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あなたのいる明日へただいま  作者: ほむら


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第69話 手を離すとき



 文子の息が、隣で聞こえていた。


 歩き始めたころは、足元のことを声にして伝え合っていた。石がある、少し下がる、左へ寄る。今は、短く名前を呼ぶだけで精いっぱいだった。


 私の腕も、肘から先が痺れていた。


 持ち手を握った指に力を入れているつもりなのに、ときどき木が掌の中で動いた。滑ったのか、自分の指が緩んだのか分からず、そのたびに握り直した。


「下ろそう」


 千代が後ろから言った。


 前の列はまだ進んでいた。


 野原さんが振り返り、道の脇を見た。崩れた石垣のそばへ寄り、足で地面を確かめた。


「ここなら置ける」


 四人で担架を下ろした。


 照子が小さく息を吐いた。足を動かさないようにしていたのか、肩まで固くなっていた。


 私はその顔を覗いた。


「水、飲む?」


 照子は首を振った。


「皆、飲んで」


 文子が器を出したが、誰もすぐには手を伸ばさなかった。私は膝へ掌を押しつけ、指を一本ずつ伸ばした。


 痺れの下から、擦れたところの痛みが戻ってきた。


     *


 敏子と郁子が、前の方から戻ってきた。


 和子に頼まれたのだという。二人の荷物はほかの生徒が持ち、しばらく担架を代わってくれることになっていた。


「私、前を持つ」


 敏子が私のそばへ来た。


 私は立ち上がり、持ち手を渡そうとして、もう一度照子を見た。


「少し代わってもらうね」


「うん」


 照子が頷いた。


 玲子は残った。足の揺れを見たいと言った。文子も続けて持ち、千代と私は後ろへ回った。


 四人が持ち上げると、担架の布が沈んだ。


 私は空いた手を身体の横へ下ろした。


 肩が軽くなり、思ったより速く足が出た。担架を持っている間は、泥を避けるにも誰かへ伝えなければならなかった。今は自分だけで足を置く場所を変えられた。


 その楽さに気づいて、私は歩幅を小さくした。


 前で照子の顔が揺れていた。


     *


 道には、人が倒れていた。


 最初は、捨てられた荷物だと思った。暗いところに布の塊があり、その脇へ細い棒が出ているように見えた。


 近づくと、棒ではなく腕だった。


 掌が上を向き、指の間へ雨水が溜まっていた。身体は道の端へ寄せられていたが、片足だけが踏み跡に残っていた。


 野原さんが前の四人を止め、別の方を通らせた。


 私は倒れている人の顔を見ないようにした。けれど、避ける場所へ足を出すと、頭のそばに崩れた土があり、髪へ泥が絡んでいるのが見えた。


 その少し先にも、人がいた。


 石垣へ背中を預け、首を下げていた。身体を起こして休んでいるように見えたが、列が通っても顔を上げなかった。


「生きてる?」


 私は千代へ尋ねた。


 千代はその人を見た。


「分からない」


 声をかければ分かるかもしれなかった。


 足を止めたが、担架は先へ進んだ。照子を見失いたくなくて、私は追いついた。


 濡れた土の匂いの間に、甘く腐ったような匂いが混じった。


 壕で死んだ人を運んだときとは違った。どこからするのか分からず、道の先にも、伏せるために寄った草の間にも残っていた。


 私は袖を鼻へ当てかけ、下ろした。


 その袖も、泥と汗で濡れていた。


     *


 空が明るくなった。


 朝になったのではなかった。


 頭の上へ白い光が上がり、周りの人が一斉に身を低くした。畑の向こうまで見えた。砲弾の穴も、倒れた木も、人の列も、隠れていたものが急に現れた。


「下ろせ。伏せろ」


 声が飛んだ。


 担架を持つ四人が膝を曲げた。私は照子の頭のそばへ走り、下ろす場所にあった石を払いのけた。


 布が地面へつく前に、近くで爆発した。


 私は照子の顔へ倒れ込むように伏せた。耳が詰まり、声が遠くなった。背中へ細かなものが当たり、口の中へ土が入った。


 照子の手が私の上着を掴んだ。


 私は頭を覆う腕の間から、その顔を見た。


「ここにいる」


 自分の声がどのくらい出たのか分からなかった。


 次の爆発で、地面が胸を押した。


 照子が口を開いた。私は肩へ触れたが、何と言ったのか聞き取れなかった。足元で玲子が布を押さえていた。文子も伏せ、敏子は顔を両腕の間へ埋めていた。


 白い光がまだ頭の上にあった。


 暗くなってほしかった。照子の顔が見えなくなっても、道が分からなくなっても、それでよかった。


     *


 光が弱くなったころ、前の人たちが動き始めた。


「立てるか」


 野原さんが一人ずつ確かめた。


