第71話 残った荷物
担架を持たなくなってから、列へ追いつくまでの時間が短くなった。
私はそのことを考えないようにした。
足は痛かった。膝の破れたところが歩くたびに擦れ、濡れたもんぺの布が傷へ貼りついた。それでも、自分の足だけなら、前の人が進んだあとを追うことができた。
立ち止まると、照子のいる方を見たくなった。
振り返っても、岩はもう見えなかった。
道が曲がるたびに、戻るならここを覚えておかなければと思った。折れた木、崩れた石垣、雨水の溜まった穴。けれど、次の曲がり角にも同じようなものがあった。
文子が私の袖を引いた。
「そこ、落ちる」
足のすぐ横に穴があった。
私は足を戻した。穴の底は暗く、どのくらい深いのか分からなかった。
「ありがとう」
言うと、文子は頷いた。
歩き出してから、さっきまで照子へ言っていた言葉だと思った。
*
空が薄くなるころ、前の人たちが斜面へ入り始めた。
道から外れ、草と石の間を下りた。濡れた葉が顔へ当たり、私の前を歩く美咲が枝を押さえてくれた。
岩の下に、入口があった。
人が一人ずつ身体を曲げて入っていた。中から荷物を引く手が出て、入った人が次の人へ声をかけた。
私たちはそこで待った。
雨に打たれている間にも、外の明るさが増していった。遠くの畑が見え始め、伏せていた人たちが身体を起こした。どこから見られているのか分からず、私は岩へ近づいた。
入口の奥で、言い争う声がした。
「これ以上、入れない」
「負傷者がいるんです」
島袋先生の声が聞こえた。
先に入っていた人たちにも、寝る場所がなかったのだと思う。しばらくすると、奥から荷物が運び出された。誰かが膝を抱え直し、入口の近くに少しだけ隙間ができた。
清美が先に入った。
信子が腕を支え、高橋さんが後ろから足元を見た。清美は入口の石へ手をつき、顔を歪めながら身体を滑らせた。
玲子は私の後ろにいた。
名前を呼んでも顔を上げず、入口だけを見ていた。
*
中は、前の壕より低かった。
立てるところは限られ、奥へ進むには腰を曲げなければならなかった。私は肩を岩へぶつけ、片手を床へついた。
指の間に、粘ついた泥が入った。
汗と濡れた服の匂いがこもっていた。奥から便の匂いがし、入口の方へ流れてきた。水の流れる音も聞こえたが、どこを通っているのか分からなかった。
「そこで座って。通路は空けておいて」
高橋さんが言った。
私たちは壁際へ寄った。
美咲が荷物を下ろし、私の風呂敷を渡してくれた。肩へ掛けていた紐を外すと、上着の上からでも食い込んだ跡が分かった。
「重かったよね」
「今は、いいから」
美咲はそう言い、私の膝を見た。
「あとで、そこ洗ってもらおう」
私は破れたところを手で隠しかけた。
照子にも同じことを言われた。
手を戻し、頷いた。
*
少し遅れて、和子が入ってきた。
荷物を置く場所を探し、私たちの横へしゃがんだ。自分の風呂敷を下ろしたあと、肩に掛けていたもう一つを外した。
照子の荷物だった。
私はその結び目を見た。
壕で玲子が小さくしたものだった。和子が運ぶために紐を足し、端を内側へ折り込んでいた。
「これ」
和子が言った。
その先が続かなかった。
玲子が手を伸ばした。
和子から受け取ると、膝の上へ載せた。濡れた風呂敷の角から水が垂れ、もんぺへ染みた。
「照子のところに、置いてくればよかった」
玲子が言った。
「着替え、こっちに入ってる」
私は荷物を見た。
水と小さな包みは置いてきた。けれど、雨に濡れた服を替えるものは、私たちと一緒にここへ来ていた。
「戻す」
玲子が結び目を握った。
島袋先生がそばへ来た。
「渡嘉敷さん」
「私、持っていきます」
「今は外へ出られません」
「荷物だけだから」
先生がしゃがんだ。
「途中で、どの道を通ったか覚えていますか」
玲子は答えなかった。
私は口を開きかけた。
