↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

70/124

第70話 待っていて



 斜面を下りる途中で、私の膝が折れた。


 足を置いた土が崩れたのか、自分の足が踏ん張れなかったのか、分からなかった。持ち手にぶら下がるようになり、担架の前が下がった。


 敏子が声を上げた。


 私は木を離さず、膝を泥へついた。照子の身体が頭の方へずれ、後ろで玲子が必死に支えた。


「そのまま。動くな」


 野原さんが下から来た。


 持ち手を受け、私の代わりに身体を入れた。私はようやく手を離した。起き上がろうとしたが、膝が震え、片足を出しても立てなかった。


 千代が後ろを持ったまま、私を見ていた。


「理恵、歩ける?」


「歩ける」


 すぐに答えた。


 もう一度足をついた。壁代わりの岩へ手をかけると、爪の下へ泥が入った。私はそれを掴み、ゆっくり立ち上がった。


 照子が私を見ていた。


 何か言おうとしたが、唇が動いただけだった。


     *


 斜面の下に、岩の窪みがあった。


 深い壕ではなかった。大きく張り出した岩の下へ、数人が身を寄せられるほどの場所だった。奥には先に逃げてきた人がいて、荷物を抱えた女の人が膝を引いた。


 担架を入れると、持ち手が岩へ当たった。


 向きを変え、少し斜めにして下ろした。照子の顔へ雨が当たらなくなった。


 私はそばへしゃがんだ。


「着いたよ」


 言ってから、違うと思った。


 ここは行き先ではなかった。ただ、下ろせる場所へ来ただけだった。


 照子は目を開けた。


「どこ?」


「少し休めるところ」


 玲子が足元の布を確かめた。血の染みは広がっていた。高橋さんが包帯を押さえ直す間、照子は私の腕へ指を置いていた。


 握る力が、前より弱かった。


 私はその手を両手で包んだ。雨で冷えた自分の指では、照子の手がどのくらい冷たいのか分からなかった。


     *


 道の方から、列を進ませる声がした。


 野原さんが外へ出た。高橋さんも呼ばれ、岩の陰で誰かと話した。


 私たちは照子のそばに残った。


 文子の額へ当てた布が赤くなっていた。千代は両腕を腿の上へ載せ、俯いていた。玲子だけが照子の足元を見続けていた。


 私はもう一度、掌を開いた。


 皮が擦りむけたところへ泥が入り、赤い筋になっていた。握れば持てる。立てたのだから歩ける。そう考えて、担架の持ち手へ手を伸ばした。


「もう少し休んでから、行こう」


 照子へ言った。


 照子は私の手元を見た。


 返事を待っていると、島袋先生が入ってきた。


 先生も濡れていた。眼鏡を外して拭いたが、拭く布まで濡れているため、もう一度掛けたときにも水の跡が残っていた。


「寺田さんたち、外へ」


 私は立たなかった。


「ここで聞きます」


 先生は照子を見た。


 それから私たちへ顔を向けた。


「これ以上、今の人数では運び続けられません」


     *


 私は持ち手を掴んだ。


「持てます」


 先生は首を振った。


「さっき、転んだのは見ていました」


「次は、気をつけます」


 自分でも、気をつければどうにかなるとは思えなかった。それでも、ほかの言葉がなかった。


 玲子が顔を上げた。


「誰か、交代してもらえませんか」


「お願いしています。でも、歩けなくなった患者さんがほかにもいます。荷物を捨てて支えている人もいるんです」


「じゃあ、荷物を置いたら」


 千代が言った。


「私たちの荷物、全部置いていけば」


 先生は答えなかった。


 岩の外で、誰かが早くしろと叫んだ。


 私は立ち上がった。


「野原さんは。さっき、持ってくれたから」


 外へ出ようとすると、先生に腕を押さえられた。


「野原さんは道を確かめる人です。あの人までここに残ったら、後ろの人が進めません」


 私は先生の手を見た。


 指が私の袖を掴んでいた。強く引かれてはいなかった。振りほどこうと思えばできた。


 けれど、外へ出ても、誰を連れて戻ればいいのか分からなかった。


     *


「私、背負う」


 玲子が言った。


 照子のそばへ膝をつき、背中を向けた。


「担架より、楽かもしれないから」


 高橋さんが戻り、玲子を止めた。


「その傷では、足をぶら下げて運べません」


「支えます。誰か、後ろで」


 玲子は動かなかった。


 照子がその背中へ手を伸ばした。


