第70話 待っていて
斜面を下りる途中で、私の膝が折れた。
足を置いた土が崩れたのか、自分の足が踏ん張れなかったのか、分からなかった。持ち手にぶら下がるようになり、担架の前が下がった。
敏子が声を上げた。
私は木を離さず、膝を泥へついた。照子の身体が頭の方へずれ、後ろで玲子が必死に支えた。
「そのまま。動くな」
野原さんが下から来た。
持ち手を受け、私の代わりに身体を入れた。私はようやく手を離した。起き上がろうとしたが、膝が震え、片足を出しても立てなかった。
千代が後ろを持ったまま、私を見ていた。
「理恵、歩ける?」
「歩ける」
すぐに答えた。
もう一度足をついた。壁代わりの岩へ手をかけると、爪の下へ泥が入った。私はそれを掴み、ゆっくり立ち上がった。
照子が私を見ていた。
何か言おうとしたが、唇が動いただけだった。
*
斜面の下に、岩の窪みがあった。
深い壕ではなかった。大きく張り出した岩の下へ、数人が身を寄せられるほどの場所だった。奥には先に逃げてきた人がいて、荷物を抱えた女の人が膝を引いた。
担架を入れると、持ち手が岩へ当たった。
向きを変え、少し斜めにして下ろした。照子の顔へ雨が当たらなくなった。
私はそばへしゃがんだ。
「着いたよ」
言ってから、違うと思った。
ここは行き先ではなかった。ただ、下ろせる場所へ来ただけだった。
照子は目を開けた。
「どこ?」
「少し休めるところ」
玲子が足元の布を確かめた。血の染みは広がっていた。高橋さんが包帯を押さえ直す間、照子は私の腕へ指を置いていた。
握る力が、前より弱かった。
私はその手を両手で包んだ。雨で冷えた自分の指では、照子の手がどのくらい冷たいのか分からなかった。
*
道の方から、列を進ませる声がした。
野原さんが外へ出た。高橋さんも呼ばれ、岩の陰で誰かと話した。
私たちは照子のそばに残った。
文子の額へ当てた布が赤くなっていた。千代は両腕を腿の上へ載せ、俯いていた。玲子だけが照子の足元を見続けていた。
私はもう一度、掌を開いた。
皮が擦りむけたところへ泥が入り、赤い筋になっていた。握れば持てる。立てたのだから歩ける。そう考えて、担架の持ち手へ手を伸ばした。
「もう少し休んでから、行こう」
照子へ言った。
照子は私の手元を見た。
返事を待っていると、島袋先生が入ってきた。
先生も濡れていた。眼鏡を外して拭いたが、拭く布まで濡れているため、もう一度掛けたときにも水の跡が残っていた。
「寺田さんたち、外へ」
私は立たなかった。
「ここで聞きます」
先生は照子を見た。
それから私たちへ顔を向けた。
「これ以上、今の人数では運び続けられません」
*
私は持ち手を掴んだ。
「持てます」
先生は首を振った。
「さっき、転んだのは見ていました」
「次は、気をつけます」
自分でも、気をつければどうにかなるとは思えなかった。それでも、ほかの言葉がなかった。
玲子が顔を上げた。
「誰か、交代してもらえませんか」
「お願いしています。でも、歩けなくなった患者さんがほかにもいます。荷物を捨てて支えている人もいるんです」
「じゃあ、荷物を置いたら」
千代が言った。
「私たちの荷物、全部置いていけば」
先生は答えなかった。
岩の外で、誰かが早くしろと叫んだ。
私は立ち上がった。
「野原さんは。さっき、持ってくれたから」
外へ出ようとすると、先生に腕を押さえられた。
「野原さんは道を確かめる人です。あの人までここに残ったら、後ろの人が進めません」
私は先生の手を見た。
指が私の袖を掴んでいた。強く引かれてはいなかった。振りほどこうと思えばできた。
けれど、外へ出ても、誰を連れて戻ればいいのか分からなかった。
*
「私、背負う」
玲子が言った。
照子のそばへ膝をつき、背中を向けた。
「担架より、楽かもしれないから」
高橋さんが戻り、玲子を止めた。
「その傷では、足をぶら下げて運べません」
「支えます。誰か、後ろで」
玲子は動かなかった。