折れた木も、石垣も、覚えているつもりだった。けれど、それを順番に言おうとすると、どこで斜面を下りたのか分からなくなった。
照子のいた岩だけは、はっきり浮かんだ。
そこへ行く道が、浮かばなかった。
*
先生は、後ろから来る人へ照子の場所を伝えたと話した。
野原さんも、道で会った兵隊さんへ頼んだという。
「誰か、行ってくれたんですか」
私は尋ねた。
「まだ、確認できていません」
先生は答えた。
助かるとも、もう無理だとも言わなかった。
玲子が荷物を抱き直した。
私は先生へ、照子は血が出ていたこと、眠いと言っていたことをもう一度伝えた。知っていることを繰り返せば、何かが急ぐ理由になる気がした。
先生は一つずつ頷いた。
そのあと、別の生徒に呼ばれて立ち上がった。
私はまだ話し終えていなかった。
照子が、私の膝を心配したことも言いたかった。荷物を小さくして、運ぶ私たちのことを考えていたことも。
けれど、それを伝えても、運ぶ人が増えるわけではなかった。
*
高橋さんに膝を見てもらった。
もんぺの布を剥がすと、乾きかけた血がまた滲んだ。泥のついたところを拭かれ、私は足を引きそうになった。
「動かさないで」
言われて、踏み止まった。
掌も見せた。
擦れたところへ布が当たると、指が曲がった。高橋さんは私の手を支え、汚れを取ってから小さな布を巻いた。
「今は、少し休みなさい」
私は照子の荷物を見た。
「休んだら、また持てます」
高橋さんの手が止まった。
「腕だけの問題ではありません」
静かな声だった。
「分かっています。でも」
私は言葉を探した。
ここまで歩けた。まだ立てる。ご飯を食べて、少し眠れば、もう一度担架を持てるかもしれない。
そう言おうとしたが、道の穴と照明弾の白い光が浮かんだ。
高橋さんは布の端を留め、私の手を膝へ戻した。
次の患者さんに呼ばれ、そちらへ向かった。
*
ご飯が回ってきたとき、私は空腹だった。
気づきたくなかった。
胃が痛み、唾が出た。器を受け取ると、少しの飯に細かく切った芋が混じっていた。
私は膝へ置いた。
文子が隣で食べ始めた。千代も口へ運び、よく噛んでいた。二人の手を見ていると、自分の指も器へ伸びた。
一口食べた。
飲み込む前に、照子の顔が浮かんだ。
岩の下で、私たちが戻るのを待っているかもしれなかった。水がなくなったら、手を伸ばしても、もう器は空だった。
私は噛むのをやめた。
「理恵」
文子が私を見た。
「食べよう」
私は首を振りかけた。
文子も目を伏せた。
「私も、食べたくない。でも、お腹が空いてる」
器を持つ手が震えていた。
私は口の中のものを飲み込んだ。喉を通ると、胃の痛みが少し変わった。
そのことが苦しかった。
*
眠ったつもりはなかった。
壁へ背中をつけ、目を閉じただけだった。照子の場所をもう一度思い出そうとしていた。
誰かの足が膝へ触れ、私は顔を上げた。
器が横に置かれていた。食べ終えたあと、自分でそこへ置いたことを、少し遅れて思い出した。
玲子はまだ荷物を抱いていた。
「後ろの人、来た?」
私は尋ねた。
玲子が首を振った。
私は入口を見た。
人が入るたびに肩を起こした。濡れた軍服が見えると、その人が照子の場所を通ったかもしれないと思った。
けれど、奥まで入ってくる人は少なかった。入口で話をし、また外へ戻る足音が聞こえた。
私は立ち上がった。
そのとき、玲子が膝の上の荷物をほどいた。
着替えの間から、短い鉛筆が転がった。
泥へ落ちる前に、私は拾った。
先が折れていた。
照子はこの鉛筆を、もう一度使うつもりで包んだのだと思った。布を畳む係になっても、歩けなくても、荷物から外さなかった。
玲子が手を差し出した。
私はその掌へ鉛筆を載せた。
泣き始めた玲子の肩へ、文子が腕を回した。千代は荷物から着替えが落ちないよう、風呂敷の端を寄せた。
私も手を伸ばした。
四人で触れているのは、照子の荷物だけだった。




