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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第72話 名前を残す


 和子が照子の名前を呼んだ。


 紙へ目を落としたまま呼び、返事がないので、もう一度顔を上げた。


 玲子が膝の上の荷物を抱き直した。


 和子の口が閉じた。


「ごめん」


 小さく言って、鉛筆を持つ手を下ろした。


 私は返事をしたかった。照子はここにはいないと、皆が知っていることを言えば、次の名前へ進めるはずだった。


 けれど、誰も言わなかった。


 入口から入る光は、人が通るたびに細くなった。奥では負傷した兵隊さんが呻き、すぐそばの女の人が子どもの頭を膝へ載せていた。和子は紙を持ち直し、次の名前を呼んだ。


 玲子は最後まで顔を上げなかった。


     *


 私たちが入った場所は、病院として整えられた壕ではなかった。


 荷物を広げる場所もなく、持ってきた器具の箱を岩の間へ押し込んだ。患者さんを寝かせるために人が座り直し、座っていた人の足元へ別の人が入った。


 肩を引かなければ隣の人が動けなかった。


 私は水の器を持ち、腰を曲げて通った。足元に膝があり、その先に荷物があった。跨いだところで上着の背中が岩へ擦れ、前へ進めなくなった。


「学生さん、こっち」


 呼ぶ声の方へ顔を向けた。


 兵隊さんが器を指していた。片腕を布で吊り、唇の端を乾かしていた。


 飲ませてから立とうとすると、膝が隣の人の器へ当たった。水が泥の上へ流れた。


「ああ、何してる」


 その人が声を上げた。


 私は器を拾った。


「すみません」


「せっかく持ってきたのに」


 底に、ほんの少し残っていた。


 私は自分の器から移そうとしたが、隣の人に止められた。


「泥が入る。もういい」


 その人は器を受け取り、空になった底を指で拭った。


 私は立ち上がれず、しばらく膝をついていた。


     *


 高橋さんに呼ばれ、奥へ布を運んだ。


 寝ている人の下から、濡れたものを抜かなければならなかった。前の壕で使っていた桶も、敷いていたものも、ここには揃っていなかった。


 千代と二人で身体を横へ向けた。


 腰の下の布には便が広がり、薄い茶色の水が床まで染みていた。布を折って包もうとすると、中から漏れた。私は端を持ち上げ、汚れが患者さんの背中へ戻らないようにした。


 肌の擦れたところが赤くなっていた。


 水で拭くと、患者さんは息を詰めた。


「すぐ終わります」


 私は言った。


 その言葉が聞こえたのか、患者さんは頷いた。千代が背中を支えたまま、私の手元を見ていた。


 新しい布を差し込み、身体を戻した。


 汚れた布を持って立とうとしたとき、私の上着の内側で何かが動いた。


 虫だった。


 首元から指を入れ、縫い目のところを摘んだ。小さな白っぽいものが爪の間へついた。すぐそばにも、もう一つあった。


 私は袖の裏を見た。


「あとで取ろう」


 千代が言った。


「今、それ持ってるから」


 手には、便のついた布があった。


 私は上着から指を抜き、通路へ出た。


     *


 照子のことを尋ねる相手を、探していた。


 入口から新しく人が入ると、その人の服を見た。濡れた兵隊さんなら、私たちの後ろを歩いてきたのかもしれなかった。


 夕方近く、野原さんが戻った。


 私はすぐにそばへ行った。玲子も立ち、和子の膝へ荷物を預けた。


「あの岩のところ、通った人はいましたか」


 野原さんは私たちを見た。


「道を聞いたが、別のところから来た人だった」


「ほかには」


「まだ、分からない」


 玲子が一歩前へ出た。


「行ってくれる人は」


 野原さんは入口を振り返った。


「今、戻れる道かどうかも確かめられていない」


「照子は、あそこにいるんです」


「分かってる」


 野原さんの声が少し強くなった。


 玲子が口を閉じた。


 野原さんは濡れた顔を袖で拭いた。それからしゃがみ、私たちへ声を低くした。


「目印を、もう一度教えてくれ。伝えるときに、違っていたらいけない」


 私は斜面のことを話した。


 下りる途中で膝が折れたこと、下に岩の窪みがあったこと、担架を斜めにしなければ入らなかったこと。


 玲子は奥にいた女の人のことを言った。


 服の色も伝えようとしたが、暗くてよく見ていなかった。私は石垣が近くにあったかどうかを考え、別の休んだ場所と混ざっていることに気づいた。


「大きな木は」


 野原さんが尋ねた。


 私は首を振った。


「分かりません」


 何度も覚えようとした道だった。