「玲子」


「少し起こすね」


「玲子」


 もう一度呼ばれ、玲子が振り向いた。


 照子は首を振った。


 玲子の顔が歪んだ。


「何で。ここまで来たのに」


 私は担架の前を持った。


「一回、上げよう」


 文子を見た。


「持てるか、もう一回だけ」


 文子が立ち、敏子も手をかけた。千代が後ろへ回った。


 先生は止めなかった。


 私たちは声を合わせた。


 担架が少し浮いた。


 腕に重さが戻った途端、膝が震えた。持ち手を胸へ引きつけようとしたが、肩が上がらなかった。前が傾き、照子の顔が動いた。


「下ろして」


 高橋さんが言った。


「ゆっくり。今すぐ」


 私は歯を食いしばり、膝を曲げた。


 担架が地面へついた。


 手を離すと、指が勝手に開いた。もう一度握ろうとしても、細かく震えるばかりだった。


 照子に、その手を見られていた。


     *


 外から兵隊さんが入ってきた。


「出るぞ。ここに固まっていたら、皆やられる」


 先生がその人へ何か頼んだ。


 照子を指し、担架を指し、もう一度話した。兵隊さんは外を見たあと、首を振った。


「後続に伝える。だが、今ここで人を止めるわけにはいかん」


「いつ来ますか」


 私は尋ねた。


「分からん」


「運ぶ人が、来るんですか」


 兵隊さんは答えず、外へ出た。


 私は先生を見た。


 先生は、迎えが来るとは言わなかった。


     *


 高橋さんが照子のそばへ水を置いた。


 器が倒れない場所を探し、岩の平らなところへ寄せた。玲子が持っていた小さな包みも、照子の手の届くところへ置いた。


 私はその一つ一つを見ていた。


 壕で患者さんの枕元へ水を置いたときも、同じように石を除けた。


 今になって、あの人が何を思っていたのか、少し分かった気がした。


 照子が私を呼んだ。


「理恵、転んだところ、痛い?」


 私は首を振った。


「平気」


 照子は私の膝を見た。泥で隠れていたが、もんぺの膝が裂けていた。


「洗ってね」


 私は返事ができなかった。


 玲子が照子の手を握った。


「ここにいる」


 高橋さんが玲子の肩へ触れた。


 玲子は手を離さなかった。


「私だけなら、いてもいいでしょう」


 先生がしゃがんだ。


「あなたまで、動けなくなってしまう」


「まだ動けます」


 玲子は言った。


「だから、ここにいられる」


 先生は目を閉じた。それから玲子の名前を呼び、もう一度肩へ手を置いた。


 外で爆発がした。


 窪みの奥にいた女の人が荷物へ顔を伏せた。天井の低い岩から、細かな砂が落ちた。


 照子の手に、玲子の涙が落ちた。


     *


 文子が私の腕を取った。


 立たせようとしたのではなかった。自分もしゃがんだまま、私の腕へしがみついていた。


 私は照子を見た。


 授業で隣の列に座っていた顔だった。水を落としたことを謝り、布くらいなら畳めると言い、荷物を小さくしていた照子だった。


 こんな場所に寝ていることが、まだ信じられなかった。


「待っていて」


 私は言った。


 言った瞬間、喉が詰まった。


「私、誰かに頼むから」


 どこで、誰に頼むのかは決まっていなかった。


 それでも、照子は私を見て頷いた。


 私はその頷きに耐えられず、もう一度手を取った。


 先生に呼ばれた。


 千代が私の後ろへ来た。玲子はまだ離れようとせず、高橋さんと先生がそばについていた。


 私は照子の指を、一本ずつ自分の手から外した。


     *


 岩の外へ出ると、列はずっと先へ進んでいた。


 野原さんが待っていた。私たちを見ると前を指し、足元に気をつけるよう言った。


 私は二歩進み、振り返った。


 照子の顔は岩の陰に隠れていた。担架の端だけが見えた。玲子が外へ出てきて、また戻ろうとするのを、先生が抱くようにして止めた。


 私は戻れた。


 荷物も持っていなかった。自分の足だけなら、あの岩まで行けた。


 でも、戻ってから照子を動かすことができなかった。


 文子の手が袖を掴んだ。


「理恵」


 私は前を向いた。


 腕には担架の重さが残っていた。歩くたび、空いた手が身体の横で揺れた。


 それを止めたくて、私は指を握った。


 照子に見せた手と同じように、震えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。