照子がその背中へ手を伸ばした。
「玲子」
「少し起こすね」
「玲子」
もう一度呼ばれ、玲子が振り向いた。
照子は首を振った。
玲子の顔が歪んだ。
「何で。ここまで来たのに」
私は担架の前を持った。
「一回、上げよう」
文子を見た。
「持てるか、もう一回だけ」
文子が立ち、敏子も手をかけた。千代が後ろへ回った。
先生は止めなかった。
私たちは声を合わせた。
担架が少し浮いた。
腕に重さが戻った途端、膝が震えた。持ち手を胸へ引きつけようとしたが、肩が上がらなかった。前が傾き、照子の顔が動いた。
「下ろして」
高橋さんが言った。
「ゆっくり。今すぐ」
私は歯を食いしばり、膝を曲げた。
担架が地面へついた。
手を離すと、指が勝手に開いた。もう一度握ろうとしても、細かく震えるばかりだった。
照子に、その手を見られていた。
*
外から兵隊さんが入ってきた。
「出るぞ。ここに固まっていたら、皆やられる」
先生がその人へ何か頼んだ。
照子を指し、担架を指し、もう一度話した。兵隊さんは外を見たあと、首を振った。
「後続に伝える。だが、今ここで人を止めるわけにはいかん」
「いつ来ますか」
私は尋ねた。
「分からん」
「運ぶ人が、来るんですか」
兵隊さんは答えず、外へ出た。
私は先生を見た。
先生は、迎えが来るとは言わなかった。
*
高橋さんが照子のそばへ水を置いた。
器が倒れない場所を探し、岩の平らなところへ寄せた。玲子が持っていた小さな包みも、照子の手の届くところへ置いた。
私はその一つ一つを見ていた。
壕で患者さんの枕元へ水を置いたときも、同じように石を除けた。
今になって、あの人が何を思っていたのか、少し分かった気がした。
照子が私を呼んだ。
「理恵、転んだところ、痛い?」
私は首を振った。
「平気」
照子は私の膝を見た。泥で隠れていたが、もんぺの膝が裂けていた。
「洗ってね」
私は返事ができなかった。
玲子が照子の手を握った。
「ここにいる」
高橋さんが玲子の肩へ触れた。
玲子は手を離さなかった。
「私だけなら、いてもいいでしょう」
先生がしゃがんだ。
「あなたまで、動けなくなってしまう」
「まだ動けます」
玲子は言った。
「だから、ここにいられる」
先生は目を閉じた。それから玲子の名前を呼び、もう一度肩へ手を置いた。
外で爆発がした。
窪みの奥にいた女の人が荷物へ顔を伏せた。天井の低い岩から、細かな砂が落ちた。
照子の手に、玲子の涙が落ちた。
*
文子が私の腕を取った。
立たせようとしたのではなかった。自分もしゃがんだまま、私の腕へしがみついていた。
私は照子を見た。
授業で隣の列に座っていた顔だった。水を落としたことを謝り、布くらいなら畳めると言い、荷物を小さくしていた照子だった。
こんな場所に寝ていることが、まだ信じられなかった。
「待っていて」
私は言った。
言った瞬間、喉が詰まった。
「私、誰かに頼むから」
どこで、誰に頼むのかは決まっていなかった。
それでも、照子は私を見て頷いた。
私はその頷きに耐えられず、もう一度手を取った。
先生に呼ばれた。
千代が私の後ろへ来た。玲子はまだ離れようとせず、高橋さんと先生がそばについていた。
私は照子の指を、一本ずつ自分の手から外した。
*
岩の外へ出ると、列はずっと先へ進んでいた。
野原さんが待っていた。私たちを見ると前を指し、足元に気をつけるよう言った。
私は二歩進み、振り返った。
照子の顔は岩の陰に隠れていた。担架の端だけが見えた。玲子が外へ出てきて、また戻ろうとするのを、先生が抱くようにして止めた。
私は戻れた。
荷物も持っていなかった。自分の足だけなら、あの岩まで行けた。
でも、戻ってから照子を動かすことができなかった。
文子の手が袖を掴んだ。
「理恵」
私は前を向いた。
腕には担架の重さが残っていた。歩くたび、空いた手が身体の横で揺れた。
それを止めたくて、私は指を握った。
照子に見せた手と同じように、震えていた。