 照子の顔や、手を離したときの指の感触は、思い出したくなくても戻ってきた。助けに行くために必要なものだけが、はっきりしなかった。


     *


 野原さんが行ってから、玲子と壁際へ戻った。


 和子が荷物を渡した。


「何か、分かった?」


 玲子が首を振った。


 和子は紙を膝へ載せた。湿って柔らかくなった端を伸ばし、鉛筆を取った。


「照子のところ、何て書けばいいかな」


 私は紙を見た。


 名前の横に小さな印があった。返事をした人のところへつけたものだった。照子の横は空いていた。


「亡くなったって、書かないで」


 玲子が言った。


 和子はすぐに頷いた。


「書かないよ」


「まだ、分からないから」


「うん」


 和子はしばらく考え、名前の横へ短い言葉を書いた。


 移動途中。


 その下へ、場所不明、と書きかけて手を止めた。


「岩の下」


 私は言った。


「斜面を下りたところの、岩の下」


 和子が書き直した。


 それでは誰も見つけられないかもしれなかった。それでも、ただいないことにしたくなかった。


 玲子が紙へ指を置いた。


「私たちが、置いてきた」


 和子の鉛筆が止まった。


「玲子」


 私は呼んだ。


 玲子は私を見た。


「そうでしょう」


 私は頷いた。


 和子は紙を持ったまま、何も書かなかった。


     *


 夜になり、入口で物音がした。


 棒が石へ当たる音だった。


 私は顔を上げた。兵隊さんが先に入り、その後ろから別の人を引くようにして支えた。


 村田さんだった。


 私は立ち上がろうとして、低い天井へ頭をぶつけた。痛みを気にする前に、身体を曲げて入口へ向かった。


「村田さん」


 呼ぶと、顔が上がった。


 唇が白く、目の下に深い影があった。棒を掴む手は泥で汚れ、傷めた方の脚を浮かせたまま、もう立っていられなかった。


「座らせてくれ」


 一緒に来た兵隊さんが言った。


 私は荷物を動かした。近くの人にも少し寄ってもらい、村田さんの背中を支えた。


 座ると、棒が手から落ちた。


 私は水を持ってきたが、すぐには飲めなかった。息が整うまで待ち、その口元へ器を寄せた。


「学生さんも、来てたか」


 村田さんが言った。


「はい」


 私は頷いた。


 会えて嬉しかった。


 そのあとすぐに、照子のことを聞かなければと思った。


     *


 一緒に来た兵隊さんは、村田さんを途中で何度も背負ったという。


 片足で進めなくなると背負い、休めばまた棒をついて歩いた。ほかの人に道を教えてもらい、ようやくここへ来たらしかった。


 私は岩の窪みのことを尋ねた。


 兵隊さんは首を振った。


「そこは通っていないと思う」


 村田さんが私の顔を見た。


「運んでいた学生さんは」


 私は器を下ろした。


 玲子が少し離れたところから、こちらを見ていた。


「途中で、運べなくなりました」


 言うと、村田さんの手が止まった。


「四人で、何度も持って。でも、足からまた血が出て、道も……」


 私は器の縁を握った。


 話せば理由はいくつも出てきた。どれも、本当にあったことだった。


 村田さんは、私が話し終えるまで待った。


「そうか」


 それだけ言った。


 私は顔を上げた。


 仕方なかったとも、よく頑張ったとも言われなかった。そのことに少しだけ息がつけた。


 村田さんは、そばにいる兵隊さんを見た。


「わしも、こいつがいなければ、途中にいた」


 兵隊さんは濡れた上着の袖を絞った。


 泥水が床へ落ちた。


 私は二人の間に置かれた棒を拾い、村田さんの手の届くところへ立て掛けた。


     *


 戻ると、玲子が照子の荷物を壁際へ置いていた。


 ずっと抱いていたためか、腕を伸ばすと痛そうに顔をしかめた。荷物の下へ乾きの少ない布を敷き、濡れた底が泥へつかないようにしていた。


 私は隣へ座った。


「通ってなかったって」


「聞こえた」


 玲子が答えた。


 しばらくして、清美が信子に支えられてこちらへ来た。


 荷物を見て、その横へゆっくり座った。誰も頼んでいなかったが、清美は風呂敷の緩んだ端を結び直した。


 春子の荷物を抱いていた手だった。


 私はそれを見て、口を閉じた。


 清美は結び目を押さえ、玲子へ向けた。


「ここに置こう」


 玲子が頷いた。


 私たちは少しずつ膝を寄せた。通路へはみ出していた荷物を内側へ入れ、足元に場所を作った。


 照子が戻ってきたら、すぐ渡せるところだった。


 私は和子の紙を思い出した。


 移動途中。


 岩の下。


 名前の横には、まだ返事の印がなかった。

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