 私は身体を起こした。耳の奥で高い音が続いていたが、手も足も動いた。


 文子が額を拭った。


 泥に赤いものが混じった。


「文子」


「石が当たっただけ」


 私はその手を取った。生え際に小さな傷があり、血が眉の方へ流れていた。文子は袖で押さえようとしたが、私は荷物から出してもらった布を当てた。


「少し押さえてて」


 文子が頷いた。


 そのとき、玲子が照子の名前を呼んだ。


 私は振り向いた。


 担架の足元が濡れていた。雨水より暗い染みが布へ広がっていた。


 玲子が足へ掛けた布をめくると、照子は顔を歪めた。巻いた包帯の外へ血が滲んでいた。下ろすときに揺れたのか、伏せた拍子に動いたのか、分からなかった。


「高橋さん、呼んできて」


 野原さんが言った。


 郁子が前へ走った。


 私は照子のそばへ膝をついた。


「どこが痛い?」


「足」


 照子が答えた。


 呼吸が速くなっていた。


「さっきより、痛い」


     *


 高橋さんが戻るまで、玲子が布を押さえた。


 照子は私の手を握っていた。強く握ったあと、急に緩んだ。私は顔へ近づき、名前を呼んだ。


 目がこちらへ動いた。


「眠い」


「高橋さんが来るから、待って」


 照子は頷いたが、すぐに瞼が下がった。


 眠っていなかった。熱もあり、ずっと揺られていた。疲れて当然だった。


 そう考えながら、私は何度も呼びかけた。


 高橋さんが来ると、野原さんが周りへ低くなるよう伝えた。灯りを遮りながら、傷のところだけを確かめた。


 照子の脚へ新しい布が当てられた。


 高橋さんは玲子の手を動かし、押さえる場所を伝えた。軍医は別の列についていて、すぐには来られないという。


「ここに、長くは置けない」


 野原さんが言った。


 高橋さんが顔を上げた。


「移すなら、足を動かさないように。担架を傾けないで」


 私は照子の頭の下の布を直した。


 地面に下ろしていても、頭の上には何もなかった。次に砲弾が来れば、また伏せるしかなかった。


     *


 再び私と千代が持つことになった。


 文子は額を押さえながら、照子の横についた。敏子が照子の頭側を持ち、玲子が足側へ回った。


 持ち上げる前に、照子の手を離さなければならなかった。


「理恵」


 呼ばれた。


「そばにいる?」


「いるよ。前を持つから」


 照子は私の指を掴んだままだった。


 私は手をほどこうとして、止まった。


 春子を担架へ移したときにも、手を離した。運ぶためだった。そばにいると言って、持ち手へ回った。


 今度も、同じことを言っていた。


「照子、上げる間だけ」


 私は顔を近づけた。


「声、聞こえるところにいるから」


 照子の指がゆっくり緩んだ。


 私はその手を胸元へ戻し、担架の前へ回った。


 持ち手を握ると、掌の傷が開いたように痛んだ。私は木へ指を巻きつけ、敏子と目を合わせた。


 四人で上げた。


 照子が声を漏らした。


 後ろで玲子が足を支える位置を直し、高橋さんが横から確かめた。


「ゆっくり。先の人に合わせて急がなくていい」


 私は頷いた。


 前の列との間が開き始めていた。


     *


 何度か歩き、止まり、また歩いた。


 後ろから来た人が私たちを追い越していった。肩が担架へ触れるたび、私は動かさないでくださいと声をかけた。


 返事をする人もいた。振り向かずに進む人もいた。


 野原さんが道の先を見て戻ってきた。


「この先、少し下る」


 私は足元を見た。


 暗い地面が途中で消えていた。斜面の下に人影があり、そこでまた列が止まっていた。


 照子を載せたまま、滑らずに下りられるだろうか。


 腕の重さを確かめた。もう、持ち直すだけで肩が震えた。


「一度、置こう」


 私が言うと、千代がすぐに返事をした。


 けれど、置ける場所を探している間に、照子が私を呼んだ。


「理恵」


「うん」


「もう、いいよ」


 私は振り向けなかった。


 前を持つ敏子が足を止めた。


「何が」


 私が尋ねると、照子は少し間を置いて答えた。


「皆、手、痛いでしょう」


 雨が顔へ流れた。私は袖で拭くこともできず、瞬きをした。


「今、休めるところ探してる」


 できるだけ普通の声で言った。


「そこで下ろすから」


 照子は返事をしなかった。


 私は野原さんの指す場所へ足を出した。まだ誰にも置いていけと言われていなかった。担架は四人の手の中にあった。


 それでも、照子の「もう、いいよ」が耳から離れなかった。


 下ろす場所を探すたびに、私は、もう一度持ち上げられるだろうかと考え始めていた。

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