ巻いてもらった布が濡れ、木と一緒に掌へ食い込んだ。野原さんも水を持ち、先を確かめるたびに下ろした。
歩くと水が揺れた。
桶の中の重さが左右へ動き、それに引かれて肩が傾いた。信子と歩幅を合わせ、穴の縁を回った。
途中で、一度休んだ。
私は取っ手から手を離し、指を開いた。
照子を運んでいたときと、同じ痛みだった。
桶なら、傾いても謝る声は返ってこなかった。下ろせるところを探すときも、誰の顔を見る必要もなかった。
私は桶の水面を見た。
暗い水の上へ、雨粒が落ちていた。
*
壕へ戻ると、文子が入口にいた。
桶を受け取ろうとして、重さに身体を低くした。千代も来て、二人で奥へ運んだ。
私は後ろから入り、壁へ肩をつけた。
「皆、戻った?」
文子が尋ねた。
「うん。三人とも」
答えると、文子は信子と佳代の顔も確かめた。
玲子が少し離れて立っていた。
私は首を振った。
「違う道だった」
玲子は頷いた。
聞きたかったことを、もう一度尋ねなかった。
*
水を分ける前に、高橋さんが器の中を確かめた。
持ち込んだ小さな灯りへ近づけると、水は薄い茶色だった。底に細かな土が沈み、表面に葉の切れ端が浮いていた。
高橋さんは布を用意し、移すときに通すよう言った。
煮沸できる分と、身体を拭くために使う分を分けた。私たちは器を並べ、こぼさないように受け渡した。
玲子も手を出した。
文子から受け取った器を、寝ている人のそばへ運んだ。足元へ置く前に地面を掌で確かめ、傾かないところへ下ろした。
私はその背中を見ていた。
照子のそばにも、水を置いてきた。
まだ残っているだろうかと思い、すぐに、残っていればいいわけではないと気づいた。飲めなければ、減らない。
「寺田さん」
高橋さんに呼ばれ、私は顔を上げた。
「その器、こちらへ」
両手で持って渡した。
指に巻いた布は、桶を持つ前より汚れていた。泥の下に、自分の血が染みていた。
千代が新しい布を持ってきた。
「替えよう」
私は頷いた。
巻き直してもらう間、奥から水を求める声が聞こえた。さっきまで断るしかなかった声だった。
今は渡せた。
そのことにほっとした自分を、私は照子に知られたくなかった